斉藤美奈子 「物は言いよう」

  [平凡社 2004年11月9日初版]


 FCについて論じた、というよりも個別具体例をあげて解説したものである。
 といってもFCという言葉にぴんとこないが(わたくしもはじめてこの本で知った)、これはフェミコードの略であって、フェミコードとは、性や性別にまつわる「あきらかにおかしな言動」「おかしいかもしれない言動」に対するイエローカードなのだそうである。
 フェミはもちろんフェミニズムのフェミであるが、まあ女性一般ととってもらっていいそうである。コードはドレスコード(という言葉も実ははじめて知ったのだが)のコードで、気取ったレストランに半ズボンでサンダル履きでは入れないとか、ある種のパーティは礼装でなくてはだめとかいう、いささか鬱陶しく、俺が何着ようと勝手だろと文句の一つもいいたくなくような規定であるが、それが「場」の問題、社交上の問題である以上、社会的な場においては、守らなければならないものなのである、というのが斉藤氏の立場である。
 そういうことであれば、当然、セクハラといったことにからんでくるわけで、最初にとりあげられるのが、森喜朗先生以下、太田誠一先生、福田康夫先生、石原慎太郎先生などの無神経発言である。もうここらは論外なのであるが本人たちは全然おかしいと思っていないのであろうから、とんでもない話である。
 そこから段々、「女は家にいろ」問題、「女は女らしく」問題、「男がスケベでどこが悪い」問題、「女だからこそ」問題と微妙で一見とんでもないとは言えない問題へと話題が移っていく。
 さてわたくしは、セクハラの構造の一番根本には、権力があるものがその権力を利用して立場の弱いものを自分の意のままにするということがあって、そのような行為は卑劣であって、そのようなことをする人間は上等な人間ではないということがあると思う。村上龍が、愛人が不倫相手をマスコミに告発した事件につき、その女たちを最低の女だと罵倒していることにつき、斉藤氏は、二人が対等な関係ではなかったからこういうことがおきたのであり、メディアも男に非があるとしたから報道したのであるとして、告発女性を弁護している。しかし、わたくしにはどう考えてもこの女性がしていることは卑劣なことであり、それをした人間が上等な人間であるとは思えない。村上のいっているのもそのようなことなのではないかと思う。もちろんそういう相手がそういう女性であることが見抜けなかった男が馬鹿なのであり、自業自得ではあるのだけれども。
 まあそこらへんはおいておいて、女性をよいしょしているつもりの大江健三郎批判とか、「輝く日の宮」の丸谷才一批判とかはなかなか面白い。この小説で書きたかったのは「ものを考える女の闘う人生」などと丸谷がいっているのはちゃんちゃらおかしいとしているのはまったく同感。しかし、この小説で丸谷が源氏物語紫式部藤原道長合作説をだしているのを、「女があれだけのものを自力で書けるわけがない」といっているのだというのは勇み足ではなかろうか? あそこで丸谷がいっているのは、芸術とは理解ある受容者との合作であるということだけなのではないだろうか? ここでの道長は最高の読者なのである。よい読み手がいないところでは、本当の文学は生まれないという丸谷の長年の主張をくりかえしているに過ぎないと思うのだが。「輝く日の宮」の一番の問題点は、一人として魅力的な登場人物がいないということにつきるのではないだろうか?
 「海辺のカフカ」でカリカチュアのようなフェミ団体がかなり唐突にでてくるのはなぜだ、という批判、たしかになぜなんだろう。斉藤氏がいうように、村上春樹は女性の団体に何か恨みでもあるのかもしれない。確かにここにでてくる二人ぐみの女性団体員はいやな奴である。それは自分が正義であると恬として疑わない人間だからである。フェミニズムだからいやな奴なのではなく、正義の人だからいやな奴なのである。フェミニズムにかぎらず、ある種のイズムを奉じるひとのなかにはある割合そういう人間は混じってしまう。フェミニズムだからといっていやな人間であっても許されるということはないであろう。上等でない人間はどこにいても上等な人間ではないである。
 池澤夏樹がほんのささいなことで批判されているのは可哀そうであった。「声高い声」のフェミニズムという部分が批判される。要するにフェミニズムというと「声高い」というのはステレオタイプの発想であるということである。しかしこれは村上春樹の場合と同じで、声高なフェミニストというのはいやなひとが多いのである。それは正義の人だからである。要するに無神経なのである。森喜朗が無神経であるなら、声高のフェミニストも無神経。日本のような男性中心社会においては、弱い側の無神経は許容されるべきであるということかもしれない。しかし、いやなものはいやという権利はもっていてはいけないのだろうか?
 最後に一点、ここだけはどうしてもおかしいと思う点について。生物学について論じた部分である。「擬似生物学に惑わされることなかれ」と題された部分である。たしかにことで引用されている生物学めいた議論はトンデモであり擬似であるかもしれない。しかし、擬似でもなく、トンデモでもない生物学もあるのである。批判するならそういうものを批判すべきである。しかし、まあそこはいい。問題は以下の部分である。
 まず女脳・男脳などという研究をやるのでれば、なぜコーカソイドニグロイドの脳の違いの研究をしないのだという。しかし誰もそれをやらない。なぜならそんなことをやったら人種差別主義者のレッテルを貼られかねないからだという。そして『「男脳・女脳なんてつまんない擬似科学にハマっていると、性差別主義と思われるよ」と忠告してさしあげよう』という。これはとんでもない暴論である。男の脳と女の脳の違いについて研究なんかすると、どんな目にあってもしらないよ、と脅迫しているわけである。
 男の脳と女の脳は違うにきまっている。それはコーカソイドニグロイドの違いより大きいに決まっている。なぜなら進化の道筋で有性生殖ができたのは、ヒトがサルから分離したのよりずっと古いからである。男女は違っている。違ってはいるけれども、しかしそのことによって不平等になることは避けようというのがフェミニズムなのではないだろうか? 
 以下長文であるが引用する。「生物学決定論が危険なのは、それは運命論を呼びこみ、社会的な因襲に目をむける契機を閉ざし、個体差を背後に押しやり、少数者を切り捨て、差別の正当化に手を貸すおそれがあるからだ。一歩まちがうと、それは優生学への道を開く。ナチスドイツが北方アーリア人の優位性を「科学的」に証明しようと血道をあげた過去を思い出すといい。」(p303)
 全部本当である。しかし、ナチスドイツは北方アーリア人の優位性を「科学的」に証明できたのであろうか? グールドの「人間の測り間違い」にかかれているように、過去に白人の優位性を証明したとする「科学的」な論文はごまんと書かれた。しかしすべて歴史の中で否定された。かつてダーウイニズムを弱肉強食の論理を肯定するものとして嫌悪する人がたくさんいた。しかし問題はダーウイニズムが「科学的」に正しいかどうかであって、それが弱肉強食を肯定するものであるかどうかではない。資本の論理の片棒をかつぐという理由でダーウイニズムの研究を許さないなどということがあっていいわけはない。
 生物学決定論が危険であるのはその通りである。しかし男の脳と女の脳がどのように違っているかということは、われわれがどのようなものであるかについて貴重な知見をあたえてくれるだろう決定的に重要な知見である。われわれは平均すれば、男性の身長が女性の身長より高いことを知っている。男女の身体能力差があることも知っているからスポーツの競技は男女が別々でおこなわれる。男女の脳の差がはっきりして、ある種の能力につして平均すれば女性のほうが男性よりも優れているという結果がでたとき、それは運命論を呼び込み、社会的な因襲に目をむける契機を閉ざすだろうか?
 もちろん、問題はそういうことにあるのではない。現在、大雑把にいって男女に振り分けられている、男が仕事、女が家事子育てという役割分担、社会機構の中枢部分の権力のほとんどを男が握っていること、そういうことに対してフェミニズムは異議申し立てをし、それが一定程度の成果をあげてきたにもかかわらず、そういう役割分担や男権社会が何がしか生物学的基礎をもっているという結果がでると困るのである。それは男女の差別を正当化する方向にいくかもしれない。しかしもしも男女に生物学的な差があるならば、男女を差別なくあつかうということは男にとっても女にとっても苦痛なことであるかもしれない。もちろん、研究してみれば男女の差などほとんどないことになるかもしれない。そうであればフェミニズムはそこから主張の大きな根拠をえるわけである。しかし、もし男女に大きな差があるという結果がでたら困るから研究をさせないということをフェミニズム陣営が言うのであれば(わたくしはp303の部分からはどうしてもそう受け取ってしまうのだが)、それは北方アーリア人の優位性を「科学的」に証明しようとしたナチスのやりかたと五十歩百歩であるといわざるをえない。
 ほんの些細な微妙な言説のFCにこだわるほと繊細な斉藤氏が、こと科学の分野になると、ほとんどイエロージャーナリズム的な雑駁な言説しかできなくなるのが大変残念である。
 しかし、斉藤氏もつらいのであると思う。氏のいうようにフェミニズムはもはや「業界」「党派」と化して、「趣味の学問」となってしまった。要するに普通の女性には関係ない話になってしまったのである。現実には歴然とした男女差別があり、近年の不況で一旦はやや進歩したかに見えた男女雇用平等などということも逆もどりしなねない状況になってきているにもかかわらず、フェミニズム陣営は観念論に門構えとしんにゅうをつけたような(@丸谷才一)瑣末なスコラ哲学のような議論をしているのである。一番援助を求めている人のところにそれが届かないという状況がおきている。
 あるページで、小谷野敦氏について、小谷野氏が感じているような<フェミニズムの抑圧>なんて小谷野氏の住むインテリゲンチャの世界だけといっているが、フェミニズムがしていることはインテリゲンチャの世界で主導権をとろうということだけであって、現場の人などはどうでもよくなってしまっているのである。現場に届いているのは小倉千加子氏くらいのものではないだろうか?


(2006年4月23日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

物は言いよう

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