V・S・ラマチャンドラン「脳のなかの天使」(4)

 
 第4章「文明をつくったニューロン」は本書の中核となる部分で、人間を人間たらしめたのは模倣の能力、他者をまねるという特異な能力であり、これが言語とともにわれわれをつくったのであり、言語も(少なくとも部分的には)模倣の能力に依存しているのであるから、結局、人間性の基盤は模倣能力にあり、その模倣の能力はミラー・ニューロンによるのであるから、人間をつくったのはミラー・ニューロンなのである、そういう仮説を展開している。われわれは他人の心を推測することができる(「心の理論」と呼ばれる)のもミラー・ニューロンによるのである、と。
 著者が人間の心や脳の進化について提示する疑問は以下のようなものである。
 1)人類は30万年前に現在とほぼ同じ脳の大きさになっている。しかし道具の製作、火をおこすこと、美術、音楽、本格的言語の出現は約7万5000年前である。この差は何によるか?
 2)240万年前のホモ・ハビリスは原始的な石器を作成した。100万年後に少し進歩した石器が作られるようになり、20万年前に柄をつけるような進歩した石器となった。停滞のあと突然の技術の革新がおきるのはなぜか?
 3)約6万年前に、J・ダイアモンドが「銃・病原菌・鉄」でいう「大躍進」(洞窟壁画、衣服、住居など)がおきたのはなぜか?
 4)われわれは他者の行動を予測して裏をかく「マキャヴェリ的類人猿」であるが、私たちの脳のなかには「他者のこころの理論」の背景となるモジュールや回路があるのか?
 5)言語はどのようにして進化したのか?
 それらの問いに答える鍵がミラー・ニューロンにあるとラマチャンドランは考える。
 ミラー・ニューロンとは、サルで発見されたもので、自分である動作をしたときに発火するニューロンが、ほかのサルが同じ動作をしているのを見たときにも発火することを指す。(実際には神経回路なのであるが、その回路が作動しているときにあるニューロンが発火することから、その回路が機能していることが推定できるので、便宜的にニューロンと呼ばれている。) サルはほかのサルの心を読みとって、そのサルが何をしようとしているのかを把握している。そして人間においては、このミラー・ニューロンが高度化している。これは他者の唇や舌の動きも模倣できるので、言語の基礎ともなっている可能性がある。
 サルにおいてミラー・ニューロンが多数存在するのは腹側運動前野であるが、人間の言語中枢であるブローカ野はこれが発展したものであると、リゾラッティという研究者は主張している。
 人間の言語に大きくかかわっている左の下頭頂葉に相当するサルの脳の部分にはミラー・ニューロンが多数存在する。
 サルとちがって人間では開頭して脳に電極を差し込むことはできないので、それでも人間にもミラー・ニューロンが存在することはどうやって示せばいいのか?
 1)病態失認はミラー・ニューロンの障害として説明できるのではないか?
 2)脳波のミュー波は随意運動で抑制されるが、この抑制はほかのだれかが随意運動をしているのを見ることでも抑制される。
 3)意識のある状態で脳外科手術をうけているもので、痛覚で反応する領域が、他人が痛みを感じる状況を見ても反応する。
 4)幻肢のある患者は、他人の手をだれかが撫でているのをみると、自分の手にもそれを感じる(通常は、皮膚からの信号が自分の手は撫でられていないという信号も発するので、それが他人の手を撫でられているのを見て生じる感覚を打ち消しているが、幻肢患者では、その抑制がおきない)。同様のことは腕神経叢を麻酔した手においても観察される。
 これらのことからヒトにおいてもミラー・ニューロンの存在を推定してよいとラマチャンドランはしている。
 しかし、ミラー・ニューロンの働きが生まれつきのものなのか、学習によるのかで議論がわかれる。
 生後数時間の新生児は、母親が舌をつきだしてみせると、自分も舌をつきだす。これは生まれつき説を支持する。
 ミラー・ニューロンのしていることは、
 1)他人の意図の理解
 2)他者の概念上の視点の採用
 3)他者が自分をどう見ているかの意識
 4)抽象の機能? それにかかわるのは、下頭頂小葉(IPL)? それは下等哺乳類では目立たず、霊長類で目立つようになり、人類で最大となる。人類ではこれが角回と縁上回に二分されるようになる。IPLは視覚、聴覚、触覚の交差路にある。IPLの上部にある縁上回も人間に特有な構造で、心象を想起する能力にかかわっているとされる。
 5)模倣の能力。チンパンジーはわれわれのような模倣の能力はもたない。オランウータンはそれにくらべればましである。よく模倣は「猿まね」と呼ばれて軽蔑されるが、実はほとんどの類人猿は物まねは得意ではない。
 これが発達したことによって、われわれは遺伝のくびきから解放されることになった。われわれは大躍進の時代に、ミラー・ニューロンを発達させたのであり、それによってさまざまな能力が同時に開花した、そうラマチャンドランは考える。
 さて、紀元前500年以降に人間の第二の大躍進がおきている。しかしその原因を遺伝子に求めることは時間スケールから考えると困難である。これは純粋に環境的な要因から生じたのであると、ラマチャンドランはしている。
 もちろん、ラマチャンドランはミラー・ニューロンですべてが説明できるとしているわけではない。だが、それが重要で不可欠な役割を果たしていることは間違いないとしている。
 ラマチャンドランはいう。おそらくサルではミラー・ニューロン・システムの発達が不十分であるか、脳構造同士の結合が不適切なのではないか? 人間では、その進化の過程で、ミラー・ニューロンが今日のインターネットやウィキペディアやブログと同じような役割をはたしたのではないか?
 
 どうもラマチャンドランの論の進めかたをみていると、順序が逆なのではないかという気がする。a)人間は他の動物とは比較を絶する高度な能力を獲得している。b)それは人間が獲得した模倣の能力による。c)模倣の能力はミラー・ニューロンに依存する。d)よって、人間を人間たらしめたのはミラー・ニューロンの発達である。という流れなのだが、この論法の一番の欠点は、人間においてミラー・ニューロンが他の動物を絶して発達しているということの具体的な証拠がきわめて乏しいことである。fMRIなどの発達で以前よりは格段に人間においての観察が進んだといっても、基本的に人体実験は許されないわけであるから、それは自然の実験、脳の障害とそれによって表れる症状から類推する部分が非常に大きくなる。しかし、自然がある一定部分のピン・ポイントに脳の障害をおこすなどということはほとんどないので、厳密な実験の精度には遠く及ばない。だからラマチャンドランのいっていることは、人間がかくも高度な能力を獲得した以上、ミラー・ニューロンも高度に発達しているはずであるという信念の表明に近くなっているように思えてしまう。
 なぜそうなってしまうのか? ラマチャンドランは人間の素晴らしさに感嘆していて、どうしてもそれを説明したいという熱意をもっている。しかも神経科医として、他の人間にくらべれば、脳の働きとその変化を観察する機会にずっと恵まれている。そこで乏しい証拠からの大胆な仮説という方向に走ってしまうのだろうと思う。
 人間にしかないことを説明しようとすると、どうしてもそうならざるを得ないのだろうと思う。心臓の機能や呼吸器の機能をみるのであれば、他の動物からの類推が可能であり、それが正当化される。ネズミの心臓も猫の心臓も人間の心臓も基本的には同じという前提が許されるからである。
 だが、もしも人間の脳が他の動物の脳と根本的に異なっているとしたら、他の動物の脳の研究を人間の脳に外挿することはできない。さらに困ったことに、他の動物がなにを考えているかもわれわれにはさっぱりわからない(サル学者はサルの気持ちがわかるのかもしれないが・・)。
 だから脳の研究も脳の動物的?機能を担当している部分の研究ならば進む。運動機能をどこが司っているかは、人間と人間以外の動物で基本的にはかわっていないだろうと仮定できるからである。しかし脳の高次?機能については厳しい。だからどうしても少ない証拠からの大胆な仮説にならざるを得ない。
 新生児が母親をまねて舌をだす、という話を最初に知ったのは下條信輔氏の「まなざしの誕生ー赤ちゃん学革命」を読んだときだったと思う。ただもうびっくりしたものだった。
 さらに遡るとアイブル・アイベスフェルトの「愛の憎しみ」だったかと思うが、微笑みの意味するものが世界共通なのであるということを知った時もびっくりしたものだった。微笑みを見て怒りの表現と思う文化はどこもないということである。それを読むまで、微笑みというのが文化的なものだと思っていたのである。つまり微笑んだ時に相手からいい反応がかえってくるというような経験の積み重ねによって後天的に獲得されるものだと考えていた。ある種の感情が自動的に顔面の筋肉の調節と連動しているわけである。
 ジェームズ・ランゲ説(悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのである)を知った時にもびっくりしたが、われわれのしていることの大部分は意識的にしているのではなく、ほとんど自動的におこなわれているわけである。
 舌を出すというような動作も舌を出そうというような意図とは無関係になされうることは、この赤ちゃんの例からもわかる。赤ちゃんがお母さんをまねて舌をだしてやろうなどと思うわけはないからである。もし、これがミラー・ニューロンによるのであれば、お母さんが舌をだしたのを見て、腕を動かすのでもなく、目をつぶるのでもなく、舌を出すという先天的に規定された運動セットを発火させるわけである。と書いてきても何か腑に落ちないものが残る。このような簡単なことでさえ、説明はとても難しい。少なくともわたくしが理解してきたことは、われわれのしていることの多くは文化的に獲得されたものではなく遺伝的に規定されているのだということである。
 ラマチャンドランの話がややこしくなるのは、1)ミラー・ニューロンという遺伝的に規定されるものが、2)文化によって後天的にわれわれが獲得するさまざまなことの基礎にあるという二つの方面の違う話がひとつになっているからである。生物学に属する学問をおこなっている以上、遺伝を基礎として進化論を背景にする説明は絶対である。しかし同時に人間の尊厳を信じるものとして、人間が遺伝の奴隷であるということも絶対に信じられない。だから創造説の信者に対しては生物学の立場にたち、人間もしょせんは動物に過ぎないと嘯く生物学原理主義者に対しては、人間は狭義の生物学では説明できないという立場に立つ二方面外交の綱渡りをすることになる。
 人間はとても複雑なもので、それは基本的には生物学的に説明できるはずのものだが、現状では、生物学的説明の力はまだまだとても弱い、と認めれば済むことのように思うのだが、そう認めてしまうのは神経科医としての沽券にかかわるのだろうか?
 おそらく本書の一番の敵は生物学原理主義者であって、聖書原理主義者ではないだろうと思う。そうであるので、生物学から人間の尊厳を説明できるという方向の議論を強調せざるをえないであろうと思われる。
 しかしわたくしなどは現状においては「人間はとても動物とは思えない」派のほうが圧倒的に力を持っているように思うので、生物学派の提供するデータの破壊力の有効性はまだまだ大きいと感じている。
 だからどちらかといえば、本書は一般読者よりも、身近にいる研究者仲間にむかって主張している側面が強いように思われる。あるいは生物学原理主義者はなかなか頑固でその意見を変えさせることは容易ではないから、その原理主義者の言に一般読者が毒されないように本書を書いているのだろうか?
 ミラー・ニューロンが人間のシンパシーの基礎であると主張するのであれば、シンパシー能力の欠如であるとされる自閉症が当然、問題となる。ということで次章は自閉症の話。
 

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