G・ライル「ジレンマ 日常言語の哲学」
[勁草書房 1997年8月30日初版]
山本貴光らの「心脳問題」に紹介されているのをみて、読んでみようと思った。
平易な言葉で書かれているが、哲学の書であって内容は決して平易ではない。哲学音痴のわたくしとしては、理解できない部分が多かった。したがって以下書くことはまったくの見当外れであるかもしれない。
基本的に、われわれが日々経験していることと、科学がそれに対しておこなう説明との間の乖離について論じたものであるということができる。現在では、科学の説明こそが本当の説明であり、日常の経験をも科学が説明するとされることが多いが、両者は異なったカテゴリーに属するのであり、両者はまったく別々の原理による説明であるので、一方がもう一方に優先することはありえないということを主張している。
われわれがある競技、たとえば100mの競争で一位になる、というようなことは物理学的には無意味な記述である。力学的な記述には一位というような概念が入る余地がない。
この種の問題の解決は科学的な探求をさらに進めることによって解決される問題ではなく、哲学の研究によってこそ解決される問題であるというのが著者の主張である。生物学にも物理学にも属さない問題がある。それをあつかうのが哲学である、と。
今日、進化論的倫理学とか精神分析的神学などという言葉をきいても誰も変に思わない。しかし電気分解による法的争点の解決などというものは誰も信じないだろう。
ある対策をして事故が減ったときに、減った事故のリストを提示することはできない。それはおきていないのだから。両親が出会わなければ自分はいない。生まれなかった自分について言えることは何もない。これは、過去については事例の列挙が可能であるが、未来については一般命題しか語りえないことに対応する。
心理学理論の開拓者は、物理学が物質の世界でしたことを、心の世界で複製しようとした。そのため、力学での力に対応するものを心の世界でさがし、欲求、快楽、苦痛などがそれに該当すると考えた。しかし快楽は感覚ではない。
経済学が規定する人間は、われわれ日常の生活をおくっている人間ではない。心理学が規定する人間も、日常生活をおくる人間ではない。
ガリレオは、データとか計算結果にあらわれないものは科学的理論の対象にはならないと考えた。色、匂い、味などは物理学ではなくて、生理学や心理学の対象である。
パンについてのパン屋や消費者の情報よりも、パンの化学組成のほうがより重大であり深遠であるなどという考えがわれわれに思い浮かぶのは、〈ある種の知的な雰囲気〉にひたっている場合だけである。
「どのようにしてわれわれは食べ物を消化するのか?」と「どのようにしてわれわれに木が見えるのか?」という文は明確に区別されなければならない。というのは、「木が見える」というのは生理的な過程ではないからである。見えるというのは楽しむことに似ている。見えるというのは炎症の過程や膝蓋腱反射とは違う範疇のことなのである。
カントは、ニュートンの運動法則と道徳の自律性の双方を確信していたが、それらは相互に関係はないものとした。われわれがあることをするのは物理法則とはまったく無関係なことであるとした。ニュートン力学と生気論の双方を信じたのである。
以上なんだか全然まとまらないが、著者の論の焦点が見えないので仕方がない。個々の論には教えれらるところが多々あるのだが、なんだか一番大事なことを外した議論であるような気がしてしまう。
わたくしには、心と脳の関係は? ということよりも、心とはどのようなものかというほうがずっと大事な問題であるように思えるが、それはわたくしが、哲学の問題よりも科学の問題のほうに興味をもつからであるのかもしれない。
哲学の問題とは何なのだろうか? ポパーは「果てしなき探求」の中で、自分の一番根源的な主張として、「言葉とその意味についての問題を本気になってとりあげようなどと力んではならぬ。本気になってとりあげなければならないのは、事実の問題であり、事実についてのさまざまな主張、それらが解決する問題およびそれらが提起する問題である」ということをいっている。こちらのほうにずっと親近感を感じる。
ポパーはまた、「自然諸科学が言葉上の議論におちいることがほとんどないのに反して、社会諸科学においては語義詮索がさまざまなかたちではびこっている」といっている。ライルもいうように心脳問題というのは〈ある種の知的な雰囲気〉でしか生じてこないものである。要するに暇なときに頭に浮かんでくる問題である。生物が生きていくうえで解決しなければいけない生存上必須の問題ではない。「言語の誤用から生じる単なるパズルではない正真正銘の哲学的問題がある」というのがポパーの信念であるが、ライルは心脳問題をふくむ問題は言葉の使用の誤りに起因するという。
ポパーは、「心身問題は意識と身体状態との関連という観点から論じられているが、その議論に価値があるかどうかははなはだ疑問である」といっている。確かに心身問題、心脳問題というのはある。心というものが確かにあり、一方脳という臓器がある。どうも心は脳と関係しているらしいが、それは果たしてどういう関係にあるのか、というのは興味津々な問題である。宇宙というものがどのようにはじまったかというのがわれわれにとって興味津々な問題であるのと同様である。人間というのはなぜか知りたがる動物であるから、われわれにとってきわめて親しい心という現象がどのような過程で生じてくるかという問題が魅惑的でないわけがない。しかしそれが本当に大事な問題であるのかである。心と脳はどうかかわるかではなく、ポパーが提出するのが生物学的で進化論的なアプローチ、心はわれわれが生きていくうえでどのようは働きをしているかという問題であり、このほうがずっとまともな問題である。
養老孟司は、「唯脳論」の一章「心身論と唯脳論」で、「世界が脳の産物などとは、哲学者以外には、誰も思っていないのではないか。そういうことを考えるのが、ほとんど哲学者の定義ではないかと思うほどである」といっている。そういう哲学者の議論に腹をたてて、目の前の机をけっとばしてみせたのはジョンソン博士だったかもしれない。養老氏は心と脳の問題は構造と機能の問題であるという。心臓をばらしていっても循環はそこにはないよ、という議論である。腎臓の機能は尿をつくること、脳の機能は心を作り出すこと。で、筋肉の機能は運動。腎臓をばらして研究すると、なぜ尿ができるのかが理解できる。筋肉の構造をしらべていくとなぜ運動が可能になるかがわかる。ところが脳をばらして研究してもなぜ心ができてくるのかがわからないのである。そこで養老氏がだしてくるのが対応関係という論点。腎臓の構造→尿、筋肉の構造→運動は、構造から機能へという因果の方向、原因から結果という方向を想定させる。しかし脳のこの部分は心のこの部分という風に対応をみていくというのも有力なやりかたである。原因ではなく対応である。
ライルによれば、脳と心の関係を問うのは、構造と機能という違うカテゴリーの混同から生じた擬似問題ということになる。問題のないところに問題があるように錯覚しているだけということになる。そして、そのような錯覚をおこなうのは人間の脳の癖というのが養老説である。そういってしまえばあらゆることは人間の脳の癖になってしまうのかもしれないが。
われわれの脳にはそういう癖があるということを自覚しているならば、ある種の間違いを犯すことが少なくなるということはあるのかもしれない。あるいはカテゴリー・ミステイクということに自覚的になることによって、われわれは少しは利巧になれるのかもしれない。しかし、そういうことを論じている本は、インテリしか読まないのかもしれないし、それも〈ある種の知的雰囲気〉にひたっているときだけかもしれない。仮に読んでも頭ではわかっても、いざその時になるとすぐ忘れてしまう程度の知識かもしれない。とても腑に落ちるような理解にはならないような気がする。
(2006年4月16日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)
ジレンマ―日常言語の哲学 (双書プロブレーマタ (3-3))
- 作者: ギルバート・ライル,篠沢和久
- 出版社/メーカー: 勁草書房
- 発売日: 1997/08/01
- メディア: 単行本
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