山田昌弘 「家族のリストラクチュアリング 21世紀の夫婦・親子はどう生き残るか

  [新曜社 1999年9月20日初版]


 雑誌、新聞などに発表した家族にかんする短い評論を集めたもの。その要旨をひろってつなげていってみる。
 「家族内離婚」ということがいわれるようになったのは1985年のことである。それに関連して夫の「帰宅拒否症候群」とか「妻たちの思秋期」とか「濡れ落ち葉」とかいろいろなことがいわれるようになった。しかしうまくいかなくなった夫婦が急に増えたわけではない。変わったのはわれわれの意識なのである。「夫婦の愛情あふれる生活=人間の幸せ」という意識が強くなったため、以前なら気にもとまらなかった親密度の低い夫婦が問題とされるようになっただけである。
 欧米では1970年代に、フェミニズムによる意識改革、不況のためのリストラによる男性の賃金の低下や失業、離婚の規制緩和がほぼ同時におきた。このころはじまった女性の社会進出は、男性の職業の不安定化と離婚が簡単におこなえるようになったことによる女性の自己防衛という要因が少なからずからんでおり、決してフェミニズムの影響のみによるのではなかった。夫は共稼ぎの妻の賃金が低くては自分たち夫婦の生活程度が維持できないし、娘の父は離婚した娘の生活が安定するためにも職場の女性差別に反対した。欧米の女性の社会進出は夫と父の支援があった。
 しかし日本では1990年ごろまで好景気が続いたので、男性労働者の雇用が年功序列と終身雇用という形でなんとか維持されてしまった。離婚条件の緩和もすすまず、妻の地位は保全された。そこで、フェミニズムによる平等化志向の意識のみが先行した。そこからでてきたものが、仕事による自己実現志向と専業主婦のカルチャーブームという「擬似的な自立」であった。これは家計補助のために働かざるをえない人を下に見て、「中流意識」を維持するための象徴的な活動であった。こぎれいでクリエイティヴな仕事でなければいやとか、ボランティア活動で社会に役にたっているとか、変革のための力をもたない活動であった。
 しかし専業主婦は「ぜいたくな」存在になりつつある。年功序列、終身雇用にしがみついている男性にはいずれつけがまわってくる。それにしがみついている専業主婦がどうなるかはいうまでもない。しかし現在は「新専業主婦志向」(小倉千加子)の時代であるといわれている。バブルがはじけ、おしゃれな仕事がなくってくると、嫌な仕事をするくらいなら家に戻るという志向がでてきているのである。これはかつての専業主婦志向とは異なる。積極的に育児や家事に専念したいというのではなく、苦労する仕事はしたくないというだけなのである。夫は仕事と育児、自分は育児と趣味というのが理想になっている。
 最近アメリカの大統領選挙などで家族の価値をかかげる政党が優位にたつという現象が見られる。そのような「家族原理主義」は、日本でも、保守層や宗教家によってばかりでなく、草の根層からの支持も受けるようになてきている。
 
 著者がもとめているのは、おそらく女性も男性なみにはたらくことである。男がしているのと同じ苦労を女もしないと本当の社会進出なんかできないし、男性中心社会も変わらないよ、ということである。「結婚の条件」での「仕事というのはね、いやなことも含めて、ぜーんぶ仕事なんです。」という、小倉加代子氏のある女性への説教を思い出す。それに答えてその女性いわく、「女は真面目に働きたいなんて思ってませんよ。しんどい仕事は男にさせて、自分は上澄みを吸って生きていこうとするんですよ。結婚と仕事と、要するにいいとこどりですよ」 それに対して小倉氏はその点に関してはまったく同意見という。女性がそういう生き物であるというより、人間というのがそういう生き物であり、女であることで楽をできるのであれば、それを使わないはずはない、男性だって同じ立場になれば同じことをするであろうと。
 そうすると男であることで楽をできるのならば、男はその特権を利用しないはずはなく、既得権を自ら手放すわけはないから、男に譲歩をせまるフェミニズムはほとんど崩壊してしまうと思うのだが、そんなことを言う小倉氏はよほどフェミニズムに絶望しているのであろう。
 問題は「結婚と仕事と、要するにいいとこどり」なんてうまいことができるかである。できればすればいい。山田氏のいっていることは、そんなことはこれからは今まで以上にできなくなるぞということである。おそらく多くの女性はわたしにだけはできると思っている。それでいつまでも結婚せず、その結果少子化が生じるという山田氏のパラサイトシングル論につながっていくわけだが、それはおいておく。小倉氏の「結婚の条件」にも書かれているが、一部にはできるひとがいるのである。しかし大多数のひとはできない。「猫をカスタード・クリームの中で溺死させるという殺し方もある」と恐ろしいことを小倉加代子氏はいうが、大多数の女性が夢を描いたまま溺死していくのかもしれない。
 そのような形で家族制度が侵蝕されていく。それに危機感を抱いたひとが「家族原理主義」に走る。そして「家族原理主義」から覚めて、では結婚しなくてはいけないのか、家庭はもたなくてはいけないのか、と考えると別にそれに理由はないことに気づく。太古以来、人類は家庭ないし、それに類似した形態のもとで生きてきたし、とにもかくにも一夫一婦制のもとでいきてきた。家族というものあるいはその類似の形態には、何か生物学的な根拠があるのかもしれない。だから、もしも現在の家族というかたちが崩壊しても、それでもなんらか別の形態を人類は見出していくのかもしれない。それとも本能の壊れた動物として、緩慢に滅亡の方へ向かっていくのであろうか? それならそれで少しも構わないのかもしれないが・・・。


(2006年4月23日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)