鹿島茂 「吉本隆明1968」 (2)転向

    平凡社新書 2009年5月
 
 転向についての吉本氏の論はかなり有名だと思うので、内容の詳細ははぶく。周知のごとく(かどうかはわからないが)氏は転向を二つにわける。有名な佐野・鍋山の転向と、宮本顕治の非転向である。そして宮本顕治の非転向をこれも一種の転向だとしたのが吉本転向論の肝である。
 知識人が知識を身につけ論理的な思考法を自分のものとして、その知識から日本をみると、日本の現実とあわない。すると、日本の社会の実体など理にあわないつまらないものとみえてきて無視するようになる。しかし何らかの理由で日本の現実と直面せざるをえなくなると、その日本の現実、日本の封建制の持つ強さの一面に愕然とし、今までそれについて考えてこなかったつけがまわってきて、一気に理論を捨て、現実と一体化してしまう。それが佐野・鍋山らの転向であったのだという。一方、宮本顕治の場合は、論理の自己回転である。思考は社会の現実構造と対応することはなく、思考自体が自動的に完結してしまう。そこでは記号のやりとりだけがおこなわれ、実体として喚起されるものがない。理論は現実により検証されない。それなら論理的な整合性が信じられる限りにおいて、転向は必要とされない。本当は状況の変化に応じて変えなければいけないものを変えない。ということは本当は転向しているのであるという理屈である。理屈としてはそれなりに通ってはいるが、これもまた理屈にすぎないといもいえるように思える。
 ここでの問題は普遍性である。鹿島氏は、たとえばヴァレリーやジッドあるいはサルトルといったひとたちの文学や思想は19世紀から20世紀にかけての成熟したフランス・ブルジョア社会の構造を背景してできてきたものなのであるにもかかわらず、それを数学の定理や物理の法則のように万古不易のようにうけとったのがいけないのだという。しかし、マルクス主義はその普遍性を主張したのではないだろうか? 経済力が変化すると自ずから社会は変化する。下部構造が上部構造を規定する。マルクス主義があれだけの力を持ったのは普遍主義の装いをまとっていたからなのではないだろうか? 
 吉本氏は「日本的な封建制の優性」ということをいう。封建制にだってまともな部分があるぜ、ということである。それを証明するのが、上記の転向の二つの道とは違う第三の道としての中野重治の「村の家」である。主人公勉次の父孫蔵は転向して故郷に帰ってきた勉次に「おまえがつかまったと聞いたときにや、おとっつぁんらは、死んでくるものとしていっさい処理してきた。小塚原で骨になって帰るものと思て万事やってきたんじゃ」という。それを鹿島氏は武士のエートスという。前近代的であっても論理的にまっとうであるひとを「日本封建制の優性」部分と吉本氏はするのだと。孫蔵は勉次にいう「おとっつぁんは、そういう文筆なんぞは捨てるべきと思うんじゃ。」 それに対して勉次は、「いま筆を捨てたらほんとうに最後だ」と思い、「よくわかりますが、やはり書いて行きたいと思います」と答える。
 
 これを読んでいてすぐに思い出すのが、吉本氏の「夏目漱石を読む」(筑摩書房 2002年)のなかの「虞美人草」の章である。「虞美人草」は美文調の読みにくい小説だが一つだけいいところがある、といって紹介するのが宗近くんの甲野さんへの大演説の場面である。そこには文学の初源性があるという。インテリである小野さんや甲野さんとくらべるとはるかに劣等生である宗近くんが一番立派なのである。宗近くんは、甲野さんに妹の糸子をすすめる。「糸公は学問も才気もないが、・・えらい女だ。糸公は金が一文もなくっても堕落する気遣のない女だ。糸公は尊い女だ、誠のある女だ。正直だよ・・」
 この同じ場面をそっくり引用して激賞しているのが、「「おじさん」的思考」(晶文社 2002年)の「「大人」になること ー 漱石の場合」での内田樹氏である。「こう云う危ない時に、生まれ付きを敲き直して置かないと、生涯不安で仕舞うよ。いくら勉強しても、いくら学者になっても取り返しは付かない。此所だよ、小野さん、真面目になるのは。世の中には真面目は、どんなものか一生知らずに済んでしまう人間が幾何もある。皮だけで生きている人間は、土だけで出来ている人形とそう違わない。真面目がなければだが、あるのに人形になるのは勿体ない。真面目になった後は気持ちがいいものだよ。・・」
 わたくしにはこの宗近くんの演説が、孫蔵の言葉と重なる。そして宗近くんの背後には天保老人である宗近くんの父がいる。江戸のエートスである。内田氏はいう。「「真面目」とは、まっすぐに相手の顔に向き合うということである。/ まっすぐに相手の顔に向き合って、「あなたのことが気がかりなんだ」と告げる、ただそれだけのことである。その人間としてもっとも基本的な「構え」を宗近くんとその一族は「家風」として継承してきたのである。」
 この前でてきた小林多喜二の「党生活者」の登場人物たちが駄目なのは、ひとりとして「まっすぐに相手の顔に向き合っていない」からである。同じ「夏目漱石を読む」の「それから」の章で、吉本氏は、主人公の代助のことを「西欧文明社会を真面目に受け入れ、それに乗っかって大きくなってしまった近代日本の社会を肯定するわけではないが、仕方なしにそのなかで生きて複雑な関係とせつない思いをさせられている知識ある生活無能者の在り方が象徴されている」といっている。代助は「就職して働き、生活を営むことが、知識の純正さを殺し、汚穢にまみれ、この社会の片隅に押しやられて、卑小になることだという先入観をもっている」と吉本氏はいう。これは「党生活者」の「私」とほとんど重なる。違うのは漱石が代助の不幸をわかっており、日本が近代化したことを少しも肯定していないのに対して、小林多喜二は「党生活者」の「私」を少しも不幸なひとであるとは思わずに肯定されるべき人物として描き、日本の近代も打倒すべきものであると思ってはいても、それは歴史の進歩を信じているからなのである。
 鹿島氏がいうように、吉本氏は「近代日本の直面するあらゆる問題」ととりくんだとすることについては異論はないが、しかしそういうことは明治以降のまともな文学者や思想家ならだれでもしてきたことのはずで、吉本氏をそのことによってとくに偉大だとするにはあたらないように思う。吉本氏が特異なのは氏が左のほうの人間(とは認めないひとも多いかもしれないが)であるにもかかわらず、近代化の問題点にこだわるという点で、普通それは右側の人間の仕事なのである。吉本氏は近代化のマイナス面から目を背けることはないが、そうかといって文化とか伝統とかあるいは国柄とかさらには天皇とかいう方向にいくことも決してない。
 「大衆の原像」という言葉がいいのは、そういう右的なイメージを喚起しない点である。吉本氏は近代主義者でない「左翼」という点で特異なのである。しかし、それならば「左翼」というのは何をもって定義されることになるのだろうか?
 

新書459吉本隆明1968 (平凡社新書)

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夏目漱石を読む

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「おじさん」的思考

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