M・S・ガザニガ 「脳のなかの倫理 脳倫理学序説」(1)
紀伊国屋書店 2006年2月2日初版
ガザニガは主として分離脳(てんかん治療のために左右の脳を分離した状態)を用いた認知機能の研究をしている人らしい。研究者の色彩が強い人であるように思われ、特に深い思考が述べられているようには思えないが、前回述べたid:jmiyaza:20060322ヒトの宗教的信念について論じている部分(第8章「脳には正確な自伝が書けない」、第9章「信じたがる脳」)があったのでとりあげてみたい。
第8章では、われわれの記憶というのがいたって曖昧であることが生物学的には必然性があること(進化の過程において細部の記憶をもつことが有利であるわけではないので、それはわれわれの生存には必須の能力ではない)が示される。つまり記憶とは社会的・文化的現象であって、脳に焼きつけられた写真ではない。
それでは、それら曖昧な記憶を補正・修正するものは何か? それは左脳の機能であるというのがガザニガの業績のひとつであるらしい。左脳は解釈し辻褄をあわせる。ようするに適当に隙間を埋めてしまう。この辺りの説明は前に眼の認識について書いた誰かの本を読んだ時に知った説明、《現実に視神経がみている情報は穴だらけであり、その隙間を脳が勝手に埋めてしまっているのであり、視野の両脇では実際には色が見えていないはずなのであるが、脳が勝手に色をつけている》を想起させた(ここではロフタスの記憶についての暗示の影響の研究も紹介されている。PTDS(心的外傷後症候群)患者の訴える記憶の曖昧さを論じる場合によく引用される研究である)。
そうであるなら左脳は信念を生み出す装置であり、左脳は、世界から受取った情報に何らかの物語を付与している存在ということになる。
また、側頭葉てんかんは宗教的体験をひきおこすことがよく知られている。ゴッホ、ドストエフスキーなどのようにこの病気にかかっていたと思われる有名人も多く、ルイス・キャロル、フロベール、スウィフト、ニュートンなどもそうではなかったかと推定されている。
上記のガザニガの説明が正しいとしたら、われわれは世界がばらばらであることにたえられず、そこにほぼ瞬時に自動的にある解釈を挿入してしまう存在であることになる。
これは本来合理性の希求でもあるはずであり、そうであるなら、世界の合理的な説明は、過去においては宗教がにない、現在においては科学がになうのであり、それらは二律背反するものであり、共存しえないものなのであることになるのかもしれない。
しかし一方で側頭葉機能としての神秘体験・宗教体験ということがある。
つまり宗教には二側面があり、一つが世界解釈の一つの方法としての宗教であり、もう一つが神秘体験的な側面としての宗教である。前者の側面だけみれば世界は世俗化していくしかないことになる。(もっともそれはわたくしがそう思うだけであり、現在のアメリカなどをみていると、世俗化どころか宗教化にむかっているようでもあり、合理的説明としての科学の力というのもそれほどのものではないのかもしれないが・・・)
しかし神秘体験ということになると、それがもつ力は合理的説明などを圧倒してしまうのかもしれない。ドーキンスやハンフリーのような人間は側頭葉の機能が弱いのかもしれない。わたくしもまたそのような人間であるようである。ラマチャンドランが「脳のなかの幽霊」で書いていた冗談にしたがえば、フランシス・クリックなどは側頭葉機能がゼロなのであろう。
しかし、そんなわたくしでもドストエフスキーの小説を読めば何かを感じるのである。本書によればフィリップ・K・ディックなども側頭葉てんかんに罹患していたことが疑われているらしい。ディックの小説世界の独特な感じについて、そういわれてはじめて何か納得できるような気がした。
それで、スティーヴン・キングなどはどうなのだろうということを思った。側頭葉異常の症状は、1)過剰書字、2)過剰な宗教性、3)攻撃性、4)粘着性、5)性的関心の変化、なのだそうである。キングの小説はなんでああなるのだろうと思うくらいくどく長くなるし、ある種の超自然なものへの関心が一貫してあるし、若いときのアルコール依存も攻撃性の変形かもしれないし、奥さんのタビサへの過度の依存は粘着性の表れかもしれないし、それにどうもキングの小説に何か足りないものがあるとすれば、それは性的な何かであると思うのはわたくしだけであろうか?
音楽を聴くという行為は、これらの脳機能とどう関係しているのであろうか? 音楽を聴くのが右脳か?左脳?という議論があった。西洋人は右脳、日本人は左脳というような話もあった(武満徹と小澤征爾の対談で読んだ?)。
われわれが音楽を聴くときに、そこに即座に構造を感じる?あるいは見る?のはなぜなのだろうか? それも左脳の解釈機能なのだろうか? あるいは側頭葉の機能とかかわっているのであろうか?
音楽を聴くということと宗教的体験は関係するのだろうか? あるいは愛国心といったものと宗教とのかかわりは? ワーグナーの音楽とナチスとの関連の意味するものは?
宗教には個人の生に意味をあたえるものという側面と、集団をまとめるという側面がある。D・H・ロレンスのいう愛の宗教と憎しみの宗教である。ニーチェが「キリスト教は邪教です!」といったのはもちろん後者の宗教なのであろう。
最近の野球のワールドカップ?を見て興奮している人の脳をfMRIで観察したら脳のどの部分が活動しているのであろうか? わたくしはああいうものにまったく関心がなく愛国心のようなものを嫌い、愛校心がなく、愛社精神に欠けている。それは宗教あるいは超越的なものにまったく関心がないことと関係しているのであろうか?
それは非人間的であるということなのであろうか? 自分としてはそれこそが人間的なのであり、野球でどちらが勝ったなどということに興奮しているほうがよほど野蛮であると思いたいのであるが・・・。
- 作者: マイケル・S.ガザニガ,Michael S. Gazzaniga,梶山あゆみ
- 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
- 発売日: 2006/02
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