内田樹 平川克美 「東京ファイティングキッズ」

 [柏書房 2004年10月12日初版]


 内田樹とその小学校以来の友人であり、ヴェンチャー企業?の社長である平川氏の往復書簡(インターネット上での公開されたやりとり?)をおさめたもの。平川氏がそういう人間であるので、現代日本で働くことについてが大きなテーマとなっていいる。以下それぞれの主張をひろってゆく。
 
 〈平川〉:自分たちが若いころは、「お金では買えないものがある」と信じていた。しかし、この十年というもの、お金にすべての価値が集約されてきている。1994年ごろを境にそういう変化がおきてきているのではないだろうか?
 〈内田〉:「額に汗して働く」ということのオーラがなくなってきた。以前に社会主義を象徴する画像であった鎌やハンマーをもった労働者というのは誰の共感も呼ばなくなってきている。
 〈平川〉:1994年にアマゾン・ドット・コムができた。これは人件費と管理費のない会社というモデルを作り、実際には少しも利益がでていない時代から、将来性を買われて株価が上がった。その結果、若者が企業家ではなく投資家を目指すようになった。
 〈内田> :存在するものを売り買いする時代から、存在しないものを売り買いする時代になってきた。本来、物づくりは、儲かることより、その過程の物づくりを楽しんでいた。
 〈平川〉:収益の確保と理念の実現は相反する原理である。その両者をどのようにバランスするかがビジネスの醍醐味である。仕事は結果ではなく途中が面白いのである。
 〈内田> :それは、学問でいうオリジナルであることと説得力をもつことと対応する。科学的ということは、他人の了解と承認を広範囲かつ持続的に得ることができるということだけである。われわれがある文を読んでつまらないと感じるのは、その文章がお前などは相手にしていないと語りかけているように見えるときである。
 〈平川〉:他人の尊敬だけは金で買えない。しかし、今のアメリカは敬意を力で得られると考えている。アメリカではステイタス=レスペクトなのである。アメリカの市場主義と民主主義はそれを前提に機能している。そこに欠けているのは、それを受け入れないひとをも受け入ようとする知性である。アメリカの知性は照れるということがない。
 〈内田〉:消費の単位が共同体→家族→個人と縮小してきた。家族が解体したほうが資本主義にとっては有利である。一家に一台のテレビが一人一台となる。嫌な姑と住みたくないと思えば、家がもう一軒必要になる。しかし、個人は子どもを産まない。やがて市場は縮小してゆき、個人を支えていたキャリアを維持できなくなる。アメリカン・フェミニズムが成立したのは、アメリカが例外的な「人口増加国」であることによるという事実から、日本のフェミニストは目をそらしている
 〈平川〉:プライバシーが第一となる社会はきわめてコストの高い社会である。
 〈内田〉:すぐれた経営者は、会社の中で一番最初に事業の失敗の兆候に気づき、撤収!といえる人である。だめな経営者は、まわりからもう手を引きましょうといわれても、自分が作ったビジネスモデルにしがみつく人間である。
 中世においては、すべての人間に知性が平等に与えられているとは考えられていなかった。デルメディコという思想家は「知的訓練を受けた賢者」と「受けていない大衆」を峻別し、形而上学的な宗教批判は大衆には許されないとした。なぜなら、大衆はそうするとすぐ無神論に走ってしまうから。
 賢者とは「世界の無根拠性を看破した上で、それでも世界に意味があるとすれば、それは私たちが創造しなければならない」と考えるものをいう。
 大衆とは「世界には意味があり、それは自分でない誰かが担保している」と考えるものをいう。
 似非哲学者とは「世界には根拠がなく、人間の行動を律するどのような超越的規範も存在しないと」と考えるひとをいう。
 真理性だけを信じているひとは現実性の希薄な「科学主義」に閉じこもってしまう。
 政治性だけを信じているひとは理路をねじまげ、データを改竄することをためらわない。
 この二つを架橋するものは「身体」である。腑に落ちるということである。
 レヴィ=ストロースは、人間には自分が何かを達成したときに、それを獲得であると感じないで、それを贈与であると感じる能力があり、それを人間性であるとした。
 自分は一宿一飯の恩義があるから、それに報いなければと思うことと、お前は一宿一飯の恩義があるのだからおれに報いよと命令することには、天地の差がある。
 自分という存在は誰かの贈与によって今ここにあるとする感覚、それが宗教性である。
〈平川〉:大学が宗教性などといった経済合理性を超越したものも扱える場でなければ、経済合理性自体を批判検証できなくなる。しかし大学も経済合理性に則らなければ自身が存続できない。
 〈内田〉:大学は学生がリアルな現実に直撃されてくたばらないためのアジールである。しかし、そのアジールを逆用し、そこにいれば罰されないということを利用して破壊と暴力を行使することがかつて行われた。保護されていることに恥じ入るという感覚がなかった。
 大学の使命は、永遠に解答がない問いに、ここに難問ありとアンダーラインを引くことにつきる。
 〈平川〉:現在日本の息苦しさは、アジールがどこにも見つからなくなっている点にあるのではないか? 脛に傷をもつもの、敗残兵や負け犬が生きられる場所がどんどん狭くなってきている。
 功利性、実用性の追求、実践優位の思想というのは「知能主義」であって、「知性主義」とは正反対のものである。現在の大学は「知能主義」に冒されている。
 しかし吉本隆明がいう、千年に一度の巨匠も市井の片隅で生き死にする無数の大衆も等価であるという視点は重要である。偉そうなことをいっているが、それが何の役にたつのだという批判の視点は忘れてはならない。ビジネスの世界の凄いところは、「で、それは儲かるの?」という批判が根底にあって、自己陶酔を許さないところにある。崇高な知性も鉄パイプ一本で破壊されてしまう。
 〈内田〉:「ぼくはここにいて、いつでも君をみまもっているよ」というひとが誰かいると、人間はほっとできる。人間は『宝島』に出発する人間と、港で見送る人間の二種類がある。自分は港で見送る人間なんだということが二十代のどこかでわかった。
 机上で不敗の議論は、現実の場にでるとぼろ負けの思想となる。机の上でも現場でもそこそこに使える思想が結局最後に残るのではないだろうか?
 学校本来の機能は、家庭と市場の中間にある中途半端な場所であることなのではないだろうか? 
 〈平川〉:港で見送る人間とは、マザーシップなのではないだろうか? ファザーシップとは峻厳な審問官であり、マザーシップとは許す人、見守る人である。さてそれではチャイルドシップとは? 無垢?
 〈内田〉:マザーシップを荷うのは女性である必要はない。アメリカ社会はきわめて父性的な社会であって、マザーシップがあまり評価されない。アメリカでマザーシップを荷っているものは、「ゲイ」と「爺や」である。アメリカ社会は女性がマザーシップを果たそうとしたら、「ママ」になるしかなく、男がマザーシップを果たそうとすると「ゲイ」か「劣等男性」になるしかないというきつい社会なのである。
 アメリカは老いや病に価値を見出せない社会である。
 人間の知性は「なんだかよくわからない」という未分類のカテゴリーを持てる点にある。
 先日、養老孟司と対談した。あまりに掟破りで怖いもの知らずの悪童なので、時々、「先生、もしかすると、世間舐めてません?」といいたくなった。
 
 以上見てとれるように、最初の仕事の話から、段々とテーマは大学論、アメリカ論へと広がってゆく。
 1994年が境目かどうかはわからないが、もし同じ収益がえられるならば、その仕事は等価値であるという見方が広がってきている。投資的な事業をして、それが物づくり以上の収益があげるならば、そのほうが事業としては優れていると考えられるようになってきた。事業にも貴賎があるという考えは過去のものとなってきた。
 そこで、この往復書簡ではレスペクトということが問題とされることとなる。この辺りの議論は、読んでいてフランシス・ハヤカワの「歴史の終り」を想起させた。人を動かすのは承認願望であるという議論である。このハヤカワの本はヘーゲルの「精神現象学」に依拠しているわけであるが、少なくともアメリカにおいてもしばらく前までは金がすべてではないとされていたわけである。
 以前は収益は上がらなくてもレスペクトされる仕事と、非常な収益が得られててもレスペクトされない仕事があった。もしも収益がすべてであるならば、たくさんの収益を得たものがレスペクトされることになる。アメリカはそのような社会であるのかもしれない。日本もアメリカのようになるべきである、というのがここ10年くらいの動きである。しかし拝金主義などという言葉ある日本では、完全にアメリカ的になることはないように思うのだが、甘いだろうか?
 さて、「知的訓練を受けた賢者」と「受けていない大衆」の峻別というのは大問題である。その峻別が世界の惨禍を引き起こしてきたというのがポパーの論である。世界の真理を知ったものが、無知な大衆を善導するという理論が不幸を招くというのである。その最新版がマルクス主義であるとポパーはしたわけだが、現在のグローバリズムへの動きというのがあるいは最新版なのであるかもしれない。内田は、世界の真理を知ったなどと思う思い上がりはそもそも知的でないというかもしれない。しかしマルクスは間違いなく知性の人であった。
 賢者とは《「世界の無根拠性を看破した上で、それでも世界には意味があるとすれば、それは私たちが創造しなければならない」と考えるものをいう》、というのはカソリック的な論理である、それが、《大衆とは「世界には意味があり、それは自分でない誰かが担保している」と考えるものをいう》という理解と結びつくと、ドストエフスキーの「カラマゾフ」の大審問官の論理に至る。蒙昧な大衆は虚無に耐えられないから、まがいものの生きがいを与えておけばいいという論理である。本当の賢者は世界には意味がないという真理を知っても、それの耐えていけるだけの強さをもつ。あるいは自分ひとりで自分の生の意味を築きあげるだけの知性をもつ。
 しかし、問題は世界に意味がなければならないのだろうかということである。世界に意味がなければならないとすることは、その要請において、すでに裏口からそっと、世界に意味を与える超越者を呼び込むのである。ネコは世界に意味がなければいけないなどとは思っていない。当たり前である。そのことに絶望してネコが自殺するなどということもない。当たり前である。それならば人間も動物の一種として、世界には意味がなくても生きていけるのではないだろうか?
 「世界には根拠がなく、人間の行動を律するどのような超越的規範も存在しないと」と考えるひとは似非哲学者なのであるという。そうであるならば、わたくしは間違いなく似非哲学者である。ネコもまた似非哲学者である(もっともネコは言葉をもたず、考えないから似非哲学者でさえないのだが)。
 宗教は、人間が他の動物とは画然と異なった(あえて優れたとはいわないとしても)存在であるという前提から生じる。世界には意味があるかと問うこと自体、人間が他の動物とはまったく違った存在であることを前提とする。なぜならそんな問いは他の動物はしないから。
 真理性だけを信じているひとの現実性の希薄な「科学主義」と、政治性だけを信じるひとの理路のねじまげ、データ改竄のどちらでもないその中間が大事であるという。科学からいえば宗教は事実によって否定されるのであり、宗教からいえば、「人間」をまもるためには、事実を捻じ曲げることも許されるということなのであろうか?
 この二つを架橋するものは「身体」である、という。わかったというのが、頭ですることなのか、からだ全体ですることなのかということである。
 レヴィ=ストロースは、人間には自分が何かを達成したときに、それを獲得であると感じず、それを贈与であると感じる能力があることが人間性なのだとした、という。しかしこれは人間に生得にそなわったものなのだろうか? それとも文化によって獲得されるものなのだろうか? 一宿一飯の恩義という考えもまた文化によるのだろうか?
 自分という存在が誰かの贈与によって今ここにあるとする感覚が宗教性であるとされているが、それは単なる事実の認識なのではないだろうか。人間以外の動物には現在しかなく、歴史の感覚がないから、自分の現在が生命の歴史の結果であるなどとは考えない(そもそも考えることをしない)。人間は過去について思い、未来のことを思うことができる、そのことを宗教性というのであろうか? そうであるなら、人間に過去と未来を考える能力が与えられたこと自体が宗教と直結することになる。しかし、この考えもまた裏口から超越者を呼び込むやり方なのではないだろうか?
 大学=アジール論は面白かった。実は病院=アジール論を考えているので(これは病院の出自からいって当たり前なことなのだが、病院が近代化し、治療工場化することによって忘れられてきている大事な側面であるとも思う。その証拠に、診断書などはいまでも免罪符として使われている場合がある)。
 現在日本が息苦しいのは、無用の用などという考えが経済論理の前で一蹴されてしまうからである。畸人・変人にはえらく住みにくい時代である。
 自分はつくづくと、港で見送る人間なのであると思う。そして病院の機能とは、まさに一時的に港に避難させて、そこから送り出すことである。自分は案外と、医療には向いている人間なのかもしれない。港で見送る人間とは、マザーシップなのであるとすると、わたくしはえらく女性性に傾いた人間であることになる。少なくとも、峻厳な審問官というファーザーシップは、どこにもない。かといって、許す人、見守る人に徹することができているとも到底思えない。日々、ぐだぐだとあちこちを批判ばかりしているようにも思う。いづれにしても、アメリカに生まれなくてよかったことは間違いない。あるいは、アメリカに生まれたらゲイになっていたのかもしれない。
 「養老先生、もしかすると、世間舐めてません?」というのは面白かった。最高の養老賛美&批判である。
 
 とにかくいろいろと考える材料に充ちた刺激的な本であった。
 それで、平川氏の著書である「反戦略的ビジネスのすすめ」(洋泉社 2004年11月25日初版)を買ってきて併せて読んでみたのだが、これが不思議と面白くなかった。書いてあることは「東京ファイティングキッズ」とほとんど変わらないのだが、それでも楽しめないのである。往復書簡という形式で相互に批評しながら書く場合と、一人でモノローグとしてどんどん論理を進めていく場合とで、印象が全然違う。前者では相対化されて納得できた議論が、後者では偉そうというか独善的というか、腑に落ちない議論と化してしまうのである。これはどういうことなのだろうかと考えてしまった。延々とモノローグを書いていることの不健全なのだろうか? しかし内田氏の著書についてはそういう印象がない。それは内田氏は一人で書いていても、ダイアローグしながら書いているということなのであろうか?


(2006年4月19日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

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