山田昌弘 「家族というリスク」

  [勁草書房 2001年10月15日初版]


 これも新聞雑誌等に発表した短い家族にかんする論考を収めたもの。また論点をひろってみてゆきたい。
 現在日本社会では、家族生活がリスクをともなうものになってきているが、危機感を感じていい人ほど能天気で、家族生活の現実について何も考えていない。
 社会が近代化すると、人は共同体から離脱する自由を得る。しかし、それによって個人主義が強まったといっても、人びとが家族を作らない生き方を求めているわけではない。信頼できる関係性にもとづく絆形成への欲求は強い。戦前の日本でも、夫婦や親子の関係が安定していたわけではないが、それを包み込む共同体集団は安定しており、それが個々人の経済的、心理的安心感の源泉となっていた。現在の日本ではそういうものが失われてしまったいるが、戦前から連続した家族関係を前提にしているため、それが悪くなることを想定していない。そのため、家族関係が悪化することによって生じる不都合への社会からのサポートが期待できない。
 現在の日本では、家族を離れ、社会のサポートを受けなくてもやっていけるような、経済的に自立し、精神的にも自立したひとだけが、主体的な人生設計をすることが可能になる。そういう人だけが日本の「標準的家族形態」から自由になることができる。現在日本の「標準家族形態」で予想されているリスクとは家計を支える夫の死のみであり、そのためには生命保険が普及している。しかし夫が失職するとか、夫婦が離婚するとかのリスクはまったくヘッジされていない。わずかに介護の問題について近年、保険であつかおうとしてきているくらいである。
 統計をとると、同居する父親の収入の高い女性と、自分の収入が低い男性が結婚難に陥りやすいことがはっきりと示される。しかし、このことはタブーあつかいになっており、なかなか公表さえできない。階層と結婚の関係を論じることがタブーなのである。
 パラサイト・シングルの存在は、日本のフェミニズムが依拠してきたいくつかの前提を崩すものとなった。その第一は、女性は仕事をしたがっているという前提であり、もう一つが女性は差別され抑圧されている弱者であるという前提である。
 前提①:女性は働きたがっている。この背後には「働くこと自体が喜びである」という仮説がある。しかし、働かなくてもある程度の生活ができるならば、ひとは働かないのではないだろうか? 男だって仕事が自己実現であるような仕事をしているひとはきわめて少数である。男が働くのは、a)妻子を養うため、b)よい生活をおくるため、c)家事をしない言い訳になるから、である。女性は結婚すると、仕事をしても家事をしない言い訳にはならないという現実がある。この現実がますます女性を仕事から遠ざける。パラサイト・シングル女性の存在は、女性が働きたがっているというのは神話であり、現実ではないことを示している。欧米では夫に頼れなくなれば、自分で働くしかなくなる。しかし、日本では夫に頼れなくなると親に頼るでのある。
 前提②:女性は差別され抑圧されている弱者である。差別され抑圧されている女性は間違いなく多数存在する。しかし《平均してみると》女性の生活水準は男性よりも高く、女性の生活満足度も男性よりも高い。自殺するひとも男性に多い。男性は家族の家計を支える責任を負うという神話によって、男性は不当に不利益を蒙っているのかもしれないのである。男性は女性より優位であるという社会的評価を与えられることを代償として、非常に大きな責任を押しつけられている弱者なのであるかもしれない。(宮崎註:妻子を食わせているというプライドが男を支えているのである。一方、女は男にプライドという花をもたせて、生活満足度という団子を自分のところに確保しているのかもしれない。そしてそのことには狩猟採集時代からの生物学的背景もかかわっているのかもしれない。)
 戦後日本の社会システム自体が、護送船団方式、終身雇用、系列、公共事業依存体質など、依存を前提とするものであった。戦後の日本社会は、個人主義ではなく、家族主義であった。そういうなかで、親と同居してあげている、母親の作った食事を食べてあげている、と言い放つ子どもたちがでてきてしまった。
 専業主婦は「自分の生活水準が夫の収入に連動する存在」である。専業主婦のプライドをかたちづくるのは夫の学歴、職業、地位、子どもの通学している学校であり、いかに立派な家に住んでいるかであり、しゃれたものを着ているかであって、自分の家事労働の出来ではない。つまり自分の能力ではなく、夫の能力によって評価される。
 しかし、高収入の男性と結婚して専業主婦になりたいと思っても、学歴の低い女性はそういう男性と知り合いになるチャンスがない。一方、仕事で自分の能力を活かしたいと思うような女性は、自分よりさらに能力が高い男性と結婚する可能性が高いから、その相手は多忙であり、心ならずも専業主婦とならざるをえなくなる。いずれにしても、専業主婦の時代は終わった。
 専業主婦を作らずに社会を近代化する方法がある。それが社会主義体制であった。この30年くらいの間に欧米では専業主婦が激減し(アメリカ 1955年77%⇒1999年22%)、社会主義体制も崩壊した。現在の日本も専業主婦体制から共働き体制への移行期にある。専業主婦体制を無理して維持しようというのは愚かなことなのである。
 自分を犠牲にしてまで子どもにつくすというやりかたは欧米ではあまりみられない。むしろ自分が若いときに苦労したら、同じ苦労を子どもにもさせるべきと考える。日本の親の「子どもに苦労させず、楽をさせることこそ親の務めという意識とは正反対である。
 
 「花より団子」という言葉ある。あるいは「武士は食わねど高楊枝」。どちらも「いろはカルタ」だったように思う。子どものころは、「武士は食わねど高楊枝」というのを、腹が減っているくせに、そうでない振りをして見栄をはっている武士を笑ったものであると思っていた。それがいつの間にか、これが人間のプライドを示したものであると思うようになった。原口統三の「二十歳のエチュード」を読んだあたりからであろうか?
 人間「花より団子」といいだしたらおしまいかもしれない。人間のつくりだしてきたものの中でいくらか増しなものは、すべて「武士は食わねど高楊枝」「やせ我慢」という精神からでてきたものかもしれない。これはプライドであり見栄である。男はすべてを失ったかもしれないが、それと引き換えにプライドだけは確保したのかもしれない。
 そして、もう一つの見栄である貴族のぜいたく奢侈のほうは女が引き継いだ。贅沢と恋愛が資本主義をつくりあげたというのがゾンバルトの説であるが(「恋愛と贅沢と資本主義」)、なにしろヴェルサイユ宮殿ルイ14世が愛妾のためにつくったのであるし(ルイ14世は国家財政の三分の一を女道楽と贅沢のために費やしたのだそうである。今ならさしずめケインズ流の公共投資であろうか)、王侯貴族やブルジョアが女遊びのために金に糸目をつけなかったために、高級ホテル、レストランができ、レース、絹織物などが発達した。女の消費と女のための消費は文化の花をひらかせ、資本主義を発展させた。その衣鉢をついで女性たちがパラサイトとなって無駄なお金を使いまくっていることは市場のためにはいいことなのかもしれない。
 にもかかわらず、男たちがプライドを捨てて、主夫になってもいいから楽をしたいなどといいだし、インテリであるフェミニストが、女たちに、楽ばかりしてないで自立してプライドをもって働けなどとけしかけていることが問題なのであるかもしれない。
 男にはプライドが配分され、女には消費が配分されているなどと書いているのは、わたくしの中にある膨大な偏見の一部による。しかし、たとえば、女性がする化粧というのがわたくしには理解できないのである。あれは本当はしたくないのだが、男性社会による強制によりいやいやしているのであろうか? 男が公的な場ではネクタイをすることを半ば強いられているのと同じようなものなのであろうか? また洋服をあれだけとっかえひっかえ換えなければいけないというのもわからないのである。あれも本当はそんなことはしたくないのだが、社会儀礼上やむなくそうしているのであろうか? しかし女は3年前のなんとかという会でどういう服をきたかちゃんと覚えているのである。不思議である。男はそんなことがなくて、本当に楽だなあと思う。
 男女の差がすべて文化的に規定されているのだとすると、男女平等の社会においては女性は化粧しなくなるのであろうか? あるいは男性が化粧するようになるのであろうか? 男女は違っているけれども平等に、ということであれば、当然平等社会になっても、女性は化粧をするであろう。しかし女性に化粧をさせる何かが同時に男女平等社会実現を妨害しているのかもしれないとも思う。また、今でも化粧なんか死んでもするものかという女性だっているだろうと思う。
 以前、河合隼雄の何かの本で、日本の昔の夫婦は生活していくだけで一杯で、前後の敵に相対するために背中合わせで闘っているように生きたので、ようやく敵を何とか退治して、ほっと一息つき、あらためて相手の顔をしみじみとみて、自分はこんな奴を夫婦であってのかとはじめて気づくが、その時にはすでに遅くもう老年になってしまっており、遠からず死んでしまうから夫婦の間の問題というのはおきなかったのだというようなことを書いていた。経済的余裕と暇ができて、若いときからじっくりと互いに顔を見合わせたりすると碌なことにはならないのかしれない。
 しかし、そくらそんなことをいってももうわれわれは豊かになってしまっており、時間もたっぷりとできてしまったのである。もう後戻りはできない。山田氏のいうように、家族というのが、一生それに依存していけるような安定したものではなくなり、きわめてリスクに富んだものになっていくだろうことは間違いないであろう。しかしそういう危機意識を漠然と感じながら、それを直視したくないひとが、夫婦別姓反対とか、日本の家族制度の美風を守れとかいっているのかもしれない。



(2006年4月23日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植) 

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