山田昌弘 「近代家族のゆくえ」

  [新曜社 1994年5月15日初版]


 「希望格差社会」が面白かったので、山田氏の本を少し系統的に読んでみようかと思う。
 この本は山田氏がはじめて世に問うた著作で、固さがあり、読みやすい本とはいえないが、山田氏の関心が明確に示されたものとなっている。
 
 氏によれば、1960年代には核家族化がいわれ、1970年代には離婚の増加がいわれたが、1980年代になると少子化と晩婚化が問題とされるようになった。
 少子化については、革新側からは、保育所が足りないから産みたくても産めないなどと言う言説があり、保守の側からは、女性がわがままになった、自分の楽しみを優先して子どもを産まなくなったなどという言説がでているが、保育環境は年々よくなっているのであり、以前はもっと悪い環境のもとでもっとたくさんの子どもを産んでいたのである。問題は結婚年齢の上昇と、3人以上産む夫婦の激減である。これは子どもに手をかけすぎるから、あるいはかかりすぎるから産まなくなったのである。
 日本のように「子ども優先」イデオロギーの強い国では、子どもを産む(とくにたくさん産む)ことは自分の楽しみを放棄することである。「家族愛」を強調するから、子どもが減るのである。子どもを産んでもほったらかしでいいのなら、もっとたくさん産むかもしれない。産んだ以上はきちっと育てろ、それが愛情だという無言の圧力が、子どもを産まなくさせるのである。
 一方、結婚年齢の高齢化は、男女交際の機会が増えたからである。たくさんの相手がいればかえって決断できなくなる。
 家族というのは自然なものと思われているが、近代以前と以後では質的にことなっているというのが、家族社会学の理解である。文化人類学的に見るとわれわれが考える家族が普遍性をもたないのは明らかである。
 家族の存在自体が女性にとって抑圧的であるというのがフェミニズムの発想であるが、家族の抑圧性という理論はフロイトが開祖である。
 現代の家族のいろいろな問題は、家族に愛情がないからおきるのではなく、家族に愛情がなければいけないという思い込みからおきてきている。人間は家族をもちたいと思うのが当然であるという前提に疑問符をつけるというのが、この本の一番根本の発想となっている。
 家族は社会からもある役割を期待され、家族を構成する個々の人間からもある役割を期待されている。それぞれの期待が相矛盾する点に家族の問題が露呈する。社会から見れば(たとえば現在においては)子どもをもっと作らないのは社会の要請に応えていないことになるし、家族の中の個々人は家族の中にいても少しも満たされないとして、家族にもっと多くのものを期待する。それらの要請と期待は正反対の方角を向いている。
 近代社会においては、家族内の問題は家族内で解決することが期待されるが、家族外の問題は公共・国家の分野であって、たとえば家族外の人の個人的な不幸を解決することは家族には期待されない。前近代の社会では子育てといった問題も共同体内でおこなわれ、家族外の共同体成員の問題もみなでわかちあったのと対照的である。
 現在の多数意見では、家族に何か問題がおきたとき、それは社会が悪いか、個々の構成員が悪いかであるとされるので、家族という制度自体に問題があるのではないかという問いが生じることはほとんどない。家族についての予定調和的な議論が受け入れられているからである。社会的機能をはたすことが個人の幸福でもある(子どもを産み育てることが母親の幸福、離婚しないほうが子どもの幸福etc)し、個人の幸福が社会の安寧につながる(個人が幸せになるように家族がつとめるならば、個人は安定し、社会も安定する)という議論がおこなわれ、社会的機能をはたすことが個人の不幸であったり、個人が幸せになるようにすることは家族の責務ではないという方向の議論はほとんどなされない。家族への過剰期待があるのである。家族は社会と構成個々人と二つの方向に責任を負わされており、その方向はしばしば矛盾する。しかし、家族は自然なものであり完全な制度でありうるという思い込みは非常に根強い。
 現在の家族制度を支えているのは、女性は情緒的な存在であるという神話である。これから帰結するものは、女性は公的領域にはむかないという議論である。
 文化人類学的にみれば、母性愛が本能であるという議論はきわめて疑わしい。母親がわが子を自分で育てない文明はいくらでもあり、かっては西欧でも日本でも上流階級は乳母や子守が子育てをした。しかし、近代社会を維持するためには、母親は母性本能をもつと信ずることが必要なのである。
 主婦の誕生の前提として、仕事場と生活の場の分離ということがある。それは西欧では19世紀の出来事である。専業主婦も恋愛も中産階級のものであった。上流階級の女性は家事を使用人まかせにし、恋愛によってではなく財産と家柄によって結婚した。一方下層階級は生活のため仕事をしなくてならなかった。恋愛ではなく働き者であるかどうかで配偶者を決めた。専業主婦と恋愛結婚はワンセットなのである。高度成長期、労働組合でさえ、「妻子を養えるだけの賃金」を要求した。「狭いながらも楽しい我が家」!。
 フェミニズムは、女性が情緒的存在であるということ対する異議申し立ての運動である。情緒的存在であるとされているがために女性は家事という無償労働を押しつけられるし、女らしい生き方を強要されるし、男性が優位とされる。フェミニズムは女性にも近代社会の理念に従って、能力に見合った職につけ、労働に対する対価が支払われ、人生の自己決定ができるようになることを要求する。それはしかし、近代社会の存立基盤である家族という制度自体を否定するものともなりかねない要求である。フェミニズムの要求を貫徹すると近代家族の解体まで視野に入れることが必要になる。フェミニズムが敬遠される理由がそこにある。フェミニズムは家族の価値に妥協して微温的になるか、自らの主張を貫徹して孤立するかになってしまう。
 フェミニズムが直面するのは「できる女はもてない」という壁である。男は可愛い女を選んで、できる女は選ばない。女性は情緒的であるというジェンダーの神話が恋愛とワンセットになっているからである。近代社会の理念の影響をうけた女性ほど、矛盾に直面する。そういう女性は少数なのであるが。
 近代社会の平等と自由という理念を信じるならば、「過剰な負担はいや」「嫌いな家族とは離れたい」という要求は正当なものである。それを抑えていたのは家族には愛情がわくはずであるという根拠のないイデオロギーであった。かって家族を嫌いであると広言することは、人間ではないという非難に直結するものであった。家族には愛情がわくはずという前提にみなが疑問を感じるようになると、家族は危機を迎えることになる。
 
 ここでいわれていることは現在日本の(あるいは現在西欧で普通である)家族制度というものはきわめて特殊な歴史依存的なものであって、決して普遍的なものではないということである。自分のことをふりかえっても、二十歳のころは男は仕事、女は家という形を普遍的なものとしてまったく疑っていなかったと思う。柴田翔氏の小説「されどわれらが日々」はわたしが高校生のころにでたもので、六全協時代の共産党学生運動をあつかっているが、男が政治をし、女がその男を支えるという今から思うと非常に古風な男女関係を描いているにもかかわらず、読んだ当時は何も変に感じなかった。それから40年近くたった今では、そういう男女の役割分担などということはまったく信じなくなっているけれども、単に時代の風潮の変化に流されてきただけなのかもしれない。
 それでも個人的なことをいえば、社会にでてから、単に腰掛としてではなく本気で働く女性にたくさん接したということが非常に大きかったと思う。医療の場は医師にしてもナースにしても、働く女性の多い所であるが、働く女性が男性の何倍も苦労しているのを見て、少しづつ自分の見方が変わっていったように思う。それでも二十歳の頃にもっていた膨大な偏見はいまだに強固に自分の中に残っているであろうとは思うけれども。
 この何年か、共同体と個人ということを考えてきて確認できたのは、自分のなかに共同体的な規範に対する嫌悪のようなものが間違いなく存在するということである。トッドによれば識字率が向上すると個人主義が出現してくるのだそうであるから(「帝国以後」)、それは単にわたくしが高等教育を受けたことだけによるのかもしれないが。
 そもそも自分は仕事の場を共同体であると感じるということがない。自分が何らかの共同体に属しているという感覚がない。であるから、その仕事の中に自分のすべてがあるというような感じはまったくない。とすると残余の自分というのが家族の中にあるかといえばそういう感覚もまたない。仕事の中では出していけない自分というものがあるが(というか、公共性になじめない部分があるが)、そうかといってそれが私的なものであるから、家族の中で解消できるものであるかといえば、そういうことでもない。
 共同体としての職場を信じているわけでもないし、家族の規範を信じているわけでもない。そうだとすれば、家族というものを解消して独りでいればいいのではないか、ということになる。家族というものは本当に必要なのか? そういういうことを山田氏の本がはっきりと言っているわけではないが、家族というものをつきつめていくと、家族の解体にいたりかねない矛盾を、近代という時代はもっているというのが、山田氏の本の趣旨である。
 わたくしは、共同体と個人の中間項である家族というものには今までほとんど関心がなかったように思う。それは自分という存在がそのまま外部と対峙しているというような感覚があり、その自分を家族という制度が保護してくれているというような感覚がまったく持てなかったためであろうと思う。
 おそらく、男は何がしかはそとでフィクションとしての自分を演じている。しかし、家の中でフィクションとしての夫や父を演じているという感覚はあまりないのではないだろうか? 女性がそとで仕事をしてフィクションとしての自分を演じ、家の中でもフィクションとしての妻や母を演じていたら疲れるだろうと思う。あるいはフェミニストは女性が仕事をしているときの自分は、本当の自分であるとしているのだろうか?
 良妻賢母像を破壊することが女性を解放することになるというのがフェミニストの言い分である。たしかに良夫賢父像などというものがないことで、どれだけ男が楽をできているか、その恩恵ははかりしれないものがある。しかし、良夫賢父像がないのだから、良妻賢母像もなくなってしまえば、家族という制度は崩壊しなねない。しかし家族という制度を維持する責任をもっぱら女性に押しつけるのはおかしいではないか、というフェミニズムの言い分はもっともなのである。
 山田氏によれば、家族は社会に対しては個人の側に立つものなのであるが、個人の個別の問題を内部で解決し社会へと波及させないことを期待されている。社会から見れば家族というものが解体してしまっては困る。それは社会維持のために必要な制度である。だから家族が解体しないように、家族の問題は家族内で解決せよ!ということになり、その責任はもっぱら女性にあるとしていることの矛盾が、現在噴出してきているわけである。
 では家族の問題の責任を男ももつようにすればいいのか、男が皿を洗ったり、オムツをとりかえたりすればいいのか? といえば、そんな簡単なことではないことは自明である。
 個人は社会のためにあるのではない。だから少子化がおきる。われわれは納税者や高齢者介護要員を再生産するために子どもを産むのではない。それがもう一歩進んで、われわれは家族のためにあるのではない、という考えが浸透していくと、家族という制度もいずれ崩壊してしまうかもしれない。そして、それがもとをたどれば教育の普及によるのであるとしたら、その流れは押しとどめることができないかもしれないのである。



(2006年4月23日ホームページより移植)

近代家族のゆくえ―家族と愛情のパラドックス

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