前野隆司 「脳はなぜ「心」を作ったのか 「私」の謎を解く受動意識仮説」

  [筑摩書房 2004年11月15日初版]


 著者は主としてロボット工学の分野の研究者のようで、触覚とはどのようなもので、つるつるした感じとざらざらした感じをどうやって見分けることができるかといったようなことを研究してきた人らしい。それがあるとき、心の謎がとけた、心の原理を理解できたと思えたということで、その仮説につき公刊し、批判を仰ぎたいということのようである。著者は謙虚なひとで自分が発見したと思ったことは、よく調べてみるとそれに似たことをすでに何人かの人が論じているので、自分の独創とはいえないといっている。
 著者は良くも悪くも工学の人という感じである。文科系の人が心について論じる場合に見られる心への過剰な思い入れのようなものが微塵もない。
 自分の専門分野とは異なる異分野のことについて考えることは、先人の業績を十分にしらないだけにかえって大胆なことがいえる、ということはあるかもしれない。

 著者の用語によれば、「自分」とはハードウエアとしての身体を指す。その中に脳がある。脳の機能の一部に意識があり、それが「私」である。さらにはわれわれ人間は自己意識がある。それを〈私〉という記号で表現する。
 著者が依拠するのはニューラルネットワークのモジュールである。これを著者は「小びと」と呼ぶ。ニューラルネットワーク・モジュールについては、認知科学の分野で日々研究が進んでおり、その存在と機能については相当のところが解明されている。たとえば、われわれがりんごを見たときに、その丸い形、赤い色等々は別々のニューラルネットワーク・モジュールで別個に処理されていることが明らかにされている。しかし、ある意味ではまったく機械的に情報を処理しているニューラルネットワーク・モジュールの活動を統括しているのは何なのかということが問題となり、それが脳科学の最大の課題であるとされてきた。しかし、著者は、そのような統括する司令塔のようなものはないと主張する。つまり問題が解決したのである。問題は存在しないという形で。
 スポーツの練習をかんがえてみる。スキーでこぶを乗り越えることは最初はむずかしい。しかし、何回か失敗していくうちに、こぶを予知したときに事前に体が準備できるようになる。これはこぶという環境が身体内にとりこまれたと考えることができる。物体としての体は外部と明瞭に区別できるが、現象としての体は環境との境が曖昧になってくる。
 現実に情報処理しているモジュールの側から見ると、身体が実際におこなっていることと、それをおこなっていると想像していることの区別はつかない。つまりニューラルネットワーク・モジュールの側からみると、身体内と身体外の区別はない。
 知・情・意をうけもつ無数の小びとたちがあり、それらは相互に連絡しあっている。また記憶をうけもつ小びとたちも無数にいる。それらもまた相互に、あるいは知・情・意のモジュールと連絡しあっている。記憶には言葉で書きあわらすことのできる記憶(宣言的記憶・・・エピソードの記憶や意味の記憶)とそれができない非宣言的記憶(からだで覚えていることなど)がある。
 1983年に発表された有名なリペットの論文がある。われわれがたとえば手を曲げようとするときに、手を曲げようと思う前(0.35秒前)に脳の中では電気信号は発せられているというものである。現在までリペットの実験は複数の人間が追試しているが、それを否定したものはいない。これは素直に解釈すれば、われわれは脳内ニューラルネットワーク・モジュールがしていることを自分の意思でしていると錯覚していることを示す。
 網膜から第一次視覚野に信号が届くのに 0.05 秒かかる。鼓膜から第一次聴覚野までは 0.02 秒である。しかしそれをわれわれは同時と感じる。そう感じるほうが日常生活が混乱しないから、われわれの体はそう錯覚するように調整されているのである。
 川人らは、意識とは、無意識下で生じている膨大な並列計算を単純な直列演算で近似することなのではないかといっている。著者もそれに賛同する。
 意識は心は、進化の過程でなぜ生じてきたのだろうか? それはエピソード記憶のためであると著者はいう。エピソード記憶ができることで、昆虫のような反射に依存する生き方では不可能な高度な認知活動ができるようになる。
 
 以上が著者の論旨であるが、わたくしが以前から疑問に思っていた問題にはじめて答えてくれるものであった。その疑問とは「わたくしが、たとえば指を曲げようとするときに、わたくしの脳の中では、指を曲げることをつかさどる部位になんらかの神経インパルスが生じるはずであり、その神経インパルスは何らかの物理化学的現象であるが、わたくしが思うという非物理学な現象が物理化学的現象に影響しうるというのはどういうことなのだろうか?」というものである。わたくしはタダモノ論者であり、心身二元論をうけいれるつもりはないのだが、上記の疑問は心身二元論に道をひらくように思えて気持ちが悪かった。もちろん、わたくしが指を曲げようとと思うということ自体が脳内にさまざまなインパルスを生じさせているであろうから、そのインパルスが指を曲げるインパルスへと連絡すると考えればいいのだが、そうすると今度はわたくしが指を曲げようと思うということがそれによる脳内インパルスを作るということを説明しなければいけなくなって、無限後退に陥る。本書で紹介されているリペットの説に従えば、この疑問は解消する。脳内ニューラルネットワーク・モジュールが活動を自動的にはじめるからわたくしは指を曲げるのであり、それは同時にわたくしに指を曲げようとする意思(という錯覚)を生じさせるのであるとすれば、なんら幽霊を仮定しなくても済むようになる。
 しかし、この著書によるとわれわれが意思と考えるものは錯覚なのであるから、われわれがしていることはすべて必然であるということになり、現在違法とされているあらゆる行為を処罰する根拠がなくなるのではないかと思うが、そのようなことはないのだろうか?
 つまり、わたくしの脳に指を曲げる指令をするインパルスがなぜ生じるのかということである。著者によればそれは脳内ニューラルネットワーク・モジュールの多数決によるのであるが、個々のニューラルネットワーク・モジュールは機械的に行動しているのであってなんら意思をもたないのであるから、そうするとそれを決めるものは、遺伝によって脳にあたえられたニューラルネットワーク・モジュールと、それに対してそれまで加えられてきたあらゆる来歴(による新たなシナプス形成)の総和である。著者はななかなかロマンチックな人で、奥さんとはじめてであったサンフランシスコの思い出の鮮烈な印象をクオリアの例として提示する。著者が出生時に与えられたニューラルネットワーク・モジュールの組成とそれまでの人生経験の総和が、その時の著者の奥さんへの反応を決めたわけである。まあ運命の出会いであって、それはそれでいいのであるが、今わたくしは諸井三郎の「こどものための小交響曲 変ロ調」を聴きながらこれを書いているが、それもまたわたくしに生まれつき与えられたニューラルネットワーク・モジュールの組成とそれまでの人生経験の総和によって決まったことであって、わたくしが自分の意思で選んだ音楽を聴いていると思っているのは錯覚であり、本当は脳内ニューラルネットワーク・モジュールがそうさせているのであろうか? なんだか「ラプラスの魔」である。
 つまり、この本は全体の統括者という心はないとしているわけであるが、脳内ニューラルネットワーク・モジュール活動の総和としての心というものが具体的に何であるかということについては何も述べていないので、問題を先送りしただけではないかと思える。
 脳内ニューラルネットワーク・モジュール活動の総和=心であるなら、これは随伴現象説のヴァリエーションである。しかし、心もまた脳内ニューラルネットワーク・モジュールの束なのであるとしたら、これは他の脳内ニューラルネットワーク・モジュールと相互にシナプス形成をすることになるから、心は受動的なものではなくなるはずである。
 「気体の個々の分子の運動」が脳内ニューラルネットワーク・モジュールの活動であり、その運動の統計力学的指数である「温度」が心であるというのが著者のイメージではないかと思われるが、ニューラルネットワーク・モジュールの一部に温度によって発火したりしなかったりするようなサーモスタット的なものがあれば心は受身でなくなってしまう。
 著者は知・情・意・記憶すべてにかかわるニューラルネットワーク・モジュールがあるとしている。意にかかわるニューラルネットワーク・モジュールとは何をするものなのだろうか? もしそれが意思を担当するものなのであるとすると、心は受動的なものではなくなってしまう。それがわれわれが意思的に行動していると錯覚させることを荷っているのであれば、それが「意」を担当しているというのはおかしいことになる。というか、そもそも著者の主張によれば、われわれは真に「意」というものはもたないことになる。
 脳を科学的に見ていくと自由意志というものが霧消してしまうということは哲学上の極めて大きな問いであるように思うが、そこのところはあっけなく「自由意志」などは錯覚であるとして乗り越えてしまう。で、著者がこの本を書いたのは著者の意志によるのではなく、脳内ニューラルネットワーク・モジュールが決めたことなのかと聞くと、どのような返事が帰ってくるだろうか? あるいは著者が「受動意識仮説」を思いついたのもまたニューラルネットワーク・モジュールの活動によるのだろうか?


(2006年4月19日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

脳はなぜ「心」を作ったのか―「私」の謎を解く受動意識仮説

脳はなぜ「心」を作ったのか―「私」の謎を解く受動意識仮説