下條信輔 「〈意識〉とは何だろうか 脳の来歴、知覚の錯誤」
「講談社現代選書 1999年2月20日初版]
著者の「視覚の冒険」が面白かったので読んでみた。以下、議論をたどっていく。
生物は、秩序や因果を発見しようとする認知傾向をもつ。それを見落とすことが生存にとって致命的であるような環境で生きてきたからである。
環境も身体との関係においてはじめて意味をもつ。人にとっては空気は呼吸を可能にしてくれるものだが、鳥にとっては飛翔を可能にしてくれるものでもある。水はわれわれにとっては飲むものであるが、魚にとっては泳ぐためのものである。
われわれはある判断を下すときに過去からの膨大な経験をもとにそれをおこなう。そこである間違いをしたとしても、それは今まではうまく行っていたからこそ、その間違いを選んだのである。つまり脳の「来歴」がそうさせた。「来歴」という言葉がいいのは、生得的なものと経験的なものの双方を含みうるという点にある。われわれは生きていく過程の中で次々と環境を自分の中に取り入れていく。だから同じ遺伝を受け継いでいても、違う環境に育ったひとは、今度は同じ環境に対しても違った反応をするようになる。つまり、身体と環境は段々と分かちがたいものとなってゆく。中枢神経系はもちろん遺伝により支配されるが、同時にきわめて可塑的なものでもあり、生後の経験により、それは変化してゆく。
そういう観点からすれば、脳と身体、環境を切り離して考えることは無意味である。そしてこの環境の中には他者がいる。われわれは他者をみているうちに意識というものの存在を知るのであり、無意識とは他者の目でみた自分なのである。
無意識とは脳の「来歴」の貯蔵庫である。
科学は環境から切り離した系で研究をおこなう。したがって環境との相互作用で形成される心は、科学にとってきわめてあつかいにくいものとなっている。
抗欝剤のプロザックを健康な人が飲んでしあわせな感じになるのだとするならば、健常人ものむべきなのだろうか?
最新の研究成果をふまえて手堅い議論がすすめられていくので、論には説得力がある。若いころ「ニューエイジサイエンス」というのが結構流行っていて、わたくしも面白がって読んでいた時期があった。「ニューエイジサイエンス」の謳い文句がデカルト的二元論への反対であった。下條氏のこの本を読んでいると、デカルト的二元論などという捉え方がえらく乱暴な議論であることがわかる。とすると「ニューエイジサイエンス」は敵を見失ってしまうわけである。
そういえば最近あまり「ニューエイジサイエンス」のことをきかない。だいぶ前に養老孟司が島田雅彦とした対談「中枢は末梢の奴隷」というのがあって、変なタイトルだなと思った記憶があるけれども、脳は末梢からのインプットがない限りまったく機能しない臓器なわけである。内田樹−橋本治の「わたしの身体は頭がいい」などというのもこの路線である。「肉中の哲学」などというのもあった。
広い意味での肉体を顧慮した心の議論、環境と相互関係する心という理論は、人間と人間以外の動物を峻別する西洋本流の人間理解にも大きな異議申し立てになっていくはずである。
人間もまた動物なのであるという当たり前のことが,地道な科学によって検証されてきているということのようである。人間にとっての環境、イルカにとっての環境、蝙蝠にとっての環境、蛙にとっての環境、それぞれはまったく異なる。人間は人間に遺伝により与えられた環境とかかわるための道具を用いて、外界の知識を自分の中に取り込んでいく。取り込まれたものは自分の一部となる。他の動物たちも自分に与えられた道具を用いて同じことをしている。別にそれ以上でも、それ以下でもないのである。
(2006年4月19日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)
「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤 (講談社現代新書)
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