ウクライナ大統領と「虞美人草」

 漱石の「虞美人草」は漱石朝日新聞社に移っての第一作なので、張り切りすぎたのであろう、美文調過剰の小説で「春はものゝ旬になり易き京の町を、七條から一條迄横に貫ぬいて、烟る柳の間から、温き水打つ白き布を、高野川の磧に数へ盡くして、長々と北にうねる路を、大方は二里餘りも来たら、山は自ずから左右に逼つて、脚下に奔る・・・」(漱石全集)といった調子でとても読む気がせず、巻頭以外は読んでいなかった。
 それでこの小説についての知識はもっぱら吉本隆明氏の「夏目漱石を読む」(筑摩書房2002)からの知識による。吉本氏もこの小説は美文調かつ講談調でとても優れたものとは言えないが、一箇所、「文学の初源性」ともいうべき非常に素晴らしい箇所があり、それ故、この小説がとても優れたものになっているとしている。

 宗近君はじっと甲野さんを見た。
「甲野さん。頼むから来てくれ。僕や阿父(おやじ)のためはとにかく、糸公のために来てやってくれ。」
「糸公のために?」
「糸公は君の知己だよ。御叔母さんや藤尾さんが君を誤解しても、僕が君を見損なっても、糸公だけはたしかだよ。糸公は学問も才気もないが、よく君の価値(ねうち)を解している。君の胸の中を知り抜いている。糸公は僕の妹だが、えらい女だ。糸公は金が一文もなくっても堕落する気遣のない女だ。・・・(吉本氏の本からの引用。「漱石全集」とは大分字などが違う。)

 宗近君は学業不振の冴えない青年である。しかし、ここへきてすっと背丈が伸びる、そして一世一代の大演説をぶつ。
 人間というのは、ある時、急に背が高くなる時があって、それがあるから人間というのは捨てたものではないのかもしれない。
 なんでこんなことを書いているのかというと、ひょっとすると今回のウクライナの事態でゼレンスキー大統領にも同じようなことが起きたのではないかというようなことを思いついたからである。
 とにかくウクライナという国は汚職がありとあらゆるところに蔓延していて、ほとんど国家の体もなさないような酷い状態であったらしい。そこに大統領になったのがコメディアンあがりの、映画でたまたま大統領役を演じたというだけの人間である。ロシアから見ていれば、あんな国やあんな大統領、戦車を少し多く並べて威嚇するだけで直ちに降伏するだろうし、大統領は尻尾を巻いて逃げ出すだろうと考えていたとしても、少しも不思議ではない。
 ゼレンスキー氏は以前から秘めていた信条をここで初めて明らかにしただけなのだろうか? それともここで変わったのだろうか?
 そんなことはもちろん誰にもわからないが、わたくしなどは当初、西側に振付師がいて、大統領はそれに従っているだけだと思っていた。氏の服装もまたそうだと思っていた。
 また、腐敗しきっていた国の国民が国家を守るために急に一致団結するという話も、にわかには信じがたい。個人だけにではなく国家にも背丈が急に伸びるというようなことがあるのだろうか?
 また一方のロシアの大統領の頑なさも理解しがたい。単なる面子とか権力への執着という次元を超えているように思う。ひょっとすると氏も一種の神秘体験のような経験をしているのだろうか?
 P.D.ジェイムズの推理小説「死の味」で起きる事件で死ぬ一人は元国務大臣で、ある教会を訪れたときに何らかの神秘体験をして人が変わってしまい、大臣職を離れたという人間であるとされているが、その体験の内容は描かれていない。というか、それは小説という形式ではあつかうことが出来ない、われわれの理解をこえる何ごとかなのである。
 人間が変わりうるということはわれわれの希望なのではあるが・・。