夏目漱石「それから」

 
 凄い小説。これを今まで読まずにいたなんて。全然、読むのが苦痛でなかった。
 読まずにいたのは、ひとつにはこれが「高等遊民」を描いたというようにいわれていて、そんなのはいやだなと思っていたことがある。しかし、ここに描かれているのは「高等遊民」ではない。遊民であるためには、恒産があって independent でなれればならない。主人公は、父に寄生して生きる、恒産のない dependent な人間である。これは「高等遊民」を描いたものではないよ、ということを誰か教えてくれれば、もっと早く近づけたかもしれない。
 最初の「誰か慌たゞしく門前を駆けて行く足音がした時、代助の頭の中には、大きな俎下駄が空から、ぶら下がつてゐた。けれども、その俎下駄は、足音の遠退くに従つて、すうと頭から抜け出して消えて仕舞つた、さうして眼が覚めた」の書き出しから、その後、代助が胸に手を当てて心臓の鼓動をきいているところ、そこにある「彼は血潮によつて打たるゝ懸念のない、静かな心臓を想像するに堪へぬ程に、生きたがる男である」という描写、それから歯を磨きながら、「歯並の好いのを常に嬉しく思つてゐ」たり、鏡の前で自分の肉体に満足している描写、その文の勢いに感嘆するとともに、自意識過剰のひとの滑稽を描く筆の冴えに驚嘆した。ここの描写は完全に客観描写である。「門」がはじめから宗助と御米の側にいるのと好対照である。「それから」では代助が登場人物の一人となっていて、漱石の意見の代弁者ではない、それが大事なのであると思う。
 これは一種の「ドン・キホーテ」の物語である。ドン・キホーテが騎士物語を読み過ぎて、現実がわからなくなったひとであるとすれば、「それから」は、代助という人物が西洋の本を読みすぎて、現実がみえなくなり、そのため世間からずれ落ちて、次第に狂っていく。
 代助の相手である三千代も読者からみればいやな女である。最初平気で金を借りにきていたと思えば、最後は生活に疲れて何か劇的なものが自分をさらっていってくれないかと自暴自棄になっている女であるのに、代助から見れば崇高な「愛」の対象なのである。「ドン・キホーテ」で、村娘がお姫さまになるようなものである。代助は最初、友人に女を譲るという騎士道精神を発揮し、後では「愛」に殉じるという別の役に酔う。そのどちらも西洋からの輸入品なのであり、身についたものではない。
 「それから」は代助という頭のひとが、西洋からの輸入概念に振り回されて自滅していく物語である。代助に関心があるのは、自分だけであり、仕事につかないのも、自分が自分であるためには仕事をしてはいけないからであり、あるときは友人に女を譲るのが自分らしいことであり、時が移ると「愛」に殉じるのが自分らしいことになる。おそらく、西洋が日本にもたらした最大の害毒が、自分への過剰な関心なのである。
 どういうわけか本書を読んで、三島由紀夫の「春の雪」と、開高健の「夏の闇」を思い出した。「春の雪」は典雅で古典的な恋物語を装ってはいるが、その実、きわめて近代的主人公である松枝清顕の自意識の物語であり、また「夏の闇」の最後の、主人公が環状線に乗って東西ドイツを往還する場面が、最後の「代助は自分の頭が焼き尽きる迄電車に乗って行かうと決心した」と通じるように思った。
 そういうわけで、この小説を終始、滑稽小説の傑作と思って読んだのだが、岩波の全集に付された小宮豊隆の解説によれば、これは運命的な「愛」によって、人の掟には背いても、天の掟には背かない二人を描いたものなのだそうである。そんなことを言ったら渡部淳一の「失楽園」だって同じじゃないかと思うわたくしは、おかしいだろうか? 「かつては、寝ないことがフェミニズムであった。そして今は、寝ることがフェミニズムでなのである」(丸谷才一)という時代背景の違いはあるとしても。
 これを、恋愛の滑稽を知識人の滑稽と結びつけた稀有な滑稽小説であるとみるわたくしは変なのだろうか? 漱石の小説にいままであまり関心がなかったので「それから」の批評もあまり読んではいない。だから、よくはわからないのだが。それで、本棚から何冊かひっぱり出してきた。
 小谷野敦氏の「男であることの困難」に収められた「夏目漱石におけるファミリー・ロマンス」では、代助を最初に誘惑したのが三千代であり、その誘惑によって代助の中に「愛」が生まれた、という指摘がある。いたってあたりまえに指摘のように思うのだが、小谷野氏によれば、これは今まで見過ごされてきたのだそうである。従来は、最初から代助が三千代を愛していて、それが自分の中でどうにも抑えられなくなってくる物語として読まれてきたのだそうである。どうしたらそんな読み方ができるのだろうか?
 恋愛において能動的なのは女の側であり、愛するのは女、愛されるのは男、男は恋愛においてお猿さん並みの感受性しかなく、わかるのは愛されることの心地よさだけなのである、ということを三島由紀夫がどこかで言っていた。「坊ちゃん」の清は典型である。清は一方的に坊ちゃんを愛する。坊ちゃんはなぜそうなるのかわからないが、愛されていることの心地よさだけはわかる。清と坊ちゃんの関係を恋愛であるというものはいないであろうが、漱石にとって現実的であった恋愛はこっちの方なのであると思う。「それから」でえがかれる恋愛は、いたって抽象的で観念的なものである。
 また、小谷野氏は、代助の「自然の児になろうか。又意思の人になろうか」という煩悶を、撞着語法であると指摘する。天意に沿うのが自然の児になるということなのだから、それを意思をもって選ぶということがすでに天意に沿うことではない。代助は恋愛することを選ぶのである。代助の上に恋愛があるのではなく、恋愛の上に代助がいる。
 大岡信氏の「拝啓 漱石先生」に収められた「漱石と「則天去私」」は氏の卒業論文なのだそうであるが、その中で、「それから」の漱石は「行雲流水、自然本能の発動」たる恋愛を描こうとして失敗したとしている。漱石は鏡子夫人が自分を少しも理解しないことに悩み、霊の感応によって互いに理解しあえる、宿命で結びつく神秘的な恋愛を描こうとしたが、失敗したというのである。それは漱石において「愛」は観念であり、現実のものではなかったからなのだ、と。「それから」において、恋愛は抽象的にはじまり、抽象的に終わる、と。
 そうであるなら、この小説は近代人の自意識過剰の無残を描く滑稽小説として読んだほうが、よほど素直なように思う。これは漱石にとって、どうしても書かずにはいられない小説であったのであろう。漱石の筆は踊っている。
 力のこもった、きわめて充実した作である。これを書いたら、とても疲れるだろうと思う。で、次の「門」では休みたくなったのかもしれない。今、「三四郎」を読み出したが、なんだかダルである。「それから」は漱石の中でも稀有な作品なのかもしれない。