橋本治「あなたの苦手な彼女について」

  ちくま新書 2008年12月
  
 橋本治フェミニズム論である。それだけに収まる本ではないが、基本的にはフェミニズム論である。こんなことを書くと夜道を歩けないのではないかというようなことを平気で書いている。
 「もちろん、そんなことを口にしたら、うるさい女達から袋叩きにあうでしょう」と書いている「そんなこと」というのが、「男にとって、女は“恋愛の対象になる女”と“恋愛の対象にならない女”の二種に大別され、後者は男にとっては、“どうでもいい女”なのだ」ということである。“どうでもいい女”は文字通り“どうでもいい”のであるから、男はまったく関心がない。“どうでもいい”だけなのであるから、別に差別しているとか下にみているということではないにもかかわらず、それを差別であると指摘されて、男はきょとんとするばかりという話なのである。
 下世話にいえば、女は美人とそれ以外に分かれるという話なのであるが、そんなこと言ってしまっていいのであろうか? 美人などというのは客観性のないものであり、亭主の好きな赤烏帽子ということもあるから、男にとっては、要するに自分がいいと思う女とそうでない女がいるわけで、そうでない女はいないも同然ということになる。こんなことを書かれたら憤死する女性もたくさんいるのではないかと思う。「「ブス」という言葉が表すのは「お前は醜い女だ」ではなくて、「女であることから排除してやる!」という、至って強い拒否なのです」なんて、本当にこんなこと書いてしまっていいのだろうか?
 橋本氏に「青空人生相談所」という素敵におもしろい本がある(ちくま文庫 1987年)。人生相談だから、質問があってそれに橋本氏が答えるのであるが、そこに「ブス嫌いの教師候補氏からのご相談」というのがある。引用するだに恐ろしいのであるが、引用してしまおう。
 質問:僕はブスが大嫌いです。嫌いというより憎しみに近いような気がします。それは生理的なものですが、街角で、マリン・ルックのドブス集団が、我がもの顔に闊歩する姿を見かけると、その顔を、斧でメタメタにしてやりたくなります。ブスに自由を与えるな、ブスに人権など、ふざけんじゃねぇ、というおたけびが、いつも身体中を駆けめぐります。
 という相談者が、なんの因果か、某女子校に講師として赴任することになり、大多数のブスの前で、何が教育だ、差別して何故悪い、というのが質問。
 橋本氏の回答:ブスが何故ブスかいうと、バカだからです。バカじゃなかったら、ああいうのが平気で生きていける筈はありません。どうしてブスを殺したくなるのかというと、ブスに自分がブスだということを認めさせるということになると、途方もない時間と途方もない根気がいることが分かって来るからです。啓蒙するよりも殺したほうが早い、と。そして因果なことに、どんなブスでも殺すと手が後ろに回ります。従って、ブスを撲滅すする為には啓蒙するしかないのです。という訳で、私は、ほとんど絶叫しながらも、女の為の本を書いてはいた訳です。
 こんなこと書いていいのかなあ? 橋本氏にとって、ブスは“どうでもいい女”ではなく、殺したくなる存在であるらしい。この人生相談においては、ブスをデブブス・ヤセブス・和田アキ子タイプの3つにわけて、質問者に対策を伝授している。
 などという調子で書いていると、この橋本氏の本がふざけた本であると思われてしまうかもしれないが、決してそういう本ではない。フェミニズムを論じる場合、どうしても、男はこういう調子になりがちである。とにかくフェミニズムは観念的に感じられるのである。ウーマン・リブというのが話題のなりはじめたころ、丸谷才一氏が、一度ウーマン・リブの会を見にいってみよう。少しは美人もいるかもしれない、といったことを書いていた。フェミニズムというのは不美人の失地回復運動ではないか、という疑念が男の頭を去らないのである。それはまさに、女を“恋愛の対象になる女”と“恋愛の対象にならない女”の二種にわけるという男の抜きがたい本性にもとづくのではあるが。
 いうまでもなく、そういうのは女性差別であるし、女性差別を告発する権利を持つのは女性だけである。そして、告発する女性は男からみると、“どうでもいい女性”なのである。本書はその堂々巡りを論じたものである。
 逆を考えてみる。《女にとって、男は“恋愛の対象になる男”と“恋愛の対象にならない男”の二種に大別され、後者は女にとっては、“どうでもいい男”なのだ》というのはどうだろうか?
 二つの問題がでてくるように思う。一つは、“恋愛の対象になる男”と“恋愛の対象にならない男”というのが、“恋愛の対象になる女”と“恋愛の対象にならない女”と微妙に非対称であるように思われることである。“恋愛の対象になる男”が美男であるとは限らないように思われることである。経済力とか、いろいろな要素がそれ以外にあるのではないか?
 もう一つの問題が、男にとっての男という問題があるように思われることである。それに較べると、女にとっての女という問題は随分と小さいように思われる。ホモ・セクシャルとかレズビアンとかいう方面の話ではなくて、男は女に選ばれなくても男に選ばれることで生きていくことができるが、女は男に選ばれなくても、女に選ばれることで生きていけるとはいえない、という問題である。
 本書のかなり後半になって「男社会」という言葉が登場する。橋本氏によれば、この言葉が登場するのは1980年代であり、これが女達が持ち出した最大の武器となったという。「男が男のために作る男にとっての都合のいい社会」というのが橋本氏の定義である。その通りであろう。人間のこれまでの歴史において、そのほとんどが男社会だったのである。女性がなにがしかの権力を持ちえたとすれば、それは霊能者として、巫女としてという場合がほとんどであったであろう。
 ごく最近まで、誰もが「男社会」を当たり前のものと思っていたのである。ほとんどそれを自然のものと思っていたのだと思う。ごく最近になって、それは決して当たり前のものではないのだと気がついたひとがいた。その人たちが「男社会」に女も参加させろという要求をはじめたのである。男は女に選ばれなくても「男社会」の中で生きていける。しかし、女は男に選ばれることでしか社会に参画できないとすれば、それはおかしいという、いたって真っ当な主張をはじめたのである。
 《女を“恋愛の対象になる女”と“恋愛の対象にならない女”の二種にわける》というのは、男が男だけで社会を運営していけるという前提があるからこそ成りたつ議論である。女性差別を告発する女性が男からみると“どうでもいい女性”であるのは、社会におけるひとの評価が男と女で違っているというダブル・スタンダードを示すもので、それへの抗議を彼女たちがしてのである。社会が男を評価するのと同じ視点で女も評価せよというのであれば、女を“恋愛の対象になる女”と“恋愛の対象にならない女”にわけるなどということほどふざけた話はない。それは社会にとって女は必要な構成要素ではないといっているとしか思えないからである。
 ここで橋本氏が問題にするのは、《社会における人の評価が男と女で違っているというダブル・スタンダードへの抗議》というのが女性の総意なのだろうかということである。《社会における人の評価は男と女で違っていてもいいんじゃない》という女性もいるのではないかということである。フェミニズムは一部の女性がはじめた運動であり、その女性たちが、社会への女性参加をのぞまない女性を《今までの既成社会のあり方に毒されている頭の中が遅れている意識の低い女》と一方的に弾劾しているのは正しいのだろうかということである。
 事実としては「革命派?」の要求がどんどんと受けいれられてきている。それは何故か? ウーマン・リブの運動は1970年に日本ではスタートしている。同時にこの1970年というのは日本の経済成長が本格的にはじまった時代でもある。それは1990年くらいまで右肩上がりの経済成長というかたちで続いていく。豊かになれば、面倒くさい要求も、まあいいかで受けいれる余力ができてくる。それによって「革命派?」の主張が受けいれられてきたのであり、別に「女性の社会参加運動」の成果によって実現したのではない、と橋本氏はいう。《社会における人の評価は男と女で違っていてもいいんじゃない》派も、「いただける権利ならいただいちゃおう」という形で、それをちゃかりと利用したのだという。女性の社会参加がどの程度が「運動」の成果であり、どの程度が高度経済成長の恩恵かをわけて評価することなど誰にもできないであろうが、経済成長なしにはなかったというのは間違いではないだろう。
 その高度経済成長の時代に、女もまたサラリーマン(サラリーウーマン?)にさせろという運動がでてきた。しかし1970年以前、すでに女性は社会参加をしていた。それは消費者としてであったと、橋本氏はいう。高度成長はすなわち消費の拡大なのであり、もともと金を使うのに慣れていない男と違って、女は以前から消費者であったのだから、と。だからバブルのころ、女たちはブランド品に狂奔することにもなったし、消費者運動というものが登場することにもなった。だが、この消費者運動は「敵対的な立場を取ってただ文句を言っていれば、それだけで、“自分は何者かである”」という思い込みにもつながっていった、という。
 そもそも「女性差別というのは、女にだけ告発権がある」とすると、「女は永遠に告発する“被害者”の側に立てて、そこから“加害者”と目される男に対して、いくらでも告発=要求をし続けることが出来る」、そう橋本氏はいう。内田樹氏もいうように、これはおそらく構造主義につながる構造を持つ思考の形式であり、不敗の論理である(「寝ながら学べる構造主義」「ためらいの倫理学」)。そして不敗の論理は不敗であるがゆえに腐敗する。その端的な例が本書でもいわれるクレーマーということになる。しかし、権利という言葉は、「貧しさ」が前提にないとおかしなものになる、と橋本氏はいう。豊かな時代の権利という言葉は歪みやすい、と。
 橋本氏の不思議なところは、《女もまたサラリーマン(サラリーウーマン?)にさせろ》という運動をあまり評価しない点にある。氏はサラリーマンなんてちっとも幸せではない、と思っている。橋本氏のイメージする働く女は、「背中に赤ん坊をおんぶして、“いらっしゃい、いらっしゃい、安いよ!”と叫んでいる近所の魚屋や八百屋のカミさん」なのである。なにしろ、橋本氏は、「私の頭の中にある「社会」は、「近代産業社会以前の社会」で、私の頭の中はそのようにメチャクチャなのです」というのであり、「社会を構成する基本要素を、「家が生計を立てるための収入を得る場になっていく所帯」に限定している」という。だから生計の場がわが家ではなく通勤先にあるサラリーマンは本来おかしな存在であるということになるし、会社勤めのサラリーマンと対になって生じた専業主婦も、働く場をなくした不幸な存在なのである。
 わたくしは専業主婦と対になるのは農家の嫁であると思っている。高度成長以前にはまだまだ農業人口は多くて、農家の嫁は“女”であることではなく、“労働力”であることが期待された。それに対して、専業主婦は“女”であることを期待されたわけである。それが例え、炊事・掃除・洗濯・育児というようなことであったとしても、自分が“労働力”としてではなく、“女”として期待されているということは、その当時においては明らかな社会的な上昇であり、皆から羨ましがられる一つの身分であったのではないかと思う。今でいえばハイソというような感覚かもしれない。
 確か、山本七平氏の本で読んだのだったと思うが、ある時期、銀座の老舗の息子は店を継がずにサラリーマンとなった。銀座の老舗の旦那よりも、たとえば三菱の社員であるほうがステータスが高いと思われていたのであり、サラリーマン(ホワイトカラー)というのは一つの身分だったのである。士農工商という言い方でいえば、サラリーマンは“士”であるのだが、老舗の旦那は“商”なのである。だから、専業主婦というのも“武家の奥様”であったのかもしれない。仕事の内容だけではなく、社会的な評価ということも、このような問題については無視できない要因としてあるのではないだろうか。
 さまざまな電化製品の出現により、専業主婦の家事労働の負担はどんどんと軽減していった。そうすると、外で働いている“自立した”女性の存在が気になるようになってくる。なにしろ、家は生計を立てる場所ではないから、自分は社会から取りのこされたと感じるようになる。
 「男社会」という言葉の問題点は、女たちに、そこでおきていることに自分たちは責任がないと思わせてしまうことにある、と橋本氏はいう。その社会での「アマチュアの社会人」になってしまうことだという。これは、はるか昔の学生達の「反体制」にも通じる、と。批判だけが大事で、なまじっか建設的な提言をすることは、その社会の延命に手を貸すことになるという論理である。
 「豊かな社会」では、なんの役にに立たないことを考えたりほざいたりしても(それが人から咎められることはあるかもしれないが)、そのままで生きて行くことが可能になる、と橋本氏はいう。「豊かでない社会」では、そんなことをしていたら飢え死にしてしまうかもしれないのに、と。
 また、女は「男社会」の居候である、などというとんでもないこともいう。現在の社会を「男社会」と規定したら必然的にそうなるではないか、と。こういう言い方をすると、必ず女の人たちは怒りますが、という注釈はついているが、本当に怒ると思う。もっとも、夫は妻の主宰する「家庭」の居候で、妻や子は、夫の関わる「社会」の居候、その社会を「男社会だ」と思った女達は「男社会」の居候で、誰もが「ここは自分の思うような社会ではない」という思いを強くしているのだそうであり、みんな居候ということになるのではあるが。そして、みんなが、「誰かなんとかしろ!」といっている、と。
 さてしかし、それを可能にしていた「豊かな社会」が傾いてきた。とすればと話が進むのであるが、なぜか話は「家」という方向に進んで終わってしまう、ここの部分がよく理解できなかった。新しい民法の「家」の規定のことを論じるのであるが、たぶん新しい民法の家の規定について、われわれが理解しているのは、相続が長子相続ではなく、配偶者や子に平等な分配へとかわったということだけではないだろうか?
 橋本氏は「社会を構成する基本要素を、「家が生計を立てるための収入を得る場になっていく所帯」に限定している」ひとであるから、家という単位をあたらしくつくりあげていくことから社会を再構築していくしかないとしている。しかし、その根拠を民法とすることは説得力がないように思った。ちょうど、進歩派の「憲法9条」のような感じである。憲法にどう書いてあろうと、民法にどう書いてあろうと、われわれの生活感情に切実にかかわらない部分については、大した影響をもつことはないように思う。
 たしかに「豊かな社会」は傾いてきている。しかし、今あるのは依然として、「どうしてくれる?」「何をしてくれる?」という声ばかりであるように思う。してくれるのは、何か自分をこえた大きなもの、端的には国家である。わたくしは国家が何かができたのは、社会が豊かであったからと思うので、「豊かでない社会」になると、国家にもおのずからできることは限られてくるのではないかと思う。違うのだろうか? 経済は無限に成長を続けていって、今借金をしても、将来収入が増えるから返せるという前提が以前にはあった。サブプライム問題の構造と同じなのではないだろうか? つまり、ほとんどの国民が国家の居候になっているのかもしれない。
 「豊か」であるということが平常ではないことなので、「貧しい」ということが本来のわれわれの姿なのであるとすることから出発するしかないように思うが、コンピュータにむかってこんな閑文字を打っていられるが「豊かさ」なのであるから、言っていることが矛盾しているのかもしれない。
 それはさておき、「貧しさ」が平常の状態であるとしたら、われわれは「男社会」にもどるのかもしれない。人類の大部分は貧しさの中で生きてきて、それをなんとか生き延びるためには、生物学的な「雄支配」が適してしたのだと思う。男女平等では人類はとうの昔に滅亡していたのだと思う。そこらあたりは進化心理学の領分なのであろうが、橋本氏はそのいう方面の文献はほとんど読んでいないように思う。「利己的な遺伝子」は読んでいるようであるが、橋本氏は典型的に文科系のひとである。
 男にとって、女は“恋愛の対象になる女”と“恋愛の対象にならない女”の二種に大別されるというもの、進化心理学の独壇場である。とにかく子孫を残すということが生命のαでありΩである。今読んでいるアリエリーの「予想どうりに不合理」では、いかに人間が合理的でないかの例として、それが提示されているのだけれど、合理的であったりしたら人間が今まで存続できていた筈もない。
 しかし、豊かにになったのだから、余裕ができたのだから、そういう生物学に拘束された状態からもう少しましな状態になれるはずである(それが文明というものであろう)と思っていたら、また豊かでなくなってしまうというのである。「貧乏」ではなく「ほどほどの豊かさ」という状態ならまだ維持することが可能なのであろうか? そこでなら、橋本氏のいう「共感」もまだ働く余地があるのだろうか?
 
 橋本氏はわたくしと同世代だから、読んでいて昔懐かしい言葉にたくさん遭遇した。「適齢期」なんて言葉があった。たしか、私が若いころは女性は25歳を過ぎると「婚期を逸した」ことになったように記憶している。「オールド・ミス」なんて言葉もあった。これは今なら差別用語であろう。とにかく女性は結婚するのが普通で、結婚していないと結婚できないひとという目でみられたのである。「永久就職」なんて言葉もあった。なんでそんなことが信じられていたのか、いまとなってはただ不思議なだけである。
 それからわずかに30年少し。自分の子供をみていると、結婚しても女性が仕事を続けるのは当然と思っている。二人の収入をあわせてはじめて生活ができるのが当然で、専業主婦などありえないと思っている。専業主婦という言葉が当たり前にあった時代には、会社はサラリーマンに一家を養えるだけの給料を出すものだとみずから思っていたのである。今、会社は労働にみあった給与を出しているだけで、妻子を養うに足る給料をださねばなどとは思ってもいないであろう。専業主婦などというのはある特定の時代の徒花で、「背中に赤ん坊をおんぶして、“いらっしゃい、いらっしゃい、安いよ!”と叫んでいる近所の魚屋や八百屋のカミさん」にまたもどっていくのかもしれない。
 むかし、ジュリアナ東京とかいうことろがあって扇子をもった女のひとが踊っていた。アッシーくんとかミツグくんとかいう言葉があって、クリスマスには男が高級レストランだかで女性をおごらなければ男ではないことになっていた。ティファニーが満員電車のような混雑になったりしていた。あれは何だったのだろう? フェミニズム運動の成果の一つだったのだろうか?
 いまでは外見からは男女の区別がつかない場合もないではないが、それでも大部分の場合はつく。どうかんがえても男と女は違っていて、少なくとも子供を産むこと、母乳をあたえることは女にしかできない。しかし育児になら男女平等に参加できるはずという議論はある。
 「青空人生相談所」に「子供のことを可愛がることができない、生活に絶望的な主婦からのご相談」というのがある。小さい子供をかかえた28歳の女性からの相談である。
 橋本氏の答え:あなたの見栄っ張りさというのは「世間には絶対に夫婦で育児を分け合ってやって行く幸福なカップルもいるんだ」って信じていることにありますね。そりゃそんなんだっているだろうけど、それは、旦那が暇もて余してるからだよ。・・あなたのご主人にどうしてそんな余裕がありますか? 少しは地道なことって考えなさい。・・あなたの他に、誰がその赤ン坊育てられるですか? いないでしょう? 子供―しかも自分の産んだ子供が嫌いな母親なんて、ゴマンといます。自分の子供を嫌ったことのない母親なんて、いる訳がありません。赤ン坊というのは、子供というのは、それほど厄介なものなんです。・・なりふり構わず、血相変えて赤ン坊を育てなさい!・・子供を生んだばかりの雌が気が立っているのは、実はそういうことなんですよ。たかだか五年の辛抱じゃないですか。「五年も!」なんて言わないで下さいね。・・どうせ今まで大した苦労なんかして来なかったんだろうから、「ああ、ホントにいい経験をさせてもらってる」って、神様に感謝でもした方がいいくらいなもんなんですよ。・・あなたの見栄っ張りというのは、「ああ、こんなになりふり構わず血相も変えていたら、決して世の中はあたしの方に振り向いてなんかくれない」ってことだけなんです。せっかく一生懸命になって子供を育てている母親のことを、一体誰が邪魔するもんですか。・・あなたには、旦那がいるだけましなんですよ。この世の中には、託児所もなく旦那もなく、それで、たった一人で歯ァくいしばって子供育てて来た女なんて、ゴマンといるんですからね。それ、忘れないで下さいよ。笑われますよ。/ 大変かと思いますが、頑張って下さい。それだけです。
 橋本氏は過激なひとである。
 

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