佐々木正人 「アフォーダンス 新しい認知の理論」

  [岩波科学ライブラリー12 1994年5月23日初版]


 ギブソンによるアフォーダンス理論を紹介した本。これも山本貴光らの「心脳問題」で知った。100ページほどの小冊子であるが、内容は濃い。
 アフォーダンス理論は1960年代にギブソンによって完成され、1980年代に入って、人口知能などを研究する認知科学者に注目されるようになった。
 1960年代に登場した人口知能AIは、チェスの試合や、定理の証明といった、問題の生じる環境が限定されていて推論が最大に発揮されるような課題においては非常な威力を発揮した。しかし、もう少し人間の生活環境に近い場面を想定すると、人間の知性には自明でありながら、機械の知性には欠けていることがあまりに多いことがすぐに明らかになってきた。それがフレーム問題であり、ある行為に関係があることとないことを効率的に見分けるにはどうしたらいいかという問題である。
 ギブソンは1922年にプリンストン大学に入り、心理学を専攻した。まずそこでゲシュタルト問題とであった。ゲシュタルト問題とは1980年にエーレンフェルツによって提出されたもので、ゲシュタルトとは、「感覚要素の総和以上のもの、総和とは異なったもの」を指す言葉である。たとえば音の繋がりがメロディーとしてきこえるといったことである。メロディーは移調しても、違う楽器で演奏しても同じメロディーとしてきかれる。だから、それは個々の音とは違うレベルのものである。さまざま人の書いた文字が同一の文字として認識されるのもゲシュタルトである。これは感覚器官で受容される物理的刺激により知覚が生じるというそれまでの伝統的な考えに見直しをせまるものであった。
 1941年にギブソンは空軍でのパイロットの知覚研究に参加した。そこで彼は「あたりまえの見え」の素晴らしさにであう。パイロットは数キロ先の敵機の機影を発見できる。これは両眼視差などというものではとても説明できないものであった。ギブソンは視覚世界にあらわれる肌理(テクスチャー)に注目した。網膜は点ではなくパターンを認識するとしたわけである。次第に彼は、環境における面と面の関係、とくに地面と他の面の関係の重要性に気づいてゆく。そして面が動くときに視覚はきわめて鋭敏に対象を捉えることできることを発見する。従来、視覚研究は動きを極力排除しようとしてきた。対象が動けば、網膜上の像も動くことが研究には支障になると考えたためである。その発想を逆転して像よりも動きが大事だとした。曇り硝子の向こうにいる静止した人物像を特定することは、われわれにはきわめて難しいが、いったん対象が動くならば容易に誰だか言い当てることができる。とすれば、形ではなく変形が重要なわけである。われわれは変化するものを見ることにより、その中から不変なものを言い当てることができる。また視覚の変化は自身の動きを示す情報ともなる。ギブソンは刺激自体ではなく、刺激の配列が重要であると考えるようになっていく。
 動物の眼の構造は多様であり、人間の眼とはまったく違う複眼をもつものもある。それらを使って環境の中で変化するものと不変なものを知覚していくこと、それが大事なのであって、個々の像の正確さが大事なのではない。
 地面は通常、重力の方向と直角をなすものであり、動物にとっては決定的に重要なものである。
 環境には意味がある。ある隙間は通り抜けることができるかどうかを問うものであるし、目の前の生き物は、それを獲れるか獲れないかを問うているものである。環境が動物に提供する「価値」をアフォーダンスという。(アフォーダンスギブソンが afford 〜できる から作った造語)したがってアフォーダンスは事物がもつ物理的な性質ではない。といって知覚者の主観が構成するものでもない。環境の中に実在するものでありながら、物理的な性質はもたない何ものかである。環境のすべてはアフォーダンスの用語で記載できる。同じものを見てもひとによって違うアフォーダンスが知覚される。同じ人が同じものを見ても、状況によって違うアファーダンスとして知覚される。アフォーダンスは刺激ではなく情報である。
 ギブソンは、アフォーダンスを「動物との関係として定義される環境の性質」であるとした。しかし、それが関係のとりかたによって、出現したり消失したりするものではないとした。《アフォーダンスは環境の中に実在する》というのが、彼が協調するところである。
 神経系の伝達速度は決して早くない。われれれの常識となっている「感覚されたものが脳で処理されて運動を制御する」という見方は、神経伝達速度からみればありえない話なのである。
 
 あとがきで佐々木氏は、G・ベイトソンギブソンを読んで「おれと同じことをいっている」と言ったということを書いている。ベイトソンもまた物理世界と生命世界の違いということを生涯追い続けた人間であった。彼は物理世界にはなくて、生き物の世界にあるもの、それが《関係》であるとした。ギブソンアフォーダンスもまた、「環境があって、われわれはそれを知覚器官によって認識する」という発想をしりぞけ、環境と知覚器官は一体化しているという主張をした。あるいは認識とは体全体でするものであり、脳でするものではないという主張をしたともいえるのかもしれない。
 デカルト的な認識論からは、われわれは世界の中の不動の認識点となって世界を見ているというようなイメージがでてくる。しかしわれわれは動物である。動くものである。何よりも動くことが認識につながるというのはきわめて生物学的な認識論である。デカルトの認識論は物理学的なものであって、それが長い間西欧の認識論を支配してきた。
 デカルトこそが西欧の貧しい世界観を生んだ。もっと東洋の叡智をというような思潮が一時ニューサイエンスとして盛んであった。わたくしも面白がって読んでいたことがあるが、けっきょくその中で残ったのはベイトソン(+ライアル・ワトソン?)だけであるように思う。何で同じような主張をしているものとしてアフォーダンス理論のことが当時耳に入ってこなかったのか不思議である。わたしがベイトソンなどを読んでいたのが20年以上前であるから、そのころにはアフォーダンス理論はそれほどは人口に膾炙していなかったのかもしれない。
 アフォーダンスのような知見があるにもかかわらず、医療の分野においては旧態依然たるデカルト的見方が巾をきかせている。人間は身体+精神で、医療とはもっぱら身体をあつかい、そこからはみ出るものは精神科あるいは心療内科という一種のごみために放り込むのである。脳外科というものがあり神経内科というものがあり精神科がある。脳外科も神経内科も正統的な身体医療をおこなう科である。脳動脈瘤が見つかれば何の症状がなくても脳外科では手術をする。脳波に異常がみつかれば、何の症状がなくても神経内科では治療をおこなう。しかしなんの症状がないひとを精神科で治療することはない。デカルト的な見方では精神には物理的な座はないわけだから、精神の現象はもっぱら症状として認識される以外にないことになる。
 しかしアフォーダンスの見地からは、身体と環境は相互にからみあっているのだから、身体の出来事を身体のみであつかうということはきわめて偏頗なやりかたということになる。もしもこれから患者学とか臨床学といったものが構築されるのであれば、アフォーダンス理論は、その中で中枢的な意味をもってくるのではないかと思われる。
 ギブソンが主張したことも、われわれはたまたま住んでいる地球という環境に徹底的に適合して生きているということである。地面が通常は平らであるということをわれわれは前提として生きている。われわれの感覚からすれば、天動説が正しいのであって、地動説は知識としていは受け入れても、体は受け入れない。これは天動説が正しいということではない。ただ天動説が長い進化の過程で体の中に住みついているということである。われわれはゆるがぬ大地というのを前提にして生きている。生物の構造の中にそれは組み込まれている。だから地震であわてる。
 アフォーダンス理論について知って、思い浮かぶのは、(少なくとも人間においては)今までの生存の歴史の中で、(神と呼ぶかどうかはどうでもいいとしても)何からの超自然的な存在を仮定することが当然であったのであり、いわばそれが体に組み込まれているのだろうかということである。それは天動説なようなものであって、頭では否定できても体では否定できないものなのだろうか? アフォーダンスは見え、あるいは聞こえ、あるいは匂いというような形で環境に現れてくるものであり、見えず聞こえず匂わない超自然的なものがアフォーダンスとして現れるということはないというのが正解であろうとわたくしは思うのだが。
 医療の世界において。画像データの機械による解析という分野がある。たとえば冠状動脈造影検査において90%狭窄の部位があれば、ほとんど一目でそれを指摘できる。しかし機械ではそれは決して容易なことではないようなのである。まず血管情報をバックグラウンドから区別するというのが大変な作業らしい。こんどはその血管情報の隅から隅までを全部点検する。屈曲による変化、分岐による変化などの意味づけもきわめて難しいらしい。人間が一目で何気なくしている判断ということは、実は機械でやるととんでもなく大変なことであるらしい。だってそんなことは一目みればわかるでしょう、というのは機械相手には通じない理屈なのである。
 アフォーダンス理論を読んでも、ふたたび思い出すのがポパーである。世界というのは見えているのではなく、われわれが見ているのである、というのは世界は物理学的実体として目に入ってくるのではなく、意味と問題に充ちたものとしてわれわれに問いかけてくるということであり、世界とわれわれは相互反応をしているということである。アフォーダンス理論などというのはポパーはまったく知らなかったであろうが、ポパーの思想はきわめて射程の長いものだったのだと思う。


(2006年4月16日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

アフォーダンス-新しい認知の理論 (岩波科学ライブラリー (12))

アフォーダンス-新しい認知の理論 (岩波科学ライブラリー (12))