V・S・ラマチャンドラン「脳のなかの天使」(3)

 
 第3章「うるさい色とホットな娘−共感覚」は共感覚の問題を論じる。共感覚とは、たとえば数字を見ると、それが黒いインクで印刷してあっても、そこに色を体験するというような現象である。あるいはCの音を青く感じるとか、曜日に色を感じるとか。
 まず、これはそのような気がする、というようなものではなく本当に感じているのだそうである。
 アイザック・ニュートンはこの感覚の持ち主だったのかもしれない。色鍵盤を発明しているのだから、と。
 ダーウィンのいとこのフランシス・ゴールトンは優生学を提案した点で悪名高い人物であるが、1890年代に共感覚の系統的な研究をしている。音が色を誘発するタイプと数字が固有の色を帯びるタイプについてである。ある個人では特定の数字は特定の色と結びついているが、どの数字がどの色と結びつくかは人によって違うのだという。
 7という字を見ると赤が浮かぶという場合、その字が赤く見えるのかというと、共感覚がある人間にとっても微妙であるらしい。それが黒で印刷してあることはわかるが、それでもそこに赤を感じるというような曰く言い難いものらしい。字の上に赤がある? しかし、想像ではなく実際に見えるのは確からしい。
 共感覚はアラビア数字ではおきるがローマ数字ではおきないらしい(だからおそらく漢数字でもだめであろう)。つまり数の概念ではなく、数字の視覚的外形によってひきおこされるものらしい。眼をつぶって、手のひらに7とかいても赤は生じない。言葉で「セブン、セブン、セブン・・・」ときいていると次第に赤が見えてくるのだという。7の字を視覚化しはじめると段々と赤が出現してくるのだ、と。「7・5・3・2・8」ときかされると虹がみえてくるのだとか! アルファベットにも色がつく人もいるらしい。
 さて感覚というのは本質的に主観的なものであり、言葉では表現できないものである。りんごの赤がどんな感じのものか、目がみえないひとに説明することは困難である。わたしが見ている赤とあなたが見ている赤が同じものであるのか、誰もしることができない。
 さてここからがラマチャンドランによる共感覚の説明。脳における色の中枢の一つは側頭葉紡錘状回V4領野にある。それとほぼ同じ部位に数字に特化した領域がある(ここに異変があると、計算能力が失われる)。そこにクロス配線があるのではないか?
 われわれのさまざまな機能が、脳の局在的な機能であるのか、脳全体の総合的な働きによるのかは論争のたえないところである。しかし、少なくとも色をみたり、数字を概念化するといったことの機能は局在している。
 われわれは色そのものを見ているのではない。昼と夕方では木々の葉っぱの色はことなっているのだが、われわれはそれを同じに感じる。脳が補正をしているのである。
 数の計算は、紡錘状回で数字が形象化され、順序や個数概念が角回で実行される(角回が傷害されると、数は読めてもわり算や引き算ができなくなる。かけ算は暗記されているので保たれることが多いのだとか)。
 驚くべきことに色覚異常のひとで共感覚のひとは、現実の世界には見ない色を共感覚においては経験するのだそうである。
 胎児期には脳におびただしい過剰な結合が存在する。それが発達するにつれ刈り込まれていくのだが、それが不十分であると共感覚として残るのかもしれない。LSDで一時的に共感覚が生じること、SSRIのような抗うつ剤の使用で共感覚者で共感覚が一時的に失われることは、これらの薬剤があらかじめ存在している配線の感覚を強めたり弱めたりしている可能性がある。
 曜日とか月が色を誘発するというのはいかにも奇妙なことであるが、数のつながりや序列という点では共通している。数字の視覚的外形ではなく、数の序列という抽象的な概念が色を誘発するタイプの共感覚者もいるということである。
 芸術家や詩人、小説家に共感覚者が多いことは知られている(カンディンスキーポロックナボコフ・・。リストもそうだった?) かれらの三分の一から六分の一がそうであるという調査もある。ランボーの「母音」という詩は有名である。「Aは黒、Eは白、Iは赤、Uは緑、Oは青・・・」
 数というのは人間の頭のなかにしか存在しない高度に抽象的な概念であると考えられる。しかし、それは脳の角回のなかに(物理的に?)存在している。道具とか果物、野菜といった概念もまたそうである。それは側頭葉の上部に蓄えられる。視覚的には似ていないものでも意味的な理解によってまとめられる。
 観念とか概念が脳地図の局所に存在しているのだとすれば、人間を人間たらしめているメタファーとか創造性の能力についてもまた、われわれに理解可能となるのではないだろうか?
 それはどこか共感覚とおなじような配線の過剰、クロス配線にもとづくのではないだろうか? 左の下頭頂小葉(IPL)の損傷では、単語や数字の使用が困難になるばかりでなく、メタファーを解釈する能力も失われる。角回はもともと異種の感覚を連合させすために進化したと考えられるが、人間ではそれがメタファーにまでも進んだのではないだろうか?
 ここからラマチャンドランはさらに先に進む。脳領域間のクロス配線を活性化を促進する遺伝子が人間では発達しており、それが種としての人間を創造的にすることに役だってきたのではないか?
 
 共感覚というのは大変おもしろい現象で、脳というのは何と不思議なものだろうかと読んでいてわくわくさせられる。読者としてはそれで十分なのだが、ラマチャンドランとしてはそれでは物足りないらしい。ラマチャンドランも研究者のひとりとして、この問題の理解の進展に寄与している。しかしラマチャンドランとしては、人間を人間たらしめているメタファーなどを駆使する能力を理解するうえで重要な役割をはたすのではないかという点でそれが重要なのである。
 ラマチャンドランと同じく神経科医であるオリヴァー・サックスの「音楽嗜好症」でも共感覚の問題がとりあげられている(第14章「鮮やかなグリーンの調−共感覚と音楽」)。
 そこでは主として音にかかわる共感覚がとりあげられているが、共感覚には文字や曜日に固有の色があったり、色に匂いがあったり、音程に味があったりとさまざまなものがある。共感覚は2000人に一人位の割合でみられるとされているが、本人が不都合に感じていなくて自己申告しないひとも多いだろうから、もっと多いかもしれないという。
 サックスもこれは生理的な現象であり、大脳皮質のいくつかの部位の結合の結果としておきるのだろうとしている。音楽の共感覚は一番多いのだそうで、ある作曲家は調に固有の色があるが、長調短調の色は関連があるのだという。黄色い壁をみているときに「青」の二長調がきこえたら、壁は緑色になるか? 外界の色と混じることはなくて、「青」は完全にこころのなかにあるのだという。単音では色は出現せず、五度の音程もだめで、三和音などのように調を規定するものが必要らしい。主調が色を規定するのだという。(疑問:曲が完全に転調した場合にはどうなるのだろう? フランクの音楽などどうきこえるのだろう? あるいは調性は宙づりになったような音楽は? たとえば「トリスタンとイゾルデ」の前奏曲などは?) 別の作曲家は調だけでなく、主旋律や様式、コンセプト、雰囲気にも色があり、特定の楽器とそのパートにも色があるのだという。
 サックスの本によれば、共感覚には性差があり、女性が男性の6倍といわれる。それに反対し、性差はないというものもあり、23人に一人がなんらかの共感覚をもつという研究もあるのだとか。一番多いのは曜日に色がつくものだそうである。
 fMRIでみると、共感覚で色をみる場合、視覚野(特に色彩を処理する部位)が活性化することが観察されている。
 哺乳類では胎児期と新生児期には脳に過剰接続が存在するが、生後数週から数ヶ月で「刈り込ま」れる。バロン=コーエンらは、われわれは生後すぐにはすべて色がこきこえる共感覚者であるが、数ヶ月の内に接続が絶たれてしまうと主張している。共感覚者は、遺伝的な要因でその断絶が十分には行われないために共感覚が残るだという。
 後天的な共感覚を生じさせるものとして失明がある(特に幼少時の失明) 視覚がある場合には抑制されているものが解放されるためらしい。
 
 この共感覚は人間以外の動物にも見られるものなのだろうか? われわれは「青」という言葉を聞いて、頭のなかに青の色を思い浮かべることができる。それはわれわれが言葉をもっているからである。わたくしの印象では、共感覚をもっているものは、われわれが言葉をきくことで生じるのと同じことが、音を聴いたりすることで脳のなかでおきるのだと思う。
 確か、養老孟司さんの「唯脳論」を読んでいて指摘されてはじめて気がついたのだが(情けない話)、言語というのは視覚と聴覚が結びついている。(もちろん、意味という謎とも結びついているのだが) 言語が誕生したときには当然、まず話し言葉である。そこにあるのは音である。その後、文字が発明されて、視覚と聴覚が結びつく。これも共感覚なのではないだろうか? そもそも林檎が「りんご」という音と結びつくのも共感覚なのかもしれないが。
 絵本の林檎を「りんご」と呼ぶことをわれわれは後天的に学ぶ。後にそれは漢字で林檎と書き、英語で(順序としては普通) apple と表記することを学び(その後で)「アップル」とか「アポー」とか読み話すことを学ぶ。
 人間以外の動物はそんなことは知らない。しかし、彼らもまたリンゴを見る。しかし、それを見て「リンゴ」とは思わない。あるいはライオンをみて「あっ!、ライオン」とは思わない。しかし、何か、それに相当する反応が脳の中でおきているはずであり、彼らは言語によって分かたれていないから、どの土地に生きていても同じ反応をするはずである。人間は言語を獲得することによって、確かに何らかの飛躍をした。しかし、そのことによって失ったものもまたあるはずで、ラマチャンドランのこの本を読んでいて、何か方向が違うように感じることがあるのは、人間は他の動物とは画然とちがったレベルの違う崇高な存在となっているということが当然のように前提とされていて、脳についての新知見もそれの解明につながるからこそ意義があるとされているように見えるからである。はじめのうちは「単なる動物ではない」と謙虚な路線にみえるのだが、本音は違うところにあるように思えてしまう。
 一言でいうと、人間の持つ負の側面についていささか楽観的過ぎるのではないかということである。これは人間だけが大量殺戮をおこなうというようなことばかりではない。人間以外の動物は現在にいるはずであって、それが生きるということである。そして現在に生きている動物たちは、死をおそれることもないはずで、死をおそれるのは人間だけのはずである。それは言語を獲得し抽象概念を得ることによって、「死」という概念を得たということによるのではないだろうと思う。人間だけが自我意識を持ったことにより、その自我の消滅としての「死」を意識するようになったということでも必ずしもないと思う。うまく言えないのだが、人間は動物がもっていた「健康」を失うことと引き替えに「人間らしさ」を得たのであって、人間であるということは人間以外の動物から見れば「病んでいる」としか見えないだろうと思う。われわれは「病むこと」と込みで「人間らしさ」をえたのであり、ラマチャンドランのいっていることは「病気自慢」のように聞こえないでもない。われわれに必要なことは健康への意思であって、病態生理を理解して病気に安住することではないはずである。病気であることも一つ貴重な体験ではあるかもしれないし、われわれは他の動物が決して知ることのない経験を病気であることから得ているのも確かなのであるかもしれないのだが。そもそも病態がわからなければ治療法も見つからないのかもしれないが・・。
 サックスの本を読んでいると、音楽というのはわれわれが病むことと引き替えに得た最大の賜物であるように思えてくる。あるいは詩というのもそういうものであるのかもしれない。われわれは音楽や詩によってはじめて、他の動物が持っている現在に戻れるのかもしれない。
 サックスの「音楽嗜好症」によれば、拍子をとるためには、聴覚野と運動前野背側の相互作用が必要なのだそうだが、この部位のあいだに機能的な連結がみられるのは人間だけなのだそうである。つまり人間以外の動物は音楽を楽しむことができない。(このような連結は共感覚ではなく結合と呼ぶのだそうである。)
 言語の研究にくらべ、音楽の脳科学は非常に遅れていて、1977年にヘンソンという人の「音楽と脳」がでるまではほとんどみるべき研究がなかったのだそうである。ようやく、この20年くらいのあいだに研究が進んできているのだという。
 無文字社会では、言葉を音楽とすることによって伝承が可能になったのだという。言語と音楽がどちらが先に生じたのかはまだ未解決の問題らしい。M・ドナルドというひとが1991年に「現代の心の起源」という本を書いて、人間の進化の原動力は「模倣」の能力によるということを言っているらしい。言語も音楽も模倣なしには成立しえない。そして「模倣」といえば、ミラー・ニューロンである。
 それで、ラマチャンドランの本の第4章「文明をつくったニューロン」における、ミラー・ニューロンの議論に戻ることにする。
 

脳のなかの天使

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音楽嗜好症(ミュージコフィリア)―脳神経科医と音楽に憑かれた人々

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唯脳論 (ちくま学芸文庫)

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