夏目漱石「三四郎」

 
 あまり面白くなかった。
 前半はまだしも、三四郎がうじうじグズグズと美禰子のことを思い続けるだけの後半は退屈である。とにかく、何もしないのだもの。
 「三四郎」は田舎の青年が都会にでてきていろいろ経験していく様を描こうとしたのであろう。しかし青年がすることは何も恋愛だけではないはずである。
 朝日新聞社に入った漱石は、とにかく「小説」を書こうとしたのであろう。そして小説では日本を、明治という時代を、そこで生きる人間を総合的に描こうとしたのであろうが、そこには恋愛も必要だから、恋愛も書こうとしたのである。それで「虞美人草」では、藤尾という変なヒロインを創造した。それがうまくいかなかったことを自覚したのであろう、捲土重来、「三四郎」では美禰子という女性を出してきた。美禰子は藤尾のヴァリエーションなのである。しかしごく普通の男女接触のほとんどない「男女七歳にして席を同じうせず」の社会では、恋愛を描くことなどは土台無理である。その無理が藤尾や美禰子をいたって現実感のない小説の中でしかいそうもない人物とさせた。「三四郎」まで書いてきて、漱石は西洋風の恋愛小説を書くことは断念したのだと思う。次の「それから」の三千代は一見、そういう無理がみられない造形にはなっている。しかし、よく見てみれば、花瓶の水を呑むなんて変なことをしているのだが。
 「それから」で漱石は、西欧風の小説の書き方でない自分流の書き方を発見したのであろう。同時に、日本の問題ではない自分の問題をも見つけたのであろう。「門」以降は、「虞美人草」や「三四郎」とは明らかに異なる小説となっていった。少なくとも朝日新聞入社当時に書こうとした小説とは異なるものとなっていったはずである。それをよしとするかどうかは評価の分かれるところであろうが。
 「偉大なる暗闇」廣田先生は、「猫」の苦沙彌先生の後裔であり、また坊ちゃんの影も引いているのであろうが、漱石の理想像のひとつではあったのだろう。傍観者である。しかし一方では漱石には明治の世の導き手たらんとするところもあって、それが漱石の複雑なのである。第一、傍観者は小説を書く必然をもたない。広田先生は何も書かないひとである。
 三四郎はあまりに初心な青年である。なんだかあまり知的にもみえない。もっと知性を、そして「猫」の批判精神を持たせたら面白くなっただろうに。それにもっと行動的にすればいいのに。しかし、「あなたは余つ程度胸のない方ですね」といわれるからこそ三四郎は魅力があるのであって、度胸のある行動的な人間にしてしまうと、読者からは反感を買うのかもしれない。難しいところである。