下條信輔 「サブリミナル・マインド 潜在的人間観のゆくえ」

  [中公新書 1996年10月25日初版]


 下條氏の本を読むのは三冊目。実に興味深い本。もう10年位前に出た本であるのに全然知らなかった。そういう本がたくさんあるのだろうなと思う。
 著者は、現代生物科学のセントラル・ドグマは「DNA→RAN→タンパク質」の関係であるが、現代心理学のセントラル・ドグマは「人は自分で思っているほど、自分の心の動きをわかっていない」というものである、という。
 これは直ちに、自由意志の問題につながる。現代の人間観の極北には、人間に絶対的な自由意志を認める立場がある。その対極には、人間の行為や意思はどうあがいても、環境の影響から逃れることができず、所詮あらかじめ定められた法則に則ってしかふるまうことができないとする、人間機械論、予定調和説(ライプニッツ)、神の見えざる手、マクスウエルの魔などの考えがある。
 現在の最前線の人間科学は心における潜在的過程の存在を強く示唆する。それと現代生物学の決定論が組み合わされると、人間の自由意志の尊厳と、それを前提とする社会のさまざまな約束事を根底から覆すものともなりかねない。
 そのような見方は今のことろは、まだ科学の最先端にいるものだけに共有されている考えである。ルネサンスの人間観、フロイトの見方といったものが、多くの人に共有されるようになるまでは一世紀位の時間を必要とした。いま先端の専門家だけのものである知識が一般のものになるにはまだ多くの時間が必要だろう。しかし、それにしても現代における専門家と一般人のずれは大きい。
 潜在的な認識過程というと誰でもフロイトの無意識を思い出すだろうが、ここでの含意はずっと広い。ポランニのいう「暗黙知」すなわち、「われわれは語ることができるより多くのことを知ることができる」という考えに近い。われわれはほとんど意識せずに車を運転できることはよく指摘される。
 現代心理学では、意識にのぼらないものでも記憶されうるということは当然の前提とされている。有名なものとしては、映画のフィルムにごく短時間の映像を挟み込むというサブリミナル効果が知られている。とすれば、われわれが自分があることをしたのはこれこれの理由であると思っているとしても、それが本当であろうかという問題が生じる。それに対する解答として、暗黙の知と明証的な知が密接に関連しあって人間は行動しているのだとするのが、本書の基本的な姿勢である。
 普通、自分の顔は自分には見えず、それに対して相手の顔はつねに見える。ベムという学者は、人は自分の行動を自分で観察し、また周囲の状況を観察してから、自分の態度や感情がどういうものであるかを知ることがしばしばあるとした。つまり自分の内面というものがあてにならないこともしばしばある、自分の内面が自分でもわからないことがしばしばあるという見方である。
 認知的不協和理論:個人の心の中に互いに矛盾するような二つの「認知」があるとき、しばしば人は葛藤を感じ、それを減じるために自己の内面の認知を修正する。なぜなら外的な要因による「認知」は変えようがないから。ここから「本人しかわからないとされることも、他者が知ることができる公共的な事象に起因する」という奇矯な主張がでてくる。これは一見、納得しがたいかもしれないが、われわれが幼児期には他人の態度を見て様々なことを習得するのは、まぎれもない事実である。ここから、「自己に対する内的な知識はきわめて不完全であり。それは無意識的な推論によって補われているのであり、極端な言い方をすると、自分はもう一人の他人であるにすぎない」という見方がでてくる。
 悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだという「ジェームス・ランゲ説」という奇妙な説がある。ある事象から生じる体の反応がまず先にあり、その反応をわれわれは情動として感じるという見方である。顔面や表情を認知する神経機構が情動に関連する脳の領野のすぐ近くにあるのは事実である。「ジェームス・ランゲ説」は行き過ぎであると現在考えられているが、その変形として「顔からのフィードバック説」がある。顔筋から脳幹、視床下部大脳辺縁系視床などへのさまざまなフィードバックが情動を決めるというものである。演技として作った表情であっても、それは情動に大きく影響することが知られている。まず感情があり、そのあとに表情が作られるとばかりはいえなそうなのである。身体的過程→潜在的認知過程→自覚的情動経験、という道筋が重要である。生理的な興奮状態が先におき、それがなぜかという推測はあとから起きるという考えが、現在生理学では有力である。
 エピネフリン実験:
 1)エピネフリンをビタミンといって打つ。エピネフリンの効果をビタミンの副作用として教えておく。
 2)エピネフリンをビタミンといって打つ。情報はなし。
 3)エピネフリンをビタミンといって打つ。ビタミン剤の副作用としてエピネフリンの効果と反対の沈静効果を教えておく。
 4)生食をビタミンといって打つ(コントロール)。情報なし。
 注射のあと、サクラが被験者に不愉快な思いをさせる。2)3)群のほうが強い反応を示した。薬理効果は知識によって違ってくる。
 逆偽薬効果:不眠症のひとに乳糖をあたえる。一方にはそれを興奮剤といい、他方には鎮静剤であるといっておく。興奮剤といわれたグループのほうがよく眠れた。なぜか? 不眠症のものは眠る前に興奮する。それが自分のせいではなく薬のせいだと思えば気にならないのである。
 感情といわれるものも実は無意識の認知によるのかもしれない。また言葉で表現される意識の部分から、ものごとを判断することは危険であるかもしれない。わたしたちがしていることは膨大な量の情報処理の結果であることを考えると、それらの処理すべてを意識していられないのは、ある意味で当然である。
 われわれが一旦忘れたことを思い出せるのはなぜか? ある訓練で一度も覚えることができなかったモノも時間をおいた再訓練で、まったく初めてのものよりもよく覚えられることがわかっている。その日のできことを翌日まで保持できない健忘症のひとでも、訓練で熟達していくことがわかっている。
 記憶には宣言的記憶(事物についての記憶)と手続記憶(やり方の記憶)の二種があり、後者は一度獲得されると損なわれることはない。一方、前者は想起可能であり学習によって獲得されるような事実やデータに関するものであるが、健忘症では強く冒される。しかし、ハンチントン舞踏病では手続記憶が損なわれる。
 進化的にも手続記憶が先行しており、個体発生の上でも、先行する。だからわれわれは幼児期の記憶をもたない。しかし潜在的な記憶は残っているのである。思い出せる記憶がないだけである。潜在的記憶があるからこそ、その時の経験が後の人格形成に大きな影響を与える。
 また宣言的記憶を二分して、エピソード記憶(日時と場所つきの記憶)は損なわれるが、意味記憶(概念)は損なわれないとするものもある。
 目には入ったが見えたという自覚のないものと、耳には入ったが聞こえたという自覚がないもの、双方ともに記憶される。たとえば、パーティの会場などで他の人と話をしているときでも、だれかほかの人が自分の名前を言っているとちゃんと気がつく。それまでも聞いてはいたが、無意識のうちに捨てていいものと(判断?)して背景にまわしていたのである。見た意識がないの記憶されているサブリミナルカットの効果は有名である。
 知覚できたものとされなかったものという二分法をわれわれはしがちであるが、知覚されなかったものにもさまざまなレベルがあり、あるなしに両断できない。いずれにしても意識できることの容量には限界があるのである。
 著者によれば、「視知覚情報処理の大部分は、われわれの意識にとってアクセス不能であり、われわれはたかだかその処理の結果(=出力)を知覚現象として経験するにすぎない」という。
 盲目の人は、非常に鋭い聴覚的な手がかりで外界を認識していることが多い。しかしその人自身は自分の額が事物を感じ取るという表現をすることが多い。その人は嘘をいっているのだろうか? 誤っているのだろうか? 本当のことを言っているのだろうか?
 脳内には、行動に直結した神経経路があり、それは視覚皮質一次野から情報をとりよせて処理をおこなっているが、言語野や意識と関連した高次中枢と直接の神経連絡がないために、その処理は自覚されない。姿勢の制御などは昆虫や鳥にもあるから、それらが無自覚的であることは了解される。物体認知は高等な動物で優勢になる機能であるから、それが自覚されることも頷ける。とすれば物体認知なしの思考というものがあるかどうかが問題となる。
 「私が手を上げる」から「私の手が上がる」を引くと何が残るか?とヴィトゲンシュタインはいった。
 今日のわれわれは、自立した単位としての「個人」を他の何よりも優先させる価値観のもとで生きている。直接経験は最終的であり、真偽を問えない。私たちの知覚や行動は、われわれ自身によって直接経験されるものであるから、その明白さは真偽を問う余地さえない。しかし、それが何に由来し、起因したかは必ずしも本人にわかっているとは限らない、そうわれわれは考えている。
 決定論的人間観は人間を集団でみた場合、巨視的に見た場合に該当するのかもしれない。だから集団的にデータを見る生物学者や心理学者はそういう見方をとりやすい。内観が無条件に確実でありえるのは心の自覚的部分だけなのである。
 
 以上展開をたどってきた本書をつらぬく主題は、われわれは意識にのぼらない部分で非常に多くのことをしているということである。これはフロイトの無意識などとはまったく違った観点であり、フロイトは思い出したくないことを無理に意識下に押し込めるというような観点から無意識を見たわけであるが、そうではなくて抑圧といったこととはまったく無関係に、ほぼ自動的にさまざまなことが意識に上らないままに処理されているということである。車を運転していると、全然別のことを考えながら、運転についてはほとんど何の意識もないままに知らないうちに目的地についたなどということは日常茶飯である。ちゃんと目で見て判断して、指示器をだして、ブレーキを踏んで、ハンドルを切っているにもかかわらず何も意識していない。
 ベナーは「看護論」で初心者から熟練者までの違いを論じて、初心者はマニュアル的に一々点検して確認してでなければ仕事ができないが、熟練者はほとんど意識なしに仕事していて、問題点に遭遇すると自動的に気づくといっている。ベナーはもともとはドリフュスらのパイロットの操縦の訓練からヒントを得ている。飛行機の操縦は当然、機器の点検など様々なマニュアルによって教育されるわけであるが、肝腎の教官は全然マニュアル通りには行動していないのである。訓練をうけている初心者が一個一個の機器を一つ一つ点検するのに対して、教官は全体を一挙に見て、どこがおかしいかすぐにわかる。そしてその指導教官も自分がどのようにして状況を認知しているか言葉では説明できない。わたくしは別に自分が熟練者であるというつもりは毛頭ないが、診察していてほとんど儀式のように打聴診していても、不整脈があったり、打診でダルであったりすると気がつくものである。診察を全神経を集中してやっていたりしたら、一日50人などという外来はできないのかもしれない。ほとんど無意識?で外来をやっていて、問題点でだけ目覚めるようにしないもたないのかもしれない。しかしまあ、このあたりまでは特に問題はないと思う。問題はわれわれが自分では意識的におこなっていると思っている行動である。自分では意識して自分の意思によってしていると思っていることを、実は相当部分、無意識部分がおこなっているのではないかというのが問題である。もっと言えば、実は相当部分ではなくて全部が自分の意思ではない何かがおこなっているのであり、自分が自由意志で何かをしているというのは錯覚なのではないかという問題である。
 どうも、この問題については現在まだ決着がついていないのであろうというのが本書をふくめ何冊かの本を読んできてのわたくしの印象である。神経シナップス末端での神経伝達物質の放出とそれによる隣接神経の興奮あるいは抑制という過程を考えるならば、そこに意思というようなものが介入する余地はない。しかし、一方でわれわれはモツアルトの音楽が神経伝達物質の働きによって作曲されたといわれても納得しないのである。要するに、まだこの問題については何も本当のところは判ってはいないのであろう。しかし、「自由意志」が後退に後退を重ね、どんどんと戦線を縮小していて、もう塹壕戦に持ち込むしか方策がなくなっているのもまた確かなことのように思える。
 蟻が地面を這っている。あるいは蝶々がひらひらと飛んでいる。さらにはカラスが道路でゴミ袋をあさっている。蟻はただ刺激に対する反射として動き回っているのであろうか? 蟻には意思というものはないのか? 蝶々もただただ刺激に対する反応として飛んでいるのであろうか? 飛びたいと思って飛んでいるのではないのだろうか? もちろん蝶々は思うということはしていないだろう。しかし、何らか意思に相当するもの、ただ受身で刺激に対する反応して行動するのではなく、してもしなくてもいいのだがあえてしているという意味での意思はないのだろうか? 人間もまた動物であるから、他の動物と連続的な存在である。もしも蝶々が飛んでも飛ばなくてもいいのだが、それでも飛んでいるのであれば、人間もまた同様の意味での自由を持つといっていいであろう。ある時蝶が飛び立ったとして、その行動を決めるのがそれまでの蝶の来歴とその時に蝶がおかれた環境によるのであれば、それは機械の行動なのだろうか?
 カラスは、あっ、あそこに餌がある!と思ってゴミ袋に寄ってくるのではないだろうか? それとも嗅覚や視覚に与えられた刺激に対する反応としてゴミ袋のところに来るのであろうか? カラスが車がくると逃げるのは、あっ、車だ!と思うからではないのだろうか? 古来からカラスの生存に寄与してきた運動する物への機械的な反応に過ぎないのだろうか?
 ブライテンベルクは「模型は心を持ちうるか」で、外部刺激に対する簡単な反応装置を備えた模型をわれわれが外部から見ると、それがあたかも「心」をもっているように見えることを論じている。たとえば、ある閾値に達するまでは刺激に反応しないセンサーを備えた模型はそとからみていると、はじめは躊躇しているが、ある時決心して行動をはじめるように見える。それなら、カラスは「心」をもったように見える模型なのだろうか? しかし一番大きな問題はそこにあるのではない。われわれの行動もまた外部刺激に対する反応であるにもかかわらず、たまたまわれわれにはその反応を自覚し、監視する機構が備わっているため、それが故に、あたかも自からが自発的に行動しているように感じているだけだということがありうるだろうかというのが真の問題である。漱石が『「随分遠いね。元来何所から登るのだ。」と一人が手巾で額を拭きながら立ち留つた。「何所か己にも判然せんがね。何所から登つたつて、同じ事だ。山はあすこに見えて居るんだから」と顔も体躯も四角に出来上がった男が無造作に答へた。』とある小説を書き出す。ここに今までに地球上に存在しなかったある秩序が創出されてきているとわれわれは感じる。そこにわれわれはある能動的な行為をどうしても感じてしまう。われわれには自由意志は本当には存在していないのかもしれないが、それにもかかわらずわれわれはありありと自由意志というものの存在を感じ取ってしまう。それはどうしても否定することができない。
 原始的な生物でさえ、ある種の刺激に対してあるときは反応し、ある時は反応しないということがあるのだろうか? そもそも生物は外部に対してある積極的な構え、期待、あるいは仮定をもって対峙しているのであり、外部の刺激に対して単に受身で反応しているというようなものではない存在なのではないだろうか?
 ポパーはこのことを「バケツ理論」と「サーチライト理論」という卓抜な比喩で表現している。われわれの中に外部のデータが注ぎ込まれてくるのではなく、われわれはある仮定をもって外部に臨んでいる。われわれは「見える」のではなく「見る」。「見る」ということはある期待、ある仮定から生じる積極的な行為である。蟻は心はもたないかもしれないが、ある種の能動性を持つ。心とはあらゆる動物がもつ能動性、積極性の究極の姿なのである。そのように考えると、心というものを生物学に位置づけることが可能になるのかもしれない。
 心という問題が混乱するのは、それを物理学として説明できるかという問いをたてるからである。心はとても物理学では説明できるように思えないため、心が神秘的なものとなってしまう。しかし、期待というものが物理学で説明できるかと問い直すならば、この霧はだいぶ晴れてくる。動物はあることに対してはこうしよう、あることに対しては何もしないでおこうとい予断をもって生きている。ある種の予断を持った生物は、それが環境に適合しないがゆえに、進化の過程で滅びてしまったかもしれない。現在生き残っている生物はそれなりに環境的適応的な予断を自分の構造の中に組み込んでいる。ということはこれは物理学では説明できないことは当然であり、しかもそれにもかかわらず神秘でも何でもないことも明らかである。おそらくわれわれの行動の大部分は生物が進化の過程で自己の中に蓄積してきた様々な環境適応行動によるのであり、それゆえに意識されることもないし、意識される必要もない。また生育の過程での経験がさまざまに意識には残らないでもわれわれの行動のしかたの多くを規定する。そしてその上にほんの少し意識される行動が残る。しかし意識される部分があるために、逆にあらゆる行動が意識により制御可能であるというような信憑をわれわれは抱きやすい。しかしそのようなことは事実ではないのですよ、ということを本書はいっている。本書は「サブリミナル・マインド」という題である。そのサブリミナルな部分を心と呼ぶかどうかは、言葉の問題である。
 斉藤美奈子氏も池澤夏樹氏も決定論に激しく反発する。社会生物学的なものに過剰に反応する。これは集団について成り立つことも個々の事例については成り立たないということへの無知によるように思われる。あるいは十分にそのことについては知っているのかもしれない。知ってはいるけれども、集団についてあることが成り立つと、それが個々にも妥当すると誤解する人間があまりにも多いので、集団についての議論も人間にかんするものは有害であるのでするべきではない、と考えているのかもしれない。しかし斉藤氏も池澤氏もするべきことは、集団について成り立つことも個々の事例については成り立たないということの啓蒙なのである。集団についての議論を封じることではない。最近、小谷野敦氏がさかんに言っている「意見によって事実を捻じ曲げてはならない」というのはそういうことである。
 こういう本を読んでいると、文学者はあるいは文科系の人間は、脳のことにあるいは脳の働きについてほとんど関心がないのだなということを痛切に感じる。養老孟司氏が、みんなもっと脳について勉強しろといっている気持ちがよくわかる。かくいうわたくしだって10年近く前にでたこの本を全然知らなかった。なんだかもう知らないことばかりである。死ぬまでに、あるいは頭がある程度はっきりしている間にあと何冊くらいの本を読めるだろうか? 今よりももう少し人間について、自分なりの納得できる像をつくることができるだろうか? あるいは読めば読むほどかって世界の像は不統一なものとなっていくばかりなのだろうか?
 

(2006年4月16日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

サブリミナル・マインド―潜在的人間観のゆくえ (中公新書)

サブリミナル・マインド―潜在的人間観のゆくえ (中公新書)