P・ゲイ 「神なきユダヤ人 ーフロイト 無神論 精神分析の誕生]

  [みすず書房 1992年12月24日初版]


 本書は、不信仰者であったフロイトが、宗教に対して示した態度につき論じたものである。
 フロイトは、社会の上層階級に科学的なものの考えた方が強まったことにより、宗教の影響力が次第に弱まってきたと考えた。われわれに知識が増えれば増えるほど、宗教は信じがたいものとなっていくと考えたのである。
 しかし、19世紀は18世紀よりも敬虔な時代であった。時代が進むにつれて非宗教的となるとは必ずしも言えないのである。19世紀から20世紀の転換期にも、魂とか霊的な力というものへの関心は高かった。その時代、善良なブルジョアの多くは、祖先から引き継いだ信仰をまもりながらも、同時に地質学者の意見(地球の年代)も、生物学者の意見(人間は動物である)も受け入れていた。彼らは家族が病気になると、祈ってから医者を呼びにやるような人間だったのである。
 フロイトは宇宙を前にしての畏怖の感覚というようなものを持たなかった。この感覚のあるなしは、宗教への態度に関係している。フロイトは何に対しても酔っ払うことを拒否し、素面であることを望んだのである。フロイトは宗教的世界観に対する最後の批判をおこなったのが精神分析であると考えた。彼は心的世界においても、偶然というようなものはなく、原因を持たない行為はないとした。
 フロイトは、人類が太古から宗教を必要としてきたのは、幼児期の無力感によると考えた。
 それに対して、「フロイトは新しい宗教を作ったのだ、不信仰もまた信仰なのだ、科学がフロイトの信仰対象となったのだ」、という批判もあった。科学は皮相なものであり、本当に大切な問題を扱えないとするものもあった。
 フロイトは、宗教的観念は修正不能だが、科学的観念は修正可能なのであり、神学的・形而上学的思考様式と、科学的思考様式は両立不能であると考えた。
 そこで生じるフロイトの問い:精神分析は無心論者にしか発見できないものであったのだろうか?
 (ゲイによれば)フロイトは最後の啓蒙主義哲学者である。啓蒙主義者は世界を魔法から覚醒させることをもって自分の使命とする。フロイトは、啓示とか直感とか予知とかいうものを排除し、理性のみに信をおく。
 フロイトは、自分のしていることは、いままで物質界に限局されていた科学を、こころの領域まで広げることであるとした。フロイトは哲学・形而上学には反対したが、それらは知識階級の上層のごく一部にしかかかわらないものであるので害もないと考えた。一方、宗教はそうではないと考えた。
 啓蒙主義哲学者によれば、デカルトなどの哲学は世界を変えなかったが、フランシス・ベーコンの説はそれと違って、言葉の遊びではなく、世界を変えるのに寄与した。
 科学は事実にかかわり、宗教は価値にかかわるという考えをどう受けととめるかが、宗教への態度をきめる。
 
 以上、本書の展開をたどってきた。問題は以下の点にあるのであろう。すなわち、科学は物質にかかわり、多くの成果をあげてきた。それならば、科学は心にもかかわり、何らかの成果をあげることができるか、ということである。
 そんなことはできないとするものもあろう。そういうひとたちの一部は、心には法則はないと考え、一部は、法則はあるのだけれども、それはわれわれには到達できないと考える。
 フロイトは、心も科学の対象であり、自分は心の科学を提示したと考えた。しかし、フロイトの説を現在、科学的真理であるとするものは少ないであろう。それはポパーの側からの批判、《フロイトの説は反証不能である、したがって科学ではない》という方向からではなく、エディップス・コンプレックスとかいう説明原理がなんだか嘘っぽくて信じられない、という方面と、心は物質のように厳密は法則化は期待できないのではという方面の両方からきているように思う。
 昔、ベイトソンの本を読んでいて、母親がほうれん草が嫌いな子どもに、ほうれん草を食べたらチョコレートをあげるということをしていたら、その子はほうれん草を好きになるか嫌いになるか?チョコレートを好きになるか嫌いになるか、という問いがあったのを思い出す。ベイトソンの答えは母親と子どもの関係次第で、一般的な正解はないというものであった。要するにその問題にかかわる個々の人を知らなければ、答えは出せないということである。
 あるいは福田恆存が、新聞の人生相談の男女関係の相談などで回答者はわかったようなことを答えているが、質問者の顔を見ないで答えがだせるわけがないといっていたのも思い出す。要するに同じような状況なら、人間は必ず同じ方向に動くとはいえないわけである。それなら厳密な心の法則など得られるわけがない。
 要するに、心というのが曖昧な言葉なのである。科学においては、曖昧な言葉、未定義概念を用いては議論できない。「美しい花がある。花の美しさなどというものはない」のであるとしたら、「花の美しさ」についての果てしない議論など一切無意味ということになる。批判者は心とは「花の美しさ」であるという。
 フロイトに即していえば、彼は父と子の間の関係には、ある普遍的な法則があると考えた。彼が生きていた時代においてさえ、多くのひとはその説を受け入れなかったし、フロイトの説はフロイトが生きた19世紀末ウイーンという特殊な時代、特殊な地域でのみはある程度の妥当性をもったかもしれないが、いつでもどこでも成り立つ切ではないとするものもあった。
 また、母と子の間にはある普遍的な法則があると主張する日本のユング派の心理学者もある。それは日本に特異なものであるという。とすれば人間に普遍的なものではない。この説を受け入れないものもあるし、それはごく限られた時代の日本にしか当てはまらないのであって、日本人に普遍的に成り立つ原理ではないとするものもある。
 子が父や母に抱く心情は当然様々である。一見そこには法則などないように見える。だからここに法則を定立するためには、本人はそうと思っていなくも、無意識の内には思っているのだ、というような原理を導入することが必要になってくる。そしてこれはポパーもいうように不敗の論理である。
 人間は動物であり、長期の狩猟採集生活のあと、農耕生活に入り、やがて文明を築き、そこから宗教も生まれ、科学も生まれた。おそらく宗教は人間に固有なものである。とすれば宗教は動物であることに由来するのではない。ネアンデルタール人が埋葬をした、それが人間のもつ宗教的感情の最古の証拠であるというものがある。埋葬をする動物もまた人間だけであろう。埋葬は記憶のない世界ではでてこないものであるような気がする。サルはどの程度の記憶をもつのだろうか? 死んだものをすぐ忘れてしまうのだろうか? そもそも死というものを、どのような思っているのだろうか? 死というのは言葉であって、言葉は人間にしかないものであるが、それでも何かを感じるのだろうか?
 狩猟採集の生活は平等なものであったとしても(サルの社会にも階級があるのだから、当然そこにも不平等はあったかもしれないが)、農耕社会においては富の蓄積が可能となり、明白な階級社会が出現してきた。宗教というのは身分社会とも関係しているのだろうか? 
 側頭葉てんかん発作は神秘体験類似の経験をもたらすらしい。神秘体験と宗教をいきなり結びつけるのは乱暴であることは百も承知であるが、ある種の呼吸法を体得すると神秘体験に類似した何かを容易に経験することができるらしい。麻原尊師は優秀なヨガの修行者として弟子に神秘体験的なものを経験させることが簡単にできたのであろう。今まで理性一辺倒できた理科系の人間はそれで世界観を一変させてしまったのかもしれない。
 ある種の化学物質も類似の体験をひきおこすらしい。それならLSDをサルに服用させたら、サルは何を感じるのだろうか? LSDと結合してある種の反応を起こす脳の部位は人間にしかないのだろうか? あるいはサルにもあるがサルでは別の反応を起こすのだろうか?
 フロイトは科学の発達とともに宗教は衰微消滅すると考えたらしい。その後の歴史はフロイトの予想が間違っていたことを示している。現代人は科学は物質をあつかうだけのものであり、心はまったく別の何かが荷うべきものとしているように思われる。それで何か悩みが生じると、いきなり歎異抄になったり、受洗したりということになる。これは現代の医学が臓器の治療はするが患者さんの悩みという問題になるといきなり精神科コンサルトになるという事情とパラレルである。相変わらず、心は「機械の中の幽霊」なのである。
 生命にかんする科学は人間だけに通用するのではない。アメーバにも、みみずにも、鯨もの通用する。しかし、心の科学はアメーバにも、みみずにも通用はしないのである。あるいはひょっとして鯨には通用するかもしれないが・・・。しかし鯨がエディプス・コンプレックスを持つとは思えないけれども。
 理科とは全物質、全生物に通用することをやる学問であり、文科、人文科学あるいは社会科学とは人間にしか通用しないことをやる学問である。あるいは理科とは宇宙に普遍的に成立することをあつかう学問であり、文科とは個別一回きり偶然地球上で生じたことをあつかう学問である。生物学が特殊なのは、地球という宇宙の片隅のささやかな星の上で偶然におこった現象を扱わなければいけないことに起因する。生命も物理化学法則のもとにあり、その外にでるわけにはいかないが、しかし地球上の生命の形態はそのようである必然性はまったくなく、偶然そのようになっているだけなのである。
 現在、生物学においてなんらかの必然を導くものがあるとすれば、「進化の過程で有利に働いた」ということ以外にない。生物学が学問であるためには進化論と結ばなければいけない理由がそこにある。そして一番の問題は、人間がある時点で他の動物たちにくらべてあまりに有利な地位を確保してしまい、それからあとは進化の観点からは少々不利なことをしたところで淘汰される心配がない存在になってしまったのかもしれないということである。派手な同種内での殺戮を繰り返しても、他の種に自分の地位を奪われる心配がなくなってしまったのかもしれないのである。かりに宗教をもつことが進化論的には不利な選択であっても、それでも宗教をもったまま生きることが可能であったのかもしれない。
 そうだとすると、宗教というものを科学的にあつかうということがどのようにすれば可能になるのだろうか? 宗教をもつことがわれわれの生存にとって有利か不利かという観点からはものを論じられないのである。要するにそれは偶然、根拠なしに生じたのだから。
 脳のある部位を刺激したら、何らか宗教的なものとかかわるような情緒を人間に生じさせることができることがわかったとする。そうすると、宗教的な何かは人間にとって不可欠のものということになるのだろうか? しかし、定義によってそれは偶然に生じたものでありうるのだから、生存上必要なものとは言えないのである。
 フロイトは、宗教信仰は一種の文化的神経症なのであるとした。それゆえに彼は啓蒙によって人々も迷妄の中から解き放せると考えたのである。世界を魔法から解放させること、それが自分の使命であると考えた。フロイトは宗教を生物学的なものではなく、文化的なもの、それも普遍的な文化ではなく、人間の歴史の段階のある時期に無知から生じた過渡的なもの、本来人間に存在する必要のないもの、むしろ無いほうがいいものであると考えた。それは非合理なものであるから、合理的説明によって消し去ることができると考えたわけである。フロイトは彼の精神分析理論こそがその合理的説明であるとした。
 しかし、彼の理論はその後の脳の科学の進展により、科学の側からは否定されてきており、それを信奉するものはほとんど文科の側のみとなっている。しかし、科学の側から否定されてきているといっても、それは破壊のみであって、それに代わる新たな理論が提示されてきたわけではない。そもそも心の理論が成り立ちうるのかどうかについてさえも霧の中である。
 人間の偉大も崇高も滑稽も悲惨も心に由来するのかもしれないけれど、それでも人間もまた動物の一種であって、他の動物と特に変わった一生をおくるわけではない。宗教がしばしば示す滑稽は、人間が他の動物とはまったく異なった格別の存在であるとみなすことに由来する。そしてフロイトが示すどこか痛々しい姿勢は、やはり人間をきわめて特殊な存在、他の動物とはまったく異なった存在としていることに由来するのではないだろうか? 要するに宗教を信じるものと、人間の特別を信じる点において、同一の地平にいるのではないだろうか? キリスト教がいかに人を苦しめるかの一人の例としてフロイトが存在するということはないだろうか? われわれは東洋に生まれて幸福だったのかもしれないのである。神という脅迫観念をもたずに生きられるのだから。


《2006年4月19日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

神なきユダヤ人―フロイト・無神論・精神分析の誕生

神なきユダヤ人―フロイト・無神論・精神分析の誕生