吉本隆明 「超恋愛論」
[大和書房 2004年9月15日初版]
まあ、恋愛について論じた本です(笑)。で、恋愛というのは「細胞と細胞が呼び合うような、遺伝子と遺伝子が似ているような−−そんな感覚だけを頼りにして男と女がむすばれ合う」ものなんだそうです。なにしろ、それは覚醒剤をのむようなもので「身体中の細胞がいっせいに目覚めるようなあの感じ、今まで寝ていた神経が起き上がったようなあの実感」なんていわれても、わからないものにはわからない。覚醒剤をのんだこともないし。
面白いのは、漱石が理想の女性として描いた「坊ちゃん」の清とか「虞美人草」のお糸さんとかフェミニストからいうと許しがたい人物を吉本もよしとしているようであることで、漱石自身は大嫌いで悪女だと考えていた「虞美人草」の藤尾を、フェミニストたちが理想の女性としているのを、なんとも早という口ぶりで紹介している。
恋愛といっても、楽しいおしゃべりをしていればいいということはなくて、現実に飯の支度をどちらがするかというようなことが大事で、それは日本の後進性によるのだというのだが、でもそれが日本のいいところでもあって、なぜなら西欧の男はそういう点に無自覚だからだという。先進国の人間は無自覚でも生きていける。しかし後進国の男は飯の支度をどちらがするかといったどうでもいいくだらないことでばたばたしている、でもその分ものを考えるのだと。
女性の可哀想なところはまとまった自分の時間が持ちにくいところであると。
漱石の小説では三角関係が多い。もし西洋の小説なら、三角関係になったら、女がどちらかの男を選ぶ。しかし漱石の小説でははじめからそのような可能性は考えられていない。それが日本の後進性であり、西洋風の自我がそのまま日本には通用しないことを示すのだという。世間での評価と自己認識のギャップという問題はかなり日本的なものかもしれない。それが漱石的な三角関係を生む。
とまあ、どこかで聞いた話のくりかえしではある。吉本が北村透谷的恋愛に否定的であるにもかかわらず、自身の恋愛というのはそれに近いものなのかもしれない。なんだか恋愛についてだけはえらく近代的なのである。
(2006年4月19日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)
- 作者: 吉本隆明
- 出版社/メーカー: 大和書房
- 発売日: 2004/09
- メディア: 単行本
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