A・カミュ「異邦人」

  「新潮文庫 1954年初版 原著1940年初版]


 今、この本を読み返してみようと思ったのは、内田樹の「ためらいの倫理学」でのカミュ論で「異邦人」が論じられているのを読み、そこに書かれていることが、昔読んだ時の印象とあまりにかけ離れていたのでびっくりしたからである。高校生のころ読んだときの印象でわずかに残っているは、太陽のせいでひとを殺したというなんだか虚無的な青年の像だけである。当時これは「不条理」というものを書いた実存主義の文学だということになっていて、わからないながら、これが「不条理」というものかと思ったわけである。ところが内田氏が、これはレジスタンス運動を正当化しうるかを描いた小説である、ひとを殺すことは正当化しうるかというを追求した小説であるという、トンでもない読みを示していたので、心底びっくりしたわけである。読み返した印象でいえば、内田氏の読みにはやはり少し無理があるのでは、と思う。ここにあるのは正義の判断の拒否ということではあっても、正当化ということはないように思う。間違ったことはしないというのと正しいことをするというのには非常に大きな距離があると思う。
 今回読んでの主人公ムルソーの像は、生きることの意味づけを拒否し、今に生きる強い人間である。高校のときの虚無的というような印象は一切なかった。神が死んで、生きることに意味づけを与えてくれる超越者がいない世界で、動物のように生きる青年の姿である。ムルソーはインモラルであるとして死刑を宣告されるわけであるが、本当はアモラルなだけである。モラルを否定するのではなくモラルとは関係ないのである。ムルソーは、モラルは動物的な生命力を毀損するとして、それにかかわることを拒否する。ムルソーは道を説かないツアラツストラなのかもしれない。
 第一部の終わり、ムルソーがアラブ人を殺す一番の問題の場面。作者はここで読者が納得することを期待したのであろうか? なぜそうなったのか主人公はわかっていないが、作者はわかっているのだろうか? ここでの殺人は理由がない。作者は理由がないということを読者に納得させようとしたのだろうか? それとも作者には理由がわかっているが、それをわたくしが理解できないだけなのだろうか? 内田氏はムルソーの行為は、その前段にあるアラブ人たちとの確執で自分が決めた行為原則に自縄自縛になったためなのであるとする。そうなのだろうか? もしもムルソーの殺人に理由があるのだとしたら、第二部はなりたたなくなるのはないか? 第一部ではムルソーはひとを殺し、第二部ではムルソーが死刑を宣告される。それは対称的であるが、どのどちらにも理由がない、ということなのではないだろうか?
 この小説はできあいの意味づけを拒否する姿勢だけで成立している。あったことはただあったのであって、それには理由はない。われわれが生まれたことに理由はなく、生きることに理由はない。そもそもこの宇宙があることにも、その一部に地球があることにも、その上に生命が生まれたことにも、なぜかそれが進化して人間という動物を産んだことにも理由はない。しかし生きることに理由がないことにうろたえたりするのは人間だけである。人間以外の動物は決してうろたえたりはしない。
 もしも、この小説が内田氏のいうようにレジスタンスにかかわるところがあるとすれば、フランスがドイツに対してレジスタンスすることは、動物が生きるために闘うのを同じ次元での話しだということであろう。それは正義とはなんのかかわりもないことなのである。なぜ正義が拒否されるのかといえば、それは生を意味づけようとするものであるからであり、生が意味づけられなければいけないとすれば、それはその時点ですでに生が衰弱しているからなのである。
 と、なんだかえらく観念的な話になってきたけれども、要するに神様なんていないよ、というだけの話である。東洋では先刻ご承知の話がこんなに深刻になるのは、西洋が神様に首根っこをしっかりと捕まえられていたということなのであろう。もともと神様がいない人間にとっては、どうでもいいこである。そんなことより、これは強い小説である。静的な「ペスト」とくらべて、動的でがっしりとした太い骨のある小説である。「不条理」云々などの理屈はどうでもいいので、これは小説なのであるから、生命力をもつ魅力的な主人公を造形したことが作者の功績である。そしてこれはアルジェという舞台なしには成立しえなかった小説でもある。主人公はアラブの太陽と海と等価なのである。
 それにしても高校生の時は何を読んでいたのであろうか?


(2006年4月19日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

異邦人 (新潮文庫)

異邦人 (新潮文庫)