渡辺哲夫 二〇世紀精神病理学史 病者の光学で見る二〇世紀思想史の一局面

  [ちくま学芸文庫 2005年1月10日初版]


 本屋で偶然みつけた本であるが、実に奇妙な本である。渡辺氏は現役の精神科医であるようなのだが、氏がどのような日常臨床をやっているのか見当もつかない。わたくしには著者は誇大妄想のパラノイアであるとしか思えないが、すでに数冊の著書があり、フロイトの翻訳もしている人である。
 氏は現在社会を嫌悪しており、そのような社会の中で、精神分裂病(著者は統合失調症ではなく、この病名に固執する)を病むことは、ある意味で病者の「時代の病理」に対する敏感さを示すものであると考えている。とすると本当の治療は現在という病んだ時代を変えていくことしかないことになるから、個々の病者の治療について著者がどういうスタンスで臨むのか想像もできない。事実本書には一切そのことは書かれておらず、ひたすら、現在がどのくらい狂った時代なのかということばかりに焦点があてられている。
 さて著者によれば、まずヤスパースがいけない。彼が「精神病理学総論」で導入した了解という概念がいけない。それは静的で無時間的なものである。歴史を顧慮しない現在形の時制だけの概念である。
 次にフロイトエス論が問題である。これは時間以前、歴史以前、個性的な人格以前のものである。精神分析もまた歴史不在の学問である。
 著者によれば、人間は他の動物とは異なり〈自然生命直接的事態〉(著者の造語)を経験することができない。それは通常であれば、われわれは言葉を持ち、言葉によって世界を分節して見るから、世界を直接経験できないということとして説明されると思われるが、そこになぜか著者は〈力としての歴史〉という概念を持ち出してくる。著者によれば、われわれは〈自然生命直接的事態〉を経験することに耐えられないのであるが、その衝撃からわれわれを保護するものとして〈力としての歴史〉があるというのである。〈力としての歴史〉は事実としての歴史を活性化させ、意味のあるものとする力とでもいうようなものである。これとわれわれが世界を言葉によって分節して見るということの間には直接の関係はないように思うが、著者は特に説明なく、この〈自然生命直接的事態〉と〈力としての歴史>という二つの概念をワンセットにして、この一冊の本をそれで通してしまうのである。
 著者は「潜在的に連続している言語という有機的網状組織としての〈歴史の力〉」などというものものしい言い方をするのだが、これは通常は文化という言葉で言われるものではないだろうか? なんのことはない、われわれは文化に深く支配されているというだけのことである。われわれ人間は言語というものをもってしまったために、事実との直接的な接触ができなくなってしまったが、同時に言葉をもつことにより、文化をもち、文化を伝承できるようにもなったというだけのことである。
 クレペリンが「早発性痴呆」と「躁鬱病」の二分法を提唱したのが1899年、ブロイラーが「早発性痴呆または精神分裂病群」を出版したのが1911年であり、20世紀に入る前後にこれらの業績が相次いだことは、20世紀が分裂病と共鳴する世紀であることを示すと著者はいう。
 また著者によれば、小林秀雄がとりあげたランボー、モツアルト、ファン・ゴッホドストエフスキーという人物たちは、いずれも〈自然生命直接的祝祭性〉と深くかかわるものたちばかりなのであり、同時に小林秀雄が「本居宣長」で見られるように〈力としての歴史〉にも深い思いをいたしたということは、小林秀雄という人物が深く精神病理学問題とかかわっていたことを示していることになる。
 ヤスパースにおいては、分裂病には身体因(a)と心因(b)の二つが関与する。すなわち数学的に関数として書くと、f(a,b)。しかし本当は、もっと大きな歴史的実存的要因を考えざるをえず、そうであれば本当は、F{f(a,b),x}と書かれなければならない。疾病はf(a,b)であり、精神はF{f(a,b),x}とかかわる。医学は疾病にしか関与できない。しかし、xとかかわることのできない精神医学などは無意味なのである。
 もしも精神病理学が精神をあつかうのであれば、すべての現代人を病者とせねばならない。しかし疾病しかあつかうことでできないゆえに、自分は病人などではないと叫ぶ大衆に迎合してしまう。
 オルテガ・イ・ガセットは「伝統的な精神、生ける死者」を失ったものを大衆とした。しかし文化の喪失の中で眠りこけている大衆は病者ではあるが発病はしない。一方、現代において「伝統的な精神、生ける死者」に覚醒しているものは、分裂病者とならざるをえない。
 ここから著者はハイデガーからヒットラーへと論考をすすめてゆく。〈力としての歴史〉にかかわるものとしてである。著者は〈力としての歴史〉の回復を希求しているようで、ハイデガーヒトラーへの親近を隠さない。そして現在の〈力としての歴史〉の衰退に切歯扼腕するのであるが(その原因は大衆の奔流である)、著者の理論からすると、それならば現在人は〈自然生命直接的事態〉の祝祭の中にいるはずであることになるのであるが、一向そうはなっていない。それで著者は「いったい何がおきているのだろう。本当のところは誰にもわからないのではないだろうか」と呆然として、この問題を解くのが精神病理学の務めであるとする。少なくとも、われわれが如何に病んでいるかを一番よく示しているのが精神分裂病患者なのであるから、まず彼らを凝視することから始めよという。
 
 この本を読んで、わたくしの若い頃、学生運動の場でよく用いられた「一点突破、全面展開」という言葉を思い出した。〈自然生命直接的事態〉と〈力としての歴史〉だけですべてを説明してしまうのである。実は〈自然生命直接的事態〉というのも本書の中で唐突に導入されて何ら説明なく自明の前提として使われていく。「人間は動物性から離脱した。自然直接的な瞬間的生命から解放された。しかし、この離脱は高貴な自由への脱出ではなく、〈歴史〉という牢獄に閉じ込められることでしかなかった」というのであるが、この部分をこそ、筆をつくして読者に納得させなければいけない部分であるにもかかわらず、ランボーの見者の手紙と小林秀雄ランボー論を少し引用することで、証明終りとしてしまうのである。
 わたくしは若いころ福田恆存にいかれたことのある人間であるから、著者の主張がD・H・ロレンスなどの反近代の主張に類するものであることは理解できる。また戦前の日本の〈近代の超克〉という議論は敗戦によって忘れ去られてしまったが、その当時においてはきわめて切実なものであったのであり、本当は未解決のまま現代でも残されていると思っている。だから著者が真剣に近代を超克せねばならないと考えているとしても、それを非をすることはできないと思う。ヒトラーもまた近代を超克しようとしたのである。
 西尾幹二がどこかで〈悲劇人〉という名前で読んでいた〈反近代〉主義者(その代表がニーチェなのであろうが)は、時代の流れというものが絶対に反転できないものであること、それにもかかわらず時代の動きは不幸な方向にむかっていることの双方を知っていた。だから〈悲劇〉なのである。しかし、著者の論からはそのような悲劇的な感覚がまったく感じ取れない。著者が悲憤慷慨すればするほど、何か喜劇的になってしまうのである。それは著者には人間の多様性というものへの感覚がきわめて乏しいからではないかと思う。
 近代をどう見るかということは、精神病理学に課せられた課題なのだろうか? それを自分の課題であると勝手に決めてしまって、その課題に答えられていないから現代の精神病理学はすべて駄目であると嘆くという著者の姿勢は、気宇壮大であるが内容空疎な一人芝居という気もする。
 患者さんに関心のない臨床家というもの変なものである。〈自然生命直接的事態〉などという見るからにものものしい、しかし一向腑に落ちない言葉を平然と使って平気というのもよくわからない。著者のいう通りであるとすれば、人間以外の動物はわれわれよりずっと幸福なのである。それは生命の自然のままに生きているからなのであるが、著者はそこに何か祝祭的なものの存在を見ているようである。しかし祝祭的なものこそが人間という動物に固有なものなのであり、人間以外の動物はもっと静かなのではないだろうか?
 祝祭的なものこそ人間の歴史を不幸にしてきたものなのであり、そういうものなしで普通に生きることができるようになることが文明なのではないだろうか? どうも著者はあたりまえの日常の繰り返しということに耐えられない人のようである。日々の生活が祝祭であるか、あるいは歴史文化的な連続感覚に常に目覚めて生きるのでないと、退屈で耐えられないように見える。そういう精神のありかたこそが現代の精神病理なのかもしれないといったら、著者は怒るだろうか?


(2006年4月19日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)