實川幹朗 「思想史のなかの臨床心理学 心を囲い込む時代」

   [講談社選書メチエ 2004年10月10日初版]


 偶然本屋で見つけた本であり、著者についてはまったく知らない。
 読み出したはじめはなかなか面白いと思ったが、そのうち、なんだかなあという感想になった。非常に面白い視点を提出していると思うのだが、なんでもかんでもその視点から説明しようとし、その視点に結びつけようとしているため、主張の無理が段々と目だってくる本である。
 著者は哲学を学んだあと臨床心理学も勉強したひとであるらしい。とは言っても臨床心理学を学問として学んだのか、実際にその臨床経験もしたのか、それはよくわからない。おそらく経験していないのではないかと思う。実地臨床の微妙な襞みたいなものが、この本からは全然感じ取れないからである。
 
 以下、順を追って本書を読んでいく。《  》内は著者の主張を要約した部分。それ以下はそれに対するわたくしの茶々。
 
 《臨床心理学の中心をなすのは無意識であると考えられていて、無意識の発見がその近代臨床心理学をつくりあげたとされているが、無意識を発見したのは臨床心理学の開発者であるジャネ、フロイトらではない。無意識は彼ら以前から頻繁に議論されていた問題であり、フロイトらが無意識の発見者であるというのは間違いである。また臨床心理学の根本は、無意識ではなく意識である》
 以下の議論でもすべてに共通する問題であるが、ここで「意識」あるいは「無意識」といわれているものが何を指すのかによって、上記の言明の真偽はいかようにも変わってくる。本書では「意識」という言葉も「無意識」という言葉もが通常使われるのよりもずっと広い範囲をカバーするものとして用いられている。そのため、「意識」という言葉が万能の切り札としてスペードにもクラブにもハートにもダイヤにもなってしまい、緻密で論理的な議論ができなくなってしまっている。
 
 《臨床心理学の歴史はわずかに100年であるから、当然それのよってたつ世界観は近現代のものであり、臨床心理学は西洋近代文明の申し子のような存在であるといえる。そうであるなら西洋近代文明の病理をもまた内に抱えている可能性がある。心の問題はずっと昔からあったはずなのに、なぜ臨床心理学の歴史は100年しなないのか》
 それは、臨床心理学があつかうような心の問題には、まだ100年くらいの歴史しかないからということではないだろうか。心の問題という言い方をすると、それははるか昔からあったことになるが、同じ心の問題でも中身は全然違うのかもしれない。
 たかだか近代以降にしか通用しないものを普遍的な真理であるようにいったという点は、臨床心理学の大きな弱点である(臨床心理学は歴史的視点に乏しい)と思われるし、その点をついているのは本書の功績であると思うのだが、著者の主張はそういう方向にはいかない。われわれのものの見方が変わったから、心への見方が変わり、心への対応法も変わっていった、という方向ではなく、臨床心理学が誤った(あるいは偏った)心の見方を提示したために、われわれはその誤った(あるいは偏った)心の見方を普遍的なものであると思い込んでしまっている、という方にずっと力点がおかれている。
 だから本来、ここで問われるべきであるのは、われわれが現在もっている心というものへの見方が、近現代という時代の制約の中にあり普遍性をもたないものであるのか、長い迷妄の歴史の中からようやくわれわれが獲得することができた、今後どのように時代が変わっていこうとも維持されていくような普遍的なものであるのか、ということであるはずである。とするならば、これは科学の普遍性にかんするパラダイム論争などとも通じる議論であることになる。つまり近現代において圧倒的な力をもってしまった科学技術とそれを支える世界観の普遍妥当性の問題という視点にいきつくはずである。しかし著者の議論はそういう方向にはいかず、意識というものが中世以来どう捉えられてきており、それが近代でどのように転換したかという点に絞られてしまう。

 《西洋近代の世界観の特徴は、心の問題に限れば、心を「個人の内面」と同一視する見方である。こういう心の見方は普遍的なものではない。本格化したのは19世紀末からである》
 本当なのだろうか? 本書の後のほうで臨床心理学は中世の教会の懺悔の制度と似ているということがいわれるが、懺悔というようなことが成り立つのは、そこに個人の内面がすでにあるからではないだろうか?

 《過去において心の問題をあつかっていたのは何かといえば、宗教と哲学であった。現在ひとびとが臨床心理学に安心して身をゆだねるのは、それが宗教と縁が切れており、また哲学でもないためである。しかし、臨床心理学もある哲学的な立場をとっている》
 つまり著者によれば、過去において宗教が果たしていた機能を現在において果たしているのが臨床心理学なのである。これは本書において提出されている重要な論点であり、説得的なものである。しかし、そうではあるが、宗教と縁がきれているように見えるのも確かなのである。それは超自然的な説明原理を持ち出さないからである。
 また臨床心理学は無色透明で、背後に特別なものの見方はもっていないというのは嘘で、明確な哲学を背景にしていると著者はいう。ここでも問題になるのは、現在の自然科学を支える世界観が一つの哲学であって、他の哲学と代替可能なものであるのかどうかという点である。臨床心理学は一つの哲学的な立場をとっていると主張することは、現在の自然科学を支える世界観は絶対的なものではない、という立場を前提としている。しかし現在の圧倒的多数の人間は自然科学を無色透明で客観的なものであると思っている。哲学を専攻している人間からみると、そのうような見方は蒙昧で笑うべきものであるのかもしれないが、大多数の人間は哲学者ではないし、哲学にも関心をもたない。自然科学者にきいても自分はある哲学的信念で研究をしていると認めるひとはほとんどいないであろう。
 あなたは気がついていないかもしれないが、実はあなたがこれこれをしているのはあなたがなになにであるためだという議論は、臨床心理学でありがちな議論なのであるが、著者の議論はそれに通じてしまうのである。

 《臨床心理学の主張のエッセンスは、「無意識を意識化できれば治る!」というものである。無意識から病気はおきるのであり、意識からは心の病気はおきない。意識は万能薬なのである。無意識はその意識と対立するものとして発見された。それ以前の心とは実はフロイト以後の無意識に相当するものなのである。フロイト以後、意識についての見方が変わった》
 現在、臨床心理学の現場にいるひとで、無意識を意識化させれば心の病気が治ると思っているひとはいるだろうか? 著者は臨床の場を知らないひとではないかと思う。臨床心理学の開祖は、無意識を意識化できれば治ると当初は思っていたのであろう。しかし、現実にはそんなことはほとんど起きなかった。それにもかかわらず、臨床心理学は何がしかの効果をもった。それは単にクライアントのそばにいることにより生じたのかもしれないし、クライアントの話をきくこと自体が有効であったのかもしれない。あるいはとにかくそのクライアントにかかわりをもつことそのものが有効であったのかもしれない。本書のあとのほうで書かれているように、それではバーのマダムの果たしている機能とかわるところがないのかもしれないし、あるいはバーのマダムは有能な心理療法士であるのかもしれない。いずれにしても、無意識を意識化すれば治るという、時代遅れの教義をこの本はずっと保持しつづける。そうしないと、本書の論旨が崩れてしまうからである。

 《意識があるとはどういうことであるのかは現在まだまったくわかっていないが、意識は現在では通常は科学の対象であるとは考えられていない。それは意識が物理学的な力、何かを動かす力をもたず、ただ認識するためだけのものとされているからである。それにもかかわらず、意識することが病気を変える力をもつというのは不思議である》
 認知科学とその周辺の学問がこれだけ隆盛しているのだから、意識が科学の対象であるとされていないというのは随分な言い方であると思うが(著者は基本的に文科系のひとで理科の学問にはあまり関心がないのではないかと思う)、意識することが病気を変えるというのは、あることを意識することでその人の非物理的な状態が何らか変わるというだけなので、そこでは物理的は変化は何も起こっていない。しかし、意識が変わるとそれにより行動も変わるので、結果的に物理学的な変化を引き起こしているようにみえるだけと考えれば、上記の不思議は説明がつく。
 それにおそらく、現代の科学によれば、あることを意識することは脳内の物質、神経細胞の配線などにさまざまな物理学的な変化を生じさせていることもある程度証明できるはずである。意識は外側を変えることはできないが内側はかえることはできるのである。なぜなら、意識は内側での出来事だからというだけのことではないだろうか?

 《19世紀の半ばからヨーロッパではでは世界観の変化がおきた。これを「意識革命」と呼びたい。自然科学をふくむさまざまな理論が、この「革命」によって書き換えられた》
 これは逆ではないかと思う。自然科学の成果がとても華々しかったので、それに伴って意識についての見方も変わったのではないだろうか? 著者は哲学の側の人間であるから、哲学の領域でおきた変化が根源的であるとしたいということは理解できる。しかし、哲学がわれわれの認識に大きな影響を与える時代はとっくに終わっていたのであり、近代は自然科学の成果がわれわれの認識に決定的に影響を与える時代になっているのではないだろうか?

 《無意識を意識化するには言葉の力を借りる必要がある。無意識は言葉で表現されることによって意識になる》
 われわれは、言葉によって考える。ポラーニの「暗黙知」のように言語によらない知というものはあるだろう。しかし、それは、「なごめる心には一挙にわかる」(中原中也)というようなものであって、わかるひとにはわかる、わからないひとにはわからないものであるから、共通認識に達することはできない。言葉になっていないものは共通の了解に達することはできない。

 《心理療法はからだを避ける。物質や肉体に対する精神に優位というのが、臨床心理学のテーゼである》
 純粋の心理療法家は医療行為をできない。体にかかわることができない。それが心理療法の行動範囲を決めてしまっているところが多分にあるに違いない。もちろん、西欧のバックボーンであるキリスト教の精神優位、言語優位の思想がそこにあることは確かであろうが、どうも著者は現実による制約という方向に頭がいかないらしい。

 《デカルトの「われ思う。ゆえに我あり」は意識の優位を宣言しているようにみえる。しかしデカルトは五官から入ってくる情報を悪魔のたぶらかしの可能性もあるとして信用しない。デカルトは最終的に神をもちださざるをえない。それはデカルトが本当には意識を信頼できなかったからである。
 トマス・アキナスは人間を動物からわかつものは理性の存在であるとした。一方トマスにとっては、感覚に与えられるものはどうでもいいものであった。なぜなら感覚に与えられるのは個別のものであって、普遍性をもたないものだからである。そういう感覚は動物でももっている。一方、理性は超越的なものであり、無意識なものである。臨床心理学は中世からの肉体へ蔑視という視点は受け継いだ。一方、理性を意識の側にとりこむという中世とは正反対の行き方をした》
 これが著者のいう「意識革命」なのであるが、中世においては『真理』は神が与えてくれるものであり『理性』も神があたえてくれたものであったが、近代以降では『真理』は人間が探究するものとなり、『理性』も無条件で信頼することはできなくなった、ということをいっているだけではないだろうか。中世において罪をもたらすのは『肉体=性』であったが、近代以降においては『理性』を脅かすのが『肉体=性』となった。とすれば、『意識革命』とは神が死んだというだけのことではないだろうか? 著者は一見そうは見えなくても、臨床心理学の中にはキリスト教の教義が残影として残っているという。確かにそうなのであろう。しかしそれは残影であって、神そのものではない。それは決定的な違いである。村上陽一郎氏らがいう『聖俗革命』であって、現在の自然科学の背景にはキリスト教の世界観、理神論的な世界観、真理が存在するとか、普遍的な法則が存在するとかがあることは間違いない。
 とすれば、神への信仰がなくなり、神中心から人間中心へという時代の流れの中で、われわれの心への姿勢はどのように変化するかというのが著者の本当の問いとなるはずである。それなのに、意識という問題を前面にだしてきて、「意識革命」などといいだすので、本当の論点が見えなくなる。なぜそうなるのかといえば、議論のスタートが「神の死」ではなく、臨床心理学の「無意識の発見」という場所になっているからである。(著者はキリスト教はもともと人間中心主義であるとして、ここの議論を避けるのであるが、キリスト教は万物の霊長として人間を最高位に置いたとしても、現世中心ではなく来世中心である。人間中心主義という言葉には普通現世中心ということも含意されていると思うので、この点、著者の論は説得力がない。)
 ところでほんの思いつきであるが、『フロイトは性というものをきわめて恐ろしい力をもつものであると思った。一方ユングは性をわれわれをよい方にも導く力をも持っているものと考えた。それがフロイトユングの相違であり、それはフロイトが厳格に一夫一婦制をまもろうとしたひとであり、ユングが艶福家であったことに起因する』ということはないだろうか? これはあまりに形而下的なものの見方であろうか? 現在フロイト精神分析がなんだか落ち目で、ユングのほうが人気があるのも、現今の性意識の変化と関係しているということはないだろうか?

 《意識革命の成果は、意識の位置づけを物質の原理から切り離して、理性の側に持ってきたことに由来する》
 中世においては、われわれに感覚をもたらす何かが物質側に備わっていると考えられていたが、近世以降、物質は無機的となり、感覚はもっぱら感受する側だけの問題となったということのようであるが、本当だろうか。そうであればカントの「もの自体」などという議論はおきないのではないだろうか?

 《中世では理性とは抽出可能な一種の物質であると考えられていた。これは「賢者の石」とも呼ばれ、錬金術とはそれをとりだそうとする企てであった。意識は理性=精神である部分と感覚にわかれる。この理性部分を取り出そうとしたのである。ニュートンは地上・天上では機能する物理法則が地下では機能しないと考えた。そこでは生命法則が支配するとした。》
 大変面白い議論で、わたくしとしてははじめて知った部分もあった。しかしここらあたりはアニミズム的思考とその衰退という問題として正面から論じるのでないと有効な成果は得られないのではないだろうか? 生命の原理とはなんであって、無機的な物質とどのように区別されるかというのは生物学の根底的な問いであって、それを説明するために導入されていた生命固有の原理というのが次々に学問の舞台から消えていくというのが、生物学の歴史である。そして、生命というものの神秘が陸続と消えていくなかで最後の神秘として心の問題が残っているというのが現状なのではないだろうか?

 《コントとミルの実証主義においては、感覚にあたえられたもの(=データ)がすべてであるとされた。》
 コントらの哲学から出発したのであろうか? 自然科学の成果がそのような見方をもたらしたということはないだろうか?

 《意識は神に由来し、無意識は悪魔に由来する。その闘争として心の問題をとらえる。これはキリスト教の構図そのものである。そうであれば臨床心理学の実践とは、無宗派の宗教家の宗教活動なのではないだろうか?》
 著者の指摘をまつまでもなく一昔前のアメリカ映画では精神分析を受けるインテリがしばしば登場した(ウッディ・アレンの映画など)。それはまさに懺悔告白の現代版である。しかし宗教とは同時に、天変地異がこないこと、豊作であることを祈り、あるいは国家安寧、他民族の滅亡をも願うものでもあった。宗教のこういう側面を無視して、かつては宗教が心の問題を扱っていた。現在は臨床心理学が心の問題をあつかう。ということからの類推として臨床心理学の宗教としての側面を論じることにどれほどの意味があるだろうかと思う。もちろん、もしも臨床心理学を実践しているものが、自分は宗教の側面も持つ活動をしているのだということを意識していないとすると、その実践活動はきわめて危険なものともなりうるであろうから、著者のこの指摘は重要なものではある。しかし、ここでの根本的な疑問は、著者が心を人間を人間たらしめるものであるとし、それを扱う宗教を特別なものであるとし、したがって臨床心理学もまた特別なもの、別格なものとしているのだろうかということである。そういう気配がする。著者は宗教・哲学・心理学などを総合した学問形態を夢想しているようなのである。そういう統合への意思、あらゆるものを説明できる唯一の原理への希求というのは、まさしく西洋のあるいはユダヤキリスト教の原理そのものであるとわたくしには思われるのだが・・・。
 
 などといろいろ茶々を入れてきたが、著者の提示する論点そのものはとても興味深いし、わたくしが今まで考えてきた点と重なる点もあり、また何となく感じてきてはいたが言語化できていなかった部分をうまく言語化してくれた部分もあった。ただ、その問題点に対して著者があたえる解答というのが、ことごとくわたくしの興味の方向からいうと明後日の方向を向いているというか、何か違うのではないかなという感じを抱かせるものばかりであった。
 一つには時代というもののきわめて大きな逆行できない流れというという感じが著者にはないように思えるという点である。進化の結果が現在こうであるからといって、それは偶然の産物であって、なんら必然的なものではないのと同じように、現在世界がこうなっているということは、数々の偶然の積み重なりによるものであって、決して必然的なものではないけれども、しかしそれにもかかわらずわれわれはそれをもとに戻すことはできないという感覚である。もはやわれわれはアニミズムの世界に戻ることはない。物質にも心があるというような認識に戻ることもない。われわれは本当は何もしらないほうが幸福であるのかもしれない。それにもかかわらずわれわれは知識を求め続けるであろう。その結果、世界は驚異に満ちたものではなくなって平板化し、われわれは以前の人間よりもずっと味気ない人生をおくることになってしまったのかもしれない。それにもかかわらず昔には戻れないのである。哲学者がある世界観を提示すると、世の中の方向が変わるというようなことはもはやおきないのである。
 もう一つは著者が根底にもっているであろう文化的な学問(特に哲学)の優位性への確信のようなものである。世界はどんどんと世俗化する方向で動いており、その中で哲学の場所は縮小する一方である。サルトルはおそらくある程度社会的な影響を発揮しえた最後の哲学者であるのかもしれない。構造主義は学者の間では議論されても社会的な影響はほとんどない。相対主義的な見方は世俗的にも広範に見られるが、それは構造主義がもたらしたものではなくて、一神教的な見方が力を失うと相対主義が力をえるのは当然であって、そういう時代にマッチした思想として構造主義がもてはやされたというだけであろう。そういう点で、著者は古い教養主義的な意識を棄てきれないのかもしれない。
 自然科学はもっぱら物質をあつかってきた。そもそも自然科学が物質をあつかえることを実証してきたことがアニミズムを徹底的に弱体化させたのである。そして肉体もまた物質の観点からあつかえるものであることが示され、それも自然科学の対象になってきた。しかし心だけは未だ十分には科学の対象とはなっていない。それは腎臓や肺や心臓とくらべて脳は圧倒的に複雑な機能をもつからである。それがゆえに今まで腎臓や肺や心臓をあつかってきたのと同じ方法論で脳にアプローチできるものなのであるかどうかさえ判然としていない。そういうものに対してフロイトとかユングが提出したモデルというのはあまりに単純なものであった。そうではあってもそれは人間は神によって良心を与えられているというような説明とは次元の違うものである。結果的には宗教家のもつ機能と心理療法家の果たす機能には近いものがあったとしても、それでも違うものである。
 おそらくこの本のもっている根底的な問題点は、臨床心理学を哲学的な心身論との関わりで論ずるやりかたのうちにあるのではないだろうか? 臨床心理学は臨床のためのものであるから、とにかく治ればいいのである。間違った理論によって有効な結果がえられることなど臨床の場ではいくらでもある。あるいは一切の理論なしに有効性が先に発見され理論はあとからつけられる場合も多々ある。フロイトらの臨床心理学はとにかく有効な症例がいくつかはあったのである。だからといってフロイトの提示した理論的枠組みが正しいということにはならない。一方、哲学的心身論は、精神病理などというものとは一切かかわりのない、われわれの身体とわれわれの心はどのように関係しているかという問いである。
 ポパーは「果てしなき探求」の中の「心身問題と世界3」で、「心的状態が生命の進化の産物であること、また心的状態を生物学ではなく心理学に結びつけることによってはほどんど何も得られないということも、明らかであると思われる」といっている。實川氏は一方でキリスト教によって人間は他の動物と違う心ある存在であるとされたということをいい、他方で臨床心理学は意識を万能の霊薬のようなものとしたという。ここでは心の生物学的機能などという観点は一顧だにされていないのである。心とは何か生物学な機能(この本での言葉でいえば肉体)とは全然別な何かなのである。
 ポパーは「心とは言語を生み出す器官である」という定義を提出する。そして言語以外に、理論、批判的議論、誤り、神話、物語、警句、道具、芸術作品をも作り出す器官であるが、心が最初に作り出したものは言語であるだろうという。このように定義したからといって精神疾患の理解には何ら資するところはない。しかし、この定義は心の神秘化だけは回避することができる。實川氏の議論の一番気になる点は、どこかに心の神秘化への傾きが感じられることである。そして臨床心理学の問題点もどこかに心の神秘化への志向をもつ点である。實川氏は臨床心理学がもつ意識の万能薬化を批判し、歴史の中では心というのはもっと大きな範囲をカバーするものであったことを指摘する。しかし心が人間を人間たらしめるものであるという信念があるので、心をもっと即物的に生物学に見ることをしないのである。
 やはり理科的な視点というのも大事なのであると思う。


(2006年4月19日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

思想史のなかの臨床心理学 (講談社選書メチエ)

思想史のなかの臨床心理学 (講談社選書メチエ)