夏目漱石「明暗」

 
 漱石の長編小説を読むのは「坊ちやん」「吾輩は猫である」「虞美人草」「三四郎」「それから」「門」「こころ」に次いで8つ目。もっとも「こころ」は高校生の時だから、大人になってからは7つ目。一読して思うのは漱石はなんと小説を書くのがうまくなったのだろうということである。職業作家としてたつことをきめて最初に書いた「虞美人草」などに比べると小説を書くということを実に自由にできるようになってきている。小説の秘訣をようやく手に入れたという思いを、このころ漱石は得ていたのではないだろうか? 小説作法を自家薬籠中のものとした。そうであれば、「いま死んじゃ困る」という気持ちもわからないではない。これから小説をいくらでも自由に書けるようになったというのに、なんでそんなときに死ななればならないのか?
 そうはいっても出てくる人物が魅力的であるわけではない。津田という主人公はいままでの漱石の作品の系譜そのままの人物である。この「明暗」という小説を動かす力は主人公の津田の稼ぎの不足である。そうだったら話は簡単で、もっと稼げる仕事を探すという方向にいかなれば嘘である。しかし津田という会社務めとはされているが、学問?をなりわいとするらしい男はそういう方向へは一切頭がまわらなくて、親に金をかりるというそういうことしか考えないのである。「猫」の金田一家への軽蔑から一貫して実業世界への不信が漱石の作にはある。そうはいっても朝日新聞社への就職にあたって漱石は徹底した身分保障を求めているのであり、「手当の保障、是をむやみに免職にならぬとか、池辺氏のみならず社主の村山氏が保障してくれるかということ」「何年務めれば官吏でいう恩給というようなものが出るにや、そうしてその高は月給の何分の一に当たるや」・・、金の力ということは身に染みてわかっている。漱石にとって小説を書くことは朝日新聞社員としての「仕事」なのであり、渡部昇一氏のいう「色相世界」での話ということになる。
 ここに出てくる、吉川夫人もお秀も、そして極め付きの小林という男もとにかくいやな人間で、そういう人間をこれだけ緻密に書けるのだから漱石自身もまたそういういやらしさを自分の中に自覚していた人間であろうことは間違いない。そんな人間ばかり書いていたのでは書くのがいやになってしまうのではないだろうか? おそらくその中の救いとして導入されたのがお延という女性であって、「たゞ愛するのよ、さうして愛させるのよ。さうさへすれば幸福になる見込は幾何でもあるのよ」というこの小説のなかでの一番有名であるであろう台詞がその予感を示すものとなっている。そうではあるが、なにしろ未完に終わってしまった小説であるので、お延がどのように変容していくことになっていたのかはわからない。津田みたいにつまらない男の愛されても仕方がないのではないかという気もする。それよりもここでお延がいっていることは、結婚生活の中で女が仕合わせになることはとても難しいことであって、それは「たゞ愛するのよ、さうして愛させるのよ」というようなことで疑似的に実現するしかないのだというようなことかもしれない。そうであればこの小説の構想は、お延が「愛させる」ようにする努力をやめて、津田を捨てて自立していくというような方向であったのかもしれない。
 そうでないとつまらない自我同士がどちらが相手の上にたてるかを競う小人同士のせめぎあいの世界であり、以前の作品での清だとか宗近くんだとかお糸さんといった相手の誠意を信じられるひとがひとりもでてこないつらい世界になってしまう。漱石は「明暗」を書いているとき、午前中にこれを書き、午後には漢詩をつくっていたのだそうである(渡部氏のいう「白雲郷」)。そうだろうと思う。そうでなければバランスがとれないだろう。「チェーホフのいひたかつた、たつた一つのこと、他人の真実を信ぜよ − それができぬために、ことば、ことば、ことば。」(福田恆存チェーホフ」) 「ねえきみ、けつしてユダヤ女の変態や青踏派女子と結婚しちやいけませんよ。まあなんでもいゝから、あまりけばけばしい色彩のない、よけいな鳴りものいりでない、平々凡々たる灰色の女を選びなさい。そして全体になるべく型にはまつた、月並な生活をするんですな。」(チェーホフ「イワーノフ」)
 ここに出てくるお秀も吉川夫人もユダヤ女の変態や青踏派女子の亜流の嫌疑がある。そうなることなくお延が変貌していけるかというのがこの小説の構想であったのだと信じたい。
 
 ところでこれを、iPod toutch の「i文庫」のなかにデフォルトで収載されている「青空文庫」の一つの作として読んだ。iPad で読んだ村上龍の「歌うクジラ」についで電子書籍として読む小説の二作目となった。iPad はテキストだけを読むリーダーとしては少し大きすぎる(それに冬は背部の金属部分が冷たい)。iPod toutch は少し小さすぎるのだが、それでも十分読めることがわかった。フォントがよくできているのであろう。振り仮名をふくめて十分に読書可能である。それで今は「道草」を読んでいる。これはあまり面白くないが・・。
 文庫本より小さいので、満員電車の中でも読書可能である。しばらくこれで、未読の漱石の作品を少しづつ読んでいきたい。(なお現代仮名遣いになおされているので、引用は岩波の「漱石全集」からとした。)