池澤夏樹 「世界文学を読みほどく スタンダールからピンチョンまで」

  [新潮選書 2005年1月15日初版]


 池澤夏樹が2003年9月に京都大学文学部でおこなった夏季特殊講義の講義録である。一週間、午前・午後各一コマづつの計14コマ。総論2コマ、総括1コマ。あと世界の小説を一コマづつで論じて計10編、あとは自作解説の1コマである。
 とりあげられているのは、「パルムの僧院」「アンナ・カレーニナ」「カラマーゾフの兄弟」「白鯨」「ユリシーズ」「魔の山」「アブサロム、アブサロム!」「ハックルベリ・フィンの冒険」「百年の孤独」「競売ナンバー49の叫び」の10編。
 わたくしはこの内で本当に読んだといえるのは「カラマーゾフの兄弟」だけである。「アンナ・カレーニナ」と「白鯨」は中学生くらいの時に読んだはずであるが、ほとんど記憶にない(本書を読んでいて言及されている「アンナ・カレニーナ」の中のスケート場のシーンは思い出した)。「パルムの僧院」は小林信彦の「面白い小説を見つけるために」を読んで、ぜひ読まねばいけないと思って買ってきて、50ページ位で頓挫(その時、白井喬二の「富士に立つ影」も買ったが、この大長編も三分の二ほどのところで挫折したまま)。「白鯨」は千石英世の新しい訳がでて評判がよかったので買ってきたが、これも四分の一ほどで放棄。「魔の山」も誰かの本を読んでいて読まねばと思い買ってきたが、最初の50ページほどで座礁。フォークナーも渡辺京二の本を読んでいて、読みたくなり買ってきたが、数ページで放棄、等々で、どうもこのところ小説が読めない。ここに紹介されている本もわたくしにとっては死屍累々という感じなのだが、本書を読んであらためてまた読んでみようかという気持ちになった。それでもう、この本を読んだ意義はありということであり、それでお仕舞いにしてもいいように思うのだが、池澤氏が書いていることについてはいろいろと文句をつけたくなる部分がある。それで以下ほとんど余計なことではあるが、書いてみる。
 
 ここで池澤氏が論じていることは、小説の歴史と、現代における小説の存在意義というようなことである。村上春樹が「若い読者のための短編小説案内」で書いているような、小説の細部を読む楽しみというような方向ではなく、もっとずっと俯瞰的な小説論である。そしてこれを読んでも池澤氏の小説の作り方と村上氏の作り方はまったく異なっていることがわかる。池澤氏は短編小説は書けないのではないかと思う。池澤氏によれば、小説を書くということは世界観を表明することなのだそうである。そして現在でもまだ小説を書く意義があるとすれば、世界は変わりつつあり、世界観も変わりつつあるからだという。
 ところで世界とは〈場〉のことなのであるという。この〈場〉は物理学でいう〈場〉、電場とか磁場とかいう場合の〈場〉である。この〈場〉というのは大変不思議な概念であって、(わたくしの理解によれば)空間自体が何かの性質をもっているということである。空間になにかがあるからそういう性質を持つということではなく、空間になにもなくてもそういう性質を持っているのである。なぜそうなのかと問うてはならなくて、空間とは最初からそういう性質を持っているものなのである。大学の物理の講義ではじめてその説明をきいた時、これは説明のための便宜、そのように考えると説明が容易であるからそのようにみなしているのだと思ったのだが、これは便宜ではなく事実としてそうであるのだということのようである。ニュートン万有引力という考えを出したとき、遠くに離れてあるものが互いに引き合うというという説明があまりにも荒唐無稽であることを自己の説の弱点として非常に気にしていたというが、この荒唐無稽は、〈場〉という考えを持ち込めば解消する。しかし一つの荒唐無稽を別に荒唐無稽に変えただけではないかという気もする(わたくしの理解が全然違っているかもしれないが)。池澤氏は理工学部出身なので、物理学の〈場〉の概念が、自分の小説の基本にあるのではないかという。
 要するに、ある〈場〉に中に人間が投げ出される、それを描くの小説であり、〈場〉が変わったのだから、その新たな〈場〉における人間を描く小説は可能である、ということになる。カート・ヴォネガットの「スローターハウス5」での「人生について知るべきことは、みんな「カラマーゾフの兄弟」の中にある。だけれども、もうそれだけでは足りない」という部分を、池澤氏は共感を込めて引用する。今、われわれはどのような〈場〉の中に生きているのか、それを小説を通して示すのが小説である、と。(ただし、ここで池澤氏は面白い考えを出す。われわれの日常経験が、実は物理学における〈場〉という発想を可能にしたのではないかという。物理学→文学ではなくて、文学→物理学ではないか、と。そうでなければ、物理学の説明がわれわれにとって理解可能になることはないのではないか、と。要するに、われわれは、自分に理解可能な形でしか世界を描写できない。それが知性の可能性であり、またその限界なのではないか、という。しかし、これはあまりにも文学的な見方というものではないかと思う。われわれはあるものを言葉によってしか説明できない、ということを言っているだけではないだろうかと思う)
 オイディプスの神話は、個人の意思とその個人がおかれた〈場〉との葛藤の話であるという。(現在では、これは自由意志と遺伝子決定論のかかわりの話ということになるのであろうか?)
 モノとコトの違いということを池澤氏は強調する。人間には時間の感覚があるから〈コト〉が生じる。時間の感覚をもたないものにはモノしかない、という。たとえば、シマウマは「昨日何を食べたか」を覚えていないし、思い出さない。犬は主人の顔を覚えているのだから、ウマよりは時間の感覚があるのであろう。ジャック・ロンドンの小説で、犬がたき火のそばでうとうとしながら、「今まで食ったもののことを考え、これから食うもののことを考えた」という描写をされている部分があるが、犬にはそんな知性はないのではないか? 本当に〈コト〉を経験するのは人間だけである、という。
 客観性とは人間相互の間でなりたつという。自分ひとりが信じるのなら主観、たくさんの人が信じるのなら客観。(これは普通いわれていることとは違うのではないだろうか? 人間がいなくても成立するのが客観ではないだろうか?)
 文明というのは決してすばらしいものではない、都市を作ることがすばらしいとはいえない、という。アポリジニが遅れているというような進歩史観は捨てなければならない。進化という生物学の説明が悪しき進歩史観の典型である。人間が一番偉いなんて嘘である。人は自分の判断、自分の倫理観で道を選んでいくのであり、自然は相互に闘うのではなく、生態的に調整しあって共存している。弱肉強食をあおる悪しき生物学ではないものとして、ぜひスティーヴン・J・グールドの本を読んでほしい、という。
 なんだか、ここらへんの説明は滅茶苦茶であるという気がする。池澤氏はシマウマよりも犬が、犬よりも人間のほうが優れていると思っているように読んでいて思えるのだが、一方、進化というものを正しく理解すれば人間は単なる動物の一種であって、他の動物より優れているなどということは全然ないのがわかるのだという。でありながら、人は自分の判断、自分の倫理観で生きるという。自分の判断、自分の倫理観で生きる動物というのは人間だけなのだから、そうだとすれば人間は他の動物と異なることのない単なる動物の一種という説明と折り合いをつけるのは、相当の困難をともなうと思うのだが、そういう点について、あまり気にしているようにも思えない。
 池澤氏はS・J・グールドを推薦する。グールドのエッセイが非常に面白いものであることは確かであるが、一方グールドが生物学専門家あるいは進化を論じる人びとの間では、ほとんどトンデモ扱いされているのも事実である。たとえば今わたくしがちらちらと読んでいるS・ピンカーの「人間の本性を考える」では、グールドらのウイルソンの「社会生物学」攻撃が、いかに知的に不誠実で欺瞞にみち政治的なものであるかということがほとんど憎悪の口調で述べられている。要するにグールドは学問から自己の論を引き出すのではなく、自己の論が先にあり、それにあわせて(似非?)学問を構築しているのだというのである。人間に関しては生得的なもので説明することを許さないのである。人間におけるまったく動物的なもの、食べること、眠ること、排便排尿することなどが生得的なものであり、文化的なものではないことをグールドは認める。しかし、いささかでも人間的と思われものにかんしては一切が生得的ではないとして、遺伝によって規定されている可能性について議論すること自体を認めない。そのようなことを認めること自体が優生学につながり、ナチスにつながるというのである。
 池澤氏も「人間の中に犯罪を促すようなDNAはありません。全部環境の産物です。あるいは個人の心の選択の問題です。最初からそのDNAを見つけ出して、その種の人たちを絶滅させる、あるいはどこかに追いやる、そうすれば平和な社会が来るというのは、実は単純な嘘です。ナチスがやったことです」という。
 ここから、「人間はうまれついたときにはまったく白紙です。そのあとの変化はすべて環境の産物です」というのにつながるのは一歩の距離であって、池澤氏のいいたいことはそちらのほうであり、それが端的に間違いであることは生物学における事実の問題として示されている。それなのに、そういうことを事実であると認めるならばナチスが来るぞ、そういうことを研究すること自体がナチスに加担することになるぞ、といって自分に都合の悪い学問的見解を検討することさえしないし、させないのである。かつてダーウインの論を認めるならば人間の道徳観は崩壊するという理由で、ダーウインの論を検討する以前に否定するひとがいた。池澤氏のしていることは、まさにそれとパラレルなことであるように思う。
 グールドは当然のことながら、聖書原理主義者の進化論否定には反対する。しかし、人間だけは遺伝の束縛を離れているとすることは、人間のみが動物の中で魂をもつというキリスト教的世界観を擁護する方向なのである。
 池澤氏のしていることもまた同様である。人間は生まれながらに平等である。それを生物学的知見を装って否定するような俗流生物学を拒否するという。そして何が俗流生物学であるのかといえば、人間が生まれながらに平等であるということを認めずに人間に生得的な差があるとするようなものをいうのだ、と。とすれば学説の結論を読めばそれが俗流かどうかがわかることになる。学問として正しいかではなく、それがもたらす結論が許容できるかどうかで、その正否が決まってしまう。
 池澤氏の論のある種の胡散臭さというのは、かつて進歩的文化人というものがもっていた胡散臭さと通じるものがあると思う。インテリが世を指導善導しなくてはならないというような使命感のようなものが発する臭みである。今の世の中は何かおかしくなっている、それを指摘し告発するのが自分に与えられた使命であるというような思い込みのいやらしさである。単に面白い小説を書くことだけでは満足できない。読者に現在の世の中はどうなっているのか、世の中の変化はどのようであるのかということを伝えるものであることを志向する。そこから説教まではあと一歩である(氏はトルストイを説教癖の過剰の故に非難するのであるが)。読者は小説を読んでまで説教されたくはない。だから小説の読者が減っていく。かつて倉橋由美子が反進歩的文化人論を展開していたとき、進歩的文化人は見ればわかる。髭をはやしているかベレー帽をかぶっていると書いていた。池澤氏も髭を生やしている。
 本当は池澤氏は小説を読むのが楽しくてしょうがなかった人なのであろう。それが昂じて自分も書きたくなったのであろう。小説のもとになるのは「神話」と「ゴシップ」であり、「神話」も神々についてのゴシップであるのだから、実は小説とはゴシップ、「他人への関心」によって駆動されると氏はいう。だから、本来物語りの魅力というものから入ったひとのはずである。だが、ただ単に書きたいものを書くのではなく、自分の書くものが文学の歴史の中でどのような位置づけにあるのかなどということを考えてしまうのがインテリの弱点である。女子どもの読み物を書くことでは満足できないのである。天下国家を論じることに通じる部分がないと、自分を許せなくなる。
 ここで取り上げられている小説も「パルムの僧院」「アンナ・カレーニナ」「ハックルベリ・フィンの冒険」を除いたら、池澤氏の観点からすれば女子どもが読むような本ではない。ところで、サマセット・モームに「世界の十大小説」というエッセイがある。ここで彼は小説の目的が、教えることにあるのか、楽しませることにあるのか、という問いを立てる。もちろん、モームは後者を支持するので、小説を説教壇や講壇の代わりに使うのは間違いであるという。そのモームが選んでいるのは「トム・ジョーンズ」「高慢と偏見」「赤と黒」「ゴリオ爺さん」「デイヴィッド・コパーフールド」「ボヴァリー夫人」「白鯨」「嵐が丘」「カラマーゾフの兄弟」「戦争と平和」である。池澤氏のリストと2冊が重なり、作者では4人が重なっている。池澤氏のとりあげた本の多くも、世界観などということをいわなくても、小説として楽しめるものでもあるわけである。
 「パルムの僧院」でスタンダールが描いた政治、パルム公国という、一人の女の魅力が覆せるほど狭い世界と、9・11など21世紀のわれわれが住む巨大な政治の悪の世界はまったく異なってしまったというのが池澤氏の基本的な見解で、それだからこそ最後にピンチョンの「競売ナンバー49の叫び」が取り上げられることになる。だが、ここで池澤氏は世界は案外と単純な陰謀説で理解ができるのではないかというような奇妙なことを言い出す。アフガニスタンの北に石油と天然ガスがあるからアフガニスタンタリバン政権をアメリカは攻撃した、要するに単純な石油利権の問題で世界がわかるというようなことである。こういう見方は、世界の複雑さに音を上げたインテリの単純願望がもたらすものではないかと思うが、一方では世界は相互に関係ない部分に分解され、個人の自己の統一性も信じられなくなってきているなどともいう。ここら辺り、氏の現代への見方は非常に混乱している。そういう混乱した状態が今という時代の本当の姿であるのだといってしまえばそれまでであるのだが、池澤氏が個人で感じているものと、一人のインテリとして社会にどうかかわるべきかという使命感が池澤氏に課するものが、相互に矛盾しているのであると思う。
 最後に入沢康夫の詩、「わが出雲・わが鎮魂」の冒頭がでてくる。
 
 やつめさす
 出雲
 よせあつめ 縫い合わされた国
 出雲
 つくられた神がたり
 出雲
 借りものの まがいものの
 出雲よ
 さみなしにあわれ
 
 「よせあつめ 縫い合わされた/つくられた/借りもの まがいもの」それが「世界の姿」なのではないかという。
 でもそれは、単に神が死んだということではないのだろうか? 世界を統一しているものはないのだから、そこを縫い合わせ、何かを借り、何かをつくり、とりあえず何とか間に合わせていくのが、日々われわれがしていることなのではないだろうか? 池澤氏のいうように人間は世界に意味とまとまりを探そうとするものなのだから。そして、おそらく池澤氏の考えとは違って、世界に意味をもとめること、まとまりを探そうとすることは、生物が生き残ってくる上で一番大事な構えであったに違いない。だから、まさに進化の産物であるのだと思われるが。
 「作家の値うち」において福田和也は、池澤夏樹を「作家というより文化人としての渡世において卓越している」などという嫌味な評価をしている。この京大での講義も、作家の創作の生理の襞がわかるといった方向のものではなくて、現代において小説を書くことの意味といった文化人からの発想によるもののように思われる。
 池澤氏が9・11以降の世界の流れを憂慮し、環境の破壊をなげき、弱者を守ろうとしていることは本書においてもよくわかる。しかし、それが池澤氏の小説を面白くすることになるのかどうか、それは大いに疑問である。
 大江健三郎の評論を読んでいるときにも感じるある種の〈いやな感じ〉をここでも感じた。読むと、その著者がいかに真面目で誠実であるかということの宣伝であるような気がする、という〈いやな感じ〉である。政治の世界においてインテリの言論などというのはまったく無力である。とすれば、知識人がそういう政治論を書くのは内輪の世界に対する発信としてではないかという疑問が生じてくる。本当の政治の世界に対して発信しているのではなく、文壇内部の政治行動として発信しているのはないかということである。
 もっと文学というのは気楽に読むべきものなのではないかと思う。たしかに小説家が小説を書けば、否応なしに自分の世界観がそこにでてしまうであろう。しかし、それは出てしまうのであって、出そうとして書くというのは違うだろうと思う。そしてもしも作家がある世界観を表明しようとして書き始めたとしても、力量のある作家であれば、最初の図式からはみ出るものが必ず生じてしまうはずであり、小説を躍動させ、生き生きさせるのは、そういう予想外の展開なのであろうと思う。
 モームも「カラマーゾフ」の有名な大審問官の部分について、ドストエフスキーはイワンの演説に反対したかったのだろうという。それは自分の信条に反するものであったという。でもイワンという人物が語りはじめるとそれを阻止できなくなって、それを書いてしまったのだろうという。
 そういうものなのであろうと思う。そして、もちろんそのことは池澤氏もよくわかっている。それにもかかわらずインテリとしての義務感、使命感がブレーキをかける。小説家の心とインテリの頭が分離してしまうのである。
 そういう分離こそが現代の特徴なのである。したがって池澤氏がものを書けば、もっとも現代らしい何かがでてくる、というようなことが果たしておきるのだろうか? なんだか貧血した作品がでてくるだけということになりそうな気がするのだが・・・。


(2006年4月16日ホームページより移植)

世界文学を読みほどく (新潮選書)

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