夏目漱石 「虞美人草」 


 なんで今頃これを読んだのかというと、内田樹の「おじさん的思考」の中の「「大人」になること−−漱石の場合」と吉本隆明の「夏目漱石を読む」の「虞美人草」のどちらにおいても、宗近くんの大演説の場面が引用されていて、興味を惹かれたからである。
 ということで読み始めたのだが、本当にしんどかった。最初の山登りの場面では、何かを象徴するかのような感じがあって期待をさせるのだが、あとがいけない。何度途中で止めようと思ったことか。とにかく途中まで小説がまったく動きださない。文章は四六駢儷体調漢文脈の美文で、読みにくいことおびただしい。そこに作者が登場人物の挙動に解説をくわえるのがくどくて興ざめである。漱石って小説書くのが下手だなあ、と思いながら読んでいた。
 でも「十四」あたりからようやく物語が動き出し、少しよみやすくなる。会話が多くなって作者が退き、作中人物が動きだす。と思っていたら、一気呵成に進んで「十七」の終りから「十八」での宗近くんの大演説である。これはやはり凄い。
 「十七」の終りの甲野さんへの宗近くんの演説の部分を、吉本隆明は文学の初源性の発露であるといっている。文学とはもともとこういうものだったという感想が油然とわいてくる部分であるといっている。こういう部分を書けるのが第一級の作家であるといっている。そして漱石の作品の中でも、本当にそれを感じさせるのはおそらく「虞美人草」だけであるともいっている。
 内田樹は、宗近くんのことを「内面のない青年」と呼び、「坊ちやん」の系譜であるとしている。「虞美人草」の三青年、甲野さん、小野さん、宗近くんのうち一番の劣等生である宗近くんが唯一まともな青年であるという構図は、西洋にさらされて内面をもつようになることは決して幸福なことではないという漱石の考えを露骨な形で示したものであろう。それがゆえに正宗白鳥の「宗近の如きも、作者の道徳心から造り上げられた人物で、伏姫伝授の玉の一つを有つてゐる犬江犬川の徒と同一視すべきものである」という評がでてくる。実際ここで宗近くんが滔々と論じているものは、西洋の論理ではなく江戸の論理なのであり、漱石の作った人物の中で日本人に一番人気のある坊ちやんが江戸っ子であるのと一対になっている。現在の一部の人が示すグローバル・スタンダードへの嫌悪と同じようなものを、すでに20世紀初頭において示したのである。
 宗近くんがいう「真面目」「誠」というのは、隣人を敵、競争相手、利用すべき人間とみなすような西洋的な人間関係ではない、相手を素直に信じられる関係をいうのであろう。内田樹のいう「相手の前に立ち、まっすぐに相手に向かって、「あなたのことが気がかりだ」と告げる」やりかたである。日本が西洋化していく過程でそういう美質を失っていくことへの警告としてこれを書いたのであろう。だから坊ちやんも宗近くんもドストエフスキーカラマーゾフの兄弟」のアリューシャの日本版なのである。
 とはいっても漱石が坊ちやんや宗近くんでないことはいうまでもなく、どちらかといえば甲野さんなのであるから、西洋と日本に引き裂かれた人間として、男は仕方がないにしても、せめて女は西洋に毒されないでほしい、学問に毒されないほしいとして、清や糸子を造形したのであろう。藤尾はそれの対極なのであり、あって欲しくない女性像の典型である。
 しかし、清も糸子もともに尽くす人であり、控えるひと、支える人であって、男にとって都合のいい人である。そんなのが理想だなんて冗談じゃないわよ、という声が当然女性の側からはあがってくることが予想される。でも、男というのは困ったもので、女が本当にある男を好きになったら、その人のために食事を作ったりするのが女にとって無上の楽しみになるのではないかというような愚かな夢想をすてきれない存在なのである。そういう男を女は笑うであろうけれども、笑われても、それでも男は目覚めないのだろうと思う。せめて男にそういう馬鹿な夢を見る権利だけでもくださいというのが、フェミニズムに対する男の側からのささやかな抗議だろうか。もちろん、そんなものは一顧だにされないだろうけれども。
 宗近くんの演説を読んでいて、ぐさぐざと胸に突き刺さってくるので困った。自分は本当に「真面目」も「誠」もない人間であるなあと思う。宗近くんの前で伏してごめんなさいといいたくなる衝動がきざす。でも一方では、そういう自分でも誰か女性がきて救ってくれるのではないかとも思う。甲野さんにも糸子さんがちゃんといてくれるわけだし。「永遠に女性的なるもの我を引きあぐ」。馬鹿か!という声がどこかからきこえてきそうである。

(2006年4月16日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)