池谷裕二 「進化しすぎた脳 中高生と語る[大脳生理学]の最前線

  [朝日出版社 2004年10月25日初版]


 若手の脳研究者である池谷氏が中高生を対象に脳について講義をしたもの。おそらくそういう本の性質から、まだ議論の余地があるところを断定的に確定しているように述べている部分があるのだろうと思うが、脳研究の最前線についての知見をえる上できわめて有用な本である。
 
 脳が大きければ大きいほど、しわが多ければ多いほど(つまり表面積が大きければ大きいほど)賢いというのは間違いである。肺や肝臓と違って脳には部位による機能分担がある。たとえば、音をきく部分は特定の部分だし、さらに音の高さに応じて、それを担当する部分がまた分かれている。
 第一次視覚野に到達した情報は、何をみているか(側頭葉)とそれがどんなか(頭頂葉)が別々に処理される。第4次視覚野は色、第5次は動きを担当している。
 生まれつき指が4本しかないと5本目の指に対応する脳の場所がない。これは脳の地図が後天的なものであることを意味する。脳の地図は身体が決める。4指と5指が癒合していたひとを後に分離手術をすると、わずか1週間後に5番目の指に対応する部分が脳にできる。これは脳が可塑性をもつことを示す。バイオリニストの脳は指に対応する部分が非常に発達している。われわれの脳が優れているのはわれわれの身体が優れているからでもある。イルカが人間なみの身体をもっていたら、脳自体は大きいのだから人間以上の知性をもてたのかもしれない。喉の構造の特殊性のため、人間が声をだせたということは、決定的であったかもしれない。
 先天的な水頭症の患者さんは脳の実質が健常者の十分の一しかないにもかかわらず、健常者の知能とほとんどかわらなかった。ということは脳の機能のわずかしかわれわれは使っていないことを示している。脳にとって重要なのは、その脳をもつ身体と、身体をとりまく環境である。進化の立場からいうと身体は環境にあわせて進歩してきたが、脳は環境が必要とする以上に進化してしまっている可能性がある。小脳が一番発達しているのは鳥である。
 脳の活動とは別に心があるのではない。前頭葉を障害されたゲイジという患者の報告以来、個性や性格、心や意識は前頭葉にその場があるという説が続いている。
 両眼視ができる人は7割くらいといわれている。実際には片眼でも立体感覚は得られる。錯視の相当部分は、われわれが2次元画面から3次元画面を構成することを無意識にしていることに起因する。
 形、動き、色は別々の場所で解析されるが、解析には時間差があり、色が一番最初に処理される。次に形、最後が運動。その時間差はもっとも少ない場合でも70m秒くらい。ということは「赤いりんごが転がっている」という認識が一挙に同時になされるわけではないことを示唆する。言葉や文字の認識にはさらに時間がかかるといわれている。文字や言葉が目や耳にはいってから、情報処理できるまでに0.1から0.5秒かかる。人間の今とは0.5秒前なのかもしれない。
 世界があって、それを見るために目ができたのではなく、目ができたから世界が意味をもつ世界になった。われわれがカエルの目をもっていたら、動かないものは認識できないのだから、万有引力の法則とか質量保存則とかは生まれなかったはずである。
 物質世界は人間がいようといまいと存在する。しかし人間が見ている世界は物質世界そのものではない。われわれに見えている世界である。
 三原色が赤緑青なのは、網膜がその三色に反応する細胞でできているからである。世界の構成原理を網膜が発見して、その原理を目に備えつけたのではない。
 眼球から第一次視覚野への途中に視床があるが、視床からは上丘にも情報がはこばれる。上丘への情報は意識にあがってこない。だから後頭葉が障害され視覚野が障害されていても、上丘にはなんからの視覚情報が伝達されている。しかし、それは意識されないし意識できない。見えていないが見えているという状態になる。障害物をよける程度のことは上丘だけでできてしまうかもしれない。上丘は処理が早い。野球でボールを打つというような動作は視覚野で処理しようとしても間に合うはずがない。上丘で見ているのである。
 われわれの眼球には視神経による盲点がある。それを脳は間に合わせでうめてしまう。また網膜上の毛細血管も視野を妨げる。本来視野はすかすかに欠けているはずなのである。それもまた脳が補完してうめてしまうため、われわれはスムーズな世界を見ているような気になっている。
 色を感じる細胞は網膜の周辺部ではゼロになる。本来、視野の外側は白黒なのである。それなのに脳が勝手に色をつけているので、われわれは色を視野の外側でも見ているように思い込んでいる。
 ハブは赤外線を感じると噛み付く。蚊は赤外線と二酸化炭素に反応する。蚤は酪酸にも反応する。そういうものを感じると近寄っていって勝手に刺す。これは自動反応であって、意識とはいえないだろう。意識があるというのは、それをするかしないかを選べることにほかならない。われわれはりんごをみて赤いと思わないということができない。そういう質感、クオリアはわれわれには選択できない。脳がそう感じるようにわれわれに強制している。
 言葉が理解できるためには、りんごという言葉が「り」「ん」「ご」という時系列において「ご」という音をきいているときまで「り」の音が保持されなければならない。意識には短期記憶が必要である。
 またわれわれは過去の経験により未来を変えるという可塑性をもつ。
 意識には、1)表現の選択 2)短期記憶 3)可塑性の3つが必要である。
 表情は作ることができるが、通常は意識してつくるものではない。呼吸は意識してすることもできるが通常は意識しない。
 数に反応する神経がサルでみつかっている。二個のりんご、二匹のサル、二本の棒、すべて2がある状況に反応する神経である。
 われわれは言葉をしゃべるときに、いちいち音を意識しない。明日といおうとして、「あ」の次に「し」の次に「た」などとは考えていない。
 次のような衝撃的な実験がある。あなたは押したい時にこのボタンを押しなさいという単純なものである。脳波でみていると、脳での活動は「運動野」が最初に活動をはじめ、その後に(実に1秒もしてから)、動かそうという意識の部分が発動しはじめる、そういう順序であることがわかる。そうだとしたら自由意志というのは?
 恐怖の感情は扁桃体で作られる。これは大脳皮質に記憶される。怖いことはしないようになる。扁桃体の活動から恐怖がうまれる。しかしこわいという感情は大脳皮質で生まれる。つまり、動物はこわいから逃げるのではなくて、扁桃体が活動しているから逃げる。それからの類推として、悲しいということを感じる脳の部位があるであろう。そこの活動が一方では大脳皮質に悲しいという感情を生み、他方で顔筋や涙腺にも影響して悲しい表情や涙をつくりだす、ということもありそうである。しかしまだ、扁桃体とこわいという感情を結ぶ経路は発見されていない。
 扁桃体をこわすと恐怖という感情が消え、本能がむき出しになる。ということは理性の起源は扁桃体にあるのかもしれない。
 たぶん、われわれの脳にはプラトンイデアのようなものがあって、三角形とかりんごだとかを検知する部分がある。われわれはものを見たとき、そのような抽象的なものとして記憶する。一方、記憶力のいい鳥はゆがんだ三角形はゆがんだ三角形のまま記憶する。下等な動物ほど記憶力がよく、融通がきかない。人間の脳の記憶は他の動物では例をみないほどあいまいであるが、それが人間の臨機応変な対応につながっている。
 多くの動物も言語に類似したものをもっているが、それは信号として使っているだけである。
 人間の記憶や思考が曖昧なのは、一つにはスパイクによる神経シナプス末端からの伝達物質放出が0か1ではなく、確率的であることに起因する。
 脳の一個の神経細胞は1万の神経細胞と連絡する。とすると三回連絡するだけで、脳の細胞数を超えてしまう。とすれば自己へのフィードバックがなければならない。それが多いのが海馬と前頭葉と視覚野である。
 
 以上、雑駁なまとめであるが、脳研究の現状につき多くのことを知ることができた。
 まず、ボタン押し実験から。この実験の結果を素直にうけとるならば、われわれは何かをしようと思ってあることをするのではなく、われわれが意識していない過程で決定されたことに従ってあることをし、それを自分の意思でしたように思わされているということである。人間以外の動物もわれわれと同様にさまざまなことをしているが、人間が人間以外の動物と違うのは、していることを意識しているという点である。しかし、意識がもとにあって、それによって行動しているのではなく、他の動物たちと同じように行動しているのであるが、他の動物たちと違ってそれを意識する。意識は行動に遅れるのであるが、あたかも意識が先行しているように錯覚しているということである。
 問題は意識されない過程で行動を決めているものは何かということである。ハブが噛みついたり、蚤が血を吸ったりするのはまったく機械的な行動である。ハブ自身、蚤自身にはそういうことをしないという選択ができない。われわれの行動もまたそのような機械的なものであって、それにもかかわらず、われわれが錯覚によって自由意志によっていろいろなことをしていると思いこんでいるのだろうか?
 この本をふくめた何冊かの脳科学の本を読んでわたくしが感じるのは、われわれは非常に多くのことを無意識のうちに考えているのではないかということである。ある事象について何かを決定するのは機械的・反射的なものではなく選択によるのであるが、その選択は意識されないでおこなわれているのではないかということである。そして、その選択の結果の部分だけが意識をつかさどる場所にもたらされるのであり、それをわれわれは自由意志と思っているのではないかということである。
 意思というのは意識を前提とする。無意識の過程で決められる意志などというのは矛盾した表現であるが、それはちょうど視野の盲点を脳が埋めてしまい、それによって、われわれには欠損のない世界が見えているのと同じことで、事実がどうであるかということと、われわれにあるものがどう見えているのか?意識されているか?というの違いである。事実は無意識のうちに考えているのであり、それをわれわれは自分の自由な意思で考えていると感じている。
 もしも、そのような無意識の思考過程というものが存在しているのであれば、われわれはその無意識の過程に介入することができるのかというのが問題となる。無意識の過程から意識の過程への連絡があるとすれば、少なくとも無意識から意識への情報伝達の方向は存在するわけである。では、意識から無意識の方向は? 無意識は意識されないのだから、内観からはこれは確かめようもない。脳波とかMRとかPETとかそういった装置でそれを探求することになるのであろう。そして意識の部分はまだしも脳波やMRやPETの変化と本人の自己申告を対照させることが可能であるが、無意識ではそれができないわけだから、探求はきわめて困難なものになるであろうことが予想される。
 もう一つの問題は意識の部分は無意識の思考過程に完全に制約されるものなのか、それからは独立した、意識自体による決定というものがありうるのかということである。これが存在するならば、兎にも角にも自由意志が存在することになる。
 内田樹は「私の身体は頭がいい」で、次のようなことを言っている。「頭が理解できないことでも身体が理解できる、というのが私の特技である。だから私本人は「バカ」のくせに、私がつねに自信をもって「あいつはバカだ」と断言することができるのは、私が他者の知性をつねに「身体」で判断しているからである。そいつのそばにゆくと、私の身体が「ぴっ、ぴっ。こいつバカですよ、ぴっ」と信号を発するのである。私の「頭」はただそれに耳を傾けるだけでよい。半世紀生きてきて、身体によるバカ診断が誤ったことはただの一度もない。」 ここでの「頭」とは意識されていること、「身体」とは意識されていないことを指すのである。
 「意識されないこと」=「身体」を形作るものは「遺伝」+「その人の来歴すべて」である。ヴァイオリニストの脳では指に対応する部分が極めて発達しているように、その個々の人間の来歴によって、それぞれの脳はすべて違っている。脳を形作ってくるものは身体なのであるから、「私の身体は頭がいい」というのは少しも変な表現ではない。
 「頭」とは知識のことであるという見方が様々な誤解を産むのであろう。自転車の乗り方というのはいくら本で読んでも実際にやってみない限りは習得することができないものである。それは身体が覚えるのだと、とよくいわれる。実際には(身体+脳+環境)が一体となったものが習得されるのであろう。そして一度自転車に乗れるようになれば、意識することなしに自転車に乗れ、その技量は生涯にわたって維持される。知識がしばしば忘れられてしまうのと対照的である。
 「身体で覚えること」というのは自転車乗りのような狭義の身体訓練的なものに限られるとわれわれは思っている。しかし、考えるということも、その相当部分(大部分?)が「身体で覚えている」がしているのだとすれば、われわれが無意識に考えているということも呑みこみやすくなる。
 しかも4本指から5本指の場合のように、脳は可塑的であり、短時間で大きな変化をおこすことができる。無意識の部分にはどんどんと蓄積されうるのである。
 唐突であるが、「虞美人草」の宗近くんは「身体で考える人」なのである。それが「頭の人」である小野さんや甲野さんと対決する話である。明治維新による文明開化で、江戸の身体に西欧の頭が乗る悲劇を漱石は身体で感じていた。宗近くんは江戸の感性のひとであり、宗近くんの父親は天保老人である。身体に自信をもっている。ということは知識ではない己の来歴に自信をもっているということである。そして明治以降の世の中の流れの中で男は必然的に頭の人になっていくであろうと予想されたから、漱石は女に理想を托そうとした。それが清であり、糸子である。「糸公丈は慥かだよ。糸公は学問も才気もないが、よく君の値打を解してゐる。・・・えらい女だ。尊い女だ。・・・誠のある女だ。正直だよ・・・」
 そもそも、男が頭で女が身体だ、などという言い方はとんでもない差別であると受け取られる。それは頭が高級で、身体が低級であると考えられているからである。だから、そういう物言いは、女に低級なままでいろというのかという反応を呼ぶ。フェミニズムというのが、女も男と同じ不幸を味わいたいという運動であるならばそれは愚かである。たぶん、男は不幸でありながら幸福でもあるのである。そのどちらの側面を重くみるのかということなのであろう。
 しかし、「虞美人草」以下は完全な脱線である。本書の主旨とはなんら関係ない。わたくしの本書理解がそれほど筋をはづしていないとすれば、本書は動物の連続性という見方に大いに力をあたえるものである。ハブや蚤はほぼ自動機械である。しかし、犬や猫はサルはおそらく自動機械ではない。無意識の思考をおこなっているに違いない。進化の連続線のどこかで、反射による行動ではない行動が生まれてきたのである。それは飛躍ではなく連続である。そして犬や猫やサルがどれだけ自分の行動を意識しているのかそれはよくわからない。しかし犬や猫やサルと連続したものとして人間の意識もあるのであろう。そこにもまた飛躍はない。ただ人間は喉の構造によって言語をもつことができてしまった。そこから文字ももつことができてしまった。それゆえに意識というものも言語で捉えることができるようになってしまった。それゆえに自分の持つ意識が犬やサルのレベルとはまったく違ったもの、それとは隔絶したものであると感じるようになってしまった、そういうことなのであろう。心というものが特別なもの、他の動物と人間を分かつものと感じられてしまうのも、言語の特殊性に起因するのであろう。
 ユキスキュルの「生物から見た世界」の最初にダニの描写がある。ダニには眼がなく、皮膚全体に備わった全身光覚をたよりに木の上のほうに登ってゆく。哺乳動物の皮膚腺から分泌される酪酸を嗅覚で捉えると、落ちる。もしも暖かいものの上に落ちれば、それは温血動物の上に落ちたことを意味する。あとは触覚をたよりに皮膚組織の中に頭部をつっこみ血液を吸い込む。人工の薄膜と血液以外の液体を用いた実験で、ダニは味覚をもたないことが証明された。ダニが感じているのはその液体が適当な温度であるかどうかということだけなのである。もしも暖かいものの上にではなく、冷たいものの上に落ちた場合には、また木登りからやり直す。たくさん血を吸い込めば、地面に落ちて卵を産みあとは死ぬだけである。ユキュスキュルの問い。それではダニは機械なのか?
 ここでユクスキュルは「環境世界」という概念を提唱するのだが、ダニの環境世界はきわめて単純であり、一方われわれの環境世界はきわめて複雑であるのだという。彼はいう。「イヌが歩く場合は、イヌが足を動かすのだが、ウニが歩く場合には足がウニを動かすのである。」 ウニには自由意志はなく、イヌにはあるということであろう。
 ユクスキュルによれば、ダニはウニよりも高級である。というのはダニの環境世界は、酪酸接触刺激と体温刺激だけでなりたっているにしても、その三者が統一されている。ウニの環境世界にはそのような統一はない。
 人間の生きている環境世界を、われわれはしばしば物質としての世界そのものであると誤解する。
 ユクスキュルが「生物から見た世界」に収められた古典的な論文を書いたのが1934年から40年にかけてである。その当時にはまったくのブラックボックスであった脳の機能がその後様々に解明されるようになり、ユクスキュルの論じたことのバックグラウンドが明らかにされてきたということなのであろう。アフォーダンス理論も明白に環境世界論の延長にある。
 本書もまた環境世界論の延長線上にある。なぜなら、脳は身体を媒介として環境と相互作用するための臓器であるからである。ウニは中枢神経をもたない。だから環境との相互作用は反射だけによる。ダニも行動は酪酸の感知、接触の感知、体温の感知の3つの因子のみに規定されている。因子そのものは反射であるが、それらの反射による感知を結びつける仕組みがある。そしてわれわれは環境との間ではるかに多様で豊かな相互作用をおこなっている。
 西洋は神様などというものを発明してしまったお陰で、心を特別あつかいしなければいけなくなり、その呪縛の中で悪戦苦闘を続けてきた。本書を読んで感じるのは、その呪縛が解けるまでもう一歩のところまで研究がきているのかなということである。そのあと一歩というのがとんでもない距離であるのかもしれないのだが。


(2006年4月16日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

進化しすぎた脳 中高生と語る「大脳生理学」の最前線

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