鈴木公太郎「オオカミ少女はいなかった 心理学の神話をめぐる冒険」

  新曜社 みすず書房 2008年9月
  
 心理学にかかわる8つの広く流布している“神話”をとりあげたものである。
 
 1)オオカミ少女はいなかった
 オオカミ少女の話はわたくしも知っているくらいだから有名なのであろう。それを信じていたかというと、これは教育の重要性を説いた寓話だと思っていて、真偽については考えたこともなかった。ありえない話だとは思っていたように思うが。
 本書の論をみれば、それが作り話であることは明白であるが、問題はなぜ、この話が受け入れられたかという問題である。
 鈴木氏のあげるのは、
a)有名なローマ建国のロムルスとレムスの話や、キプリングの「ジャングル・ブック」のモーグリの話が西欧では知られていたこと。
b)この話を西欧に紹介したゲゼルが自分の生得説を、その当時流行していた行動主義の環境説との融和をはかろうとしたこと。
 などである。
 問題は後者であり、要するに氏か育ちか? 遺伝か文化の影響か?という問題に、この話がからんでいることである。わたくしはピンカーの本などを読んできているので、遺伝の重要性を否定する議論を理解できないのだが、人間は決定的に文化の産物であると主張したいひとは依然として多いわけで(sexとgenderの区別)、その立場のひとたちからみると、この話はなかなか捨てがたいところがあるのであろう。
 
 2)まぼろしのサブリミナル
 有名な(わたくしでも知っている)、映画のなかで意識できないくらいの短時間「ポップコーンを食べろ」「コカコーラを飲め」という文を挿入したら、売店の売り上げが増えたという話である。これはある広告業者がそう主張したというだけで、論文も報告も一切ないのだそうである。わたくしは1秒24コマのなかの1コマだけそういうコピーをいれたということなのだとおもっていたのだが、その広告業者は3000分の1秒だけ提示したといったのだそうである。そんなこと当時の技術で(今でも?)できるわけがない。
 下條信輔氏の「サブリミナル・マインド」をいまざっとみてみたが、この話はでてこないようであった。心理学の世界ではこの話を信じているひとはいないということなのかもしれない。
 鈴木氏がいうのは、本当にサブリミナルな知覚は存在するということが問題なのだという。認知心理学でいう意識下(閾下)である。しかし、意識されない知覚という問題はフロイトの無意識の問題と直結してしまう。(フロイト的な)無意識は論理的には存否が証明できない。なぜなら抑圧されていて意識されないものが無意識だから、と鈴木氏はいう。いくらそんなことはないといっても、それだけ強く否定するのは、それだけ抑圧が強いからだという論理は証明不能である。
 認知心理学でいう「意識下」とフロイトの「無意識」を混同するところから混乱がおきる。前者は現在の意識の問題であり、後者は過去の意識の問題である。
 心理学の分野では有名な「知覚的防衛」という研究がある。タブー語はそうでない語より認知に長い時間を要する。しかし、皮膚電気反応をみると、短時間でタブー語はそうでない語より理解される。これについては多くのフロイト的解釈がおこなわれてきた。
 われわれは広告をみても、すぐ買う気になるわけではない。ところが無意識に広告されると買ってしまうという話は信じられてしまう。意識に提示されると意識が吟味してしまうが、無意識に提示されると抵抗するものがないから、買ってしまうという論理はなんとなく説得的なのである。そう思うわたくしはフロイト信者なのだろうか?
 
 3)3色の虹?
 「言語相対仮説」というのがあるのだそうである。言語を介してはじめて知覚は可能になるという説である。虹を見ても、色の名前が3つしかない社会ではひとは虹を3色とみる。おそらくソシュールの言語観も「言語相対仮説」の代表的なもののひとつなのであろうが、鈴木氏はそれを「なにをバカなことを言っているのだろう」と一蹴する。そうであるなら、異なる言語間での翻訳が可能になることはないはずではないか、と。
 色の弁別の問題はこの前とりあげた中井久夫氏の「臨床瑣談」でもとりあげられていた。そこで紹介されていたバーリンとケイの「基本色彩語」の研究がここでも論じられる。それによれば、色彩が二つなら、白と黒あるいは明と暗、3つなら赤が加わり、5つなら、緑と黄が加わる。11なら、白・黒・灰・赤・緑・黄・青・茶・紫・ピンク・オレンジなのだそうである。たとえば、白と緑と黒しか色をもたない文明などないということである。言語は恣意的なものではない、と。
 わたくしは丸山圭三郎氏を介したソシュールの言語観に大きな影響をうけてきているように思う。虹を4色とみる文明もあり3色の文明もあるという話をはじめてきいたときは、びっくりしたことをよく覚えている。しかし、それがなんという色名であるのかまでは考えなかった。丸山−ソシュール説によれば、連続体をどのようにわけるかは任意である。あるいは丸山氏の語法によれば「恣意的」である。なぜそのようにわけられているかには一切根拠がない。たまたまそうなっているからとしかいいようがない。
 「文化記号学の可能性」(日本放送出版協会1983年)の岸田秀氏との対談での丸山氏の言葉を引用してみる。
 「動物と人間は不連続であり、人間は本能がほとんど壊れてしまった動物、錯乱のヒト、ホモ・デメンスである。そして人間が作った文化というのは、自然をよりよく改良したものでもなんでもなくて、病的な現象である。ソシュールの言葉でいえば恣意的すなわち非自然的価値体系ということですね。私はそれを《文化のフェティシズム》と呼んでいるんですが、つまり錯誤の体系であるということです。」
 《動物と人間は不連続》というのはキリスト教文明圏では当然のことで、人間のみは神から魂をあたえられた別格の動物(あるいはすでに人間は動物でない)とされるのであるが、丸山氏がいうのは、人間は動物以下であるということなのである。
 人間以外の動物は抛っておいても生きていくことができるのに対して、人間のみは抛っておかえるとどう生きていいかがわからない(本能が壊れてしまっているから)のであり、ただ文化によって生き方の指示をされることでかろうじて生きていける。しかし、その文化は本能に根ざしたものではないから何ら根拠のあるものではなく、恣意的である。
 こういう見方はプラトンイデアの対極にあるものと思われるから、西欧圏においては意味を持つ考えなのであろうが、日本においてはどうだろうか、というようなことは後から考えるようになったことで、丸山氏の本を読んだ当時においては面白くて仕方がなかった。
 ついでにいえば対談相手の岸田秀氏からも決定的な影響を受けた。「ものぐさ精神分析」(青土社 1977年)などもわくわくして読んだ。ひどい話であるが、わたくしはフロイトの原著はほとんど読んでいなくて、精神分析学の知識はもっぱら岸田秀伊丹十三コンビからえたものである。ユングも原典も読んでいなくて、もっぱら河合隼雄氏経由。さらにそのころ、村上陽一郎氏の「西欧近代科学」(新曜社 1971年)なども読んで科学哲学の面白さにも触れた。
 村上氏の本というのが後から考えるとポスト・モダン思想にふれた最初であったのだと思う。ポスト・モダン思想とソシュールフロイトがどうかかわるのかはよくわからないが、いずれにしても最初にふれたものが西欧の正統思想を批判する思想であったわけである。しかし結局、村上氏が推奨していたクーンやファイアアーベントのほうにはいかず、科学哲学者の中では一番保守本流に近いポパーのほうへいき、吉田健一氏からは(氏が考える?)西欧正統思想をまなび(キリスト教という野蛮を離れた文明としての西欧)、動物としての人間という考えを受け入れるようになって、ホモ・デメンスというような見方をバカバカしいものと思うようになった。それにもかかわらず、丸山氏のいう《言分ける》というような見方は自分のなかに残っていると思う。
 色覚は生理的なものであるから、それが恣意的であることはありえないとする鈴木氏の論には説得力がある。鈴木氏はウォーフの言語相対仮説を紹介し、そうであるなら物理的概念は普遍的ではなく、異文化間では伝達不可能になるはずであるといっている。
 しかし西欧医学的な疾患概念を、病気は誰かの呪いによって生じると思っている文化圏に翻訳することは不可能であろう。そういう領域になると丸山氏の論の有効性は(そしてクーンの共約不可能性という見方の有効性は)まだまだ残っているように思う。
 
 4)バートのデータ捏造事件
 バートというひとの一卵性双生児研究(別々に育てられた双子はきわめて似ている。すなわち、ひとの性質を決定するのは主として遺伝であって、環境ではない)がねつ造だったのではないかという問題をあつかったもの。
 ピンカーの「人間の本性を考える」(NHKbooks 2004年)を読んでいて、生後すぐに別々の環境で育てられるようになった一卵性双生児の話がでてきて、そんなケースが多くあるだろうかと思ったことを思い出した。その上巻100ページに「生まれてすぐに別々にされ、思わぬところでばったりあった双子の兄弟」がおどろくほど似ていることを示している漫画が示されている。ピンカーは遺伝派なのであるが、バートもまた知能の遺伝説の論客であったのだそうである。
 鈴木氏は、遺伝か環境かの論争は不毛であるという。大事なのは両者がどのように相互作用しあうかであって、2つを2項対立としてとらえることではないという。
 ピンカーは明らかに2項対立でとらえていて、環境派に挑戦するような筆致で書いている。もしも、一卵性双生児がまったく別々の環境で育てられたとしても、それでも性格などがきわめて似ているとすれば、それは性格の形成において遺伝の関与がとても大きいことをしめすと言えるのではないかとわたくしは思う。それについては鈴木氏は結論をあえて避けているように思う。バートのねつ造とはおもに症例数においてであって、まったくなされていない研究を発表したということではないようである。そうであるなら、バートの研究の結論についての現在の評価を一番ききたいのであるが、本書ではそれがなされていない。それを《両者がどのように相互作用しあうか》という方向にもっていくのは逃げであるように思う。身長は遺伝と環境が相互に影響しあう。けれども遺伝が規定するものも大きいとわたくしは思っている。性格といった問題についてもまた遺伝が規定するものが大きいのか? それは十分に研究に値するテーマなのではないだろうか?
 
 5)なぜ母親は赤ちゃんを左胸で抱くか
 1950年代の終わりにソークによって発見された「母親は左胸で赤ちゃんを抱くことが多い」ということについての話。
 鈴木氏によれば、ソークの主張は事実である。しかし、その説明として現在流布している赤ちゃんが母親の心音をきくことにより安心をするから、という説は証明されていない。わたくしなどはこれは単純に右利きが多いからということのように理解していたのだが、どうもそうではないらしい。
 鈴木氏もいうように、これだけ単純なことが1960年近くになるまで発見されていなかったというのが驚きである。それで考えたバカな話。SEXの時の男女の相対的な位置関係というのも効き腕も問題と理解していたのだが、違うのだろうか?
 
 6)実験者が結果を作り出す?
 いわゆる天才馬「賢いハンス」のはなし。
 これがハンスくんが本当に計算できたのではなく、飼い主の気持ちを読み取っていただけだという話は広く知られていると思う。ここから鈴木氏が導くのが実験する側が知らないうちに被験者に答やそれへのヒントを与えてしまう可能性という問題である。ここで例として出されるのがチンパンジーに手話を教える話である。はたしてチンパンジーは手話を理解するのか、実験者の思惑を理解するのか?
 
 7)プラナリアの学習実験
 プラナリアは二つに切っても、トカゲと違って尾っぽのほうからも成体が再生する。一方、プラナリアは条件によっては共食いをする。とすれば、プラナリアに学習させて、その学習したプラナリアを他のプラナリアに喰わせて、喰ったプラナリアが利口になっていれば・・、という話である。
 事実、利口になり、それは頭部から再生したものを喰った場合にも、尾部から再生したものを喰った場合でも、同じである。とすれば記憶は頭部にやどるのではなく、体全体にやどるのである。記憶物質が存在する。RNA合成阻害酵素がその効果を失わせるから、RANが関係しているらしい。その後ラットなどで記憶物質の探究がはじまったが、結論がでないままになっているらしい。
 最近は記憶はニューロンの結合パターンによるという説が支配的のように思う。ニューロンの伝達にかかわる化学物質は多くあるのだから、記憶物質はあるのかもしれない。しかしそれはプラナリアの実験が示唆したものとは別の何かであるかもしれない(ある記憶を維持している物質ではなく、記憶という現象の効率を改善する物質)。
 
 8)ワトソンとアルバート坊や
 行動主義心理学の有名人ワトソンの話。これが一番面白かった。
 ワトソンは1908年、30歳でジョン・ホプキンス大学の教授になり、2年後には心理学科の主任となり、1913年には「行動主義心理学」の宣言をし、1915年にはアメリカ心理学会の会長も務めるが、42歳でアカデミックな世界を去っている。学問の世界にいたのは実質20年ほどにすぎない。
 アルバート坊やというのはワトソンが恐怖条件づけをおこなった赤ちゃんの名前である。音でシロネズミへの恐怖条件づけをおこなった。この実験がおこなわれたのが1919年11月から1920年の1月までで、この実験の助手をつとめたロザリーという女性との不倫問題でワトソンは大学を追われ、学界からも去る。
 ワトソンは赤ちゃんについては、観察はしているが、実験をしているのは、このアルバート坊やのわずか3ヶ月だけなのである。にもかかわらず、1928年「心理学的子育て法」を出版しベストセラーになっている。それは「スポック博士の育児書」があらわれるまで、アメリカの育児の教科書であったのだそうである。
 例によって買っただけで読んでいなかったワトソンの「行動主義の心理学」(河出書房新社 1980年)をとりだしてきたら、その「訳者あとがき」には、ロザリーとの不倫事件について本書以上に詳細に書いてあった。
 鈴木氏は明らかにワトソンという人物に好意的であるように思われる。大学を追われたあと未知の広告業界に転身し、そこでも大広告会社の副社長までのぼりつめたスーパーマンという書き方である。わたくしもまた、本書を読んでワトソンというひとに大いに共感するものを感じた。
 「行動主義の心理学」の「訳者あとがき」はもう少し冷静で、「ミシシッピ沿岸地方のゴム長靴の市場調査からはじめ、コーヒーや歯磨き粉の市場調査、デパートでの店員体験などからはじめて、次第に頭角をあわらし、ついには副社長にまでなっていった地道な経歴が紹介されている。この「あとがき」に書かれているようにワトソンは「手を使う習慣」を父から受け継ぎ、手先の仕事が器用であり、それを少しも厭わなかったひとなのであろう。鈴木氏の本では、晩年、農場で馬の世話をするワトソンの幸せそうな写真がおさめられている。
 ハクスレーの「すばらしい新世界」冒頭の、国家による赤ちゃん養育場面(わたくしはその先を読んでいないのだが)はワトソンの行動主義とその育児法への危惧をえがいているという鈴木氏の説は、いわれてはじめて気がついた。ヘルムホルツ・ワトソンなる人物まで登場するのだでそうである。
 
 9)終章 心理学の歴史は短いか
 物質というハードなものとは異なる、こころというソフトな対象をあつかう心理学の問題点が論じられる。心理学を教える側の問題とマスコミの問題がいわれている。
 ここを読んで、すぐに岸田秀氏の「ものぐさ精神分析」の「心理学者の解説はなぜつまらないか」「心理学無用論」を思い出した。
 誰でもそうかもしれないが、わたくしも大学に入り、教養課程で「心理学」をとってみて、のっけからネズミの話ばかりで仰天した。今から40年以上前の話で、そのころは「行動主義心理学」の全盛時代だったからで、今なら違うのかもしれないが。
 研究室で研究されている心理学と、何か事件がおき、それがあまりにも理解しがたいので、犯人はいったいどういう気持ちであんなことをしたのでしょうと素朴な疑問が心理学者に問われる、そのギャップがあまりにも大きいのが問題である。

 本書でとりあげられている項目は、育児と教育と記憶の問題にわけられるように思われる。記憶も教育にかかわるとすれば、育児と教育である。学習の問題であり、子供をどうしたらいいのだろうかという問題である。
 そうなっているのは著者の専門分野の関係かもしれないが、現在、ひとがなぜそうような行動をするのかということについては一番説得力ある説明を提供しているのは進化心理学なのではないかと思う。以前に読みここでも論じたと記憶しているカートライトの「進化心理学入門」の訳者もまた鈴木氏であった。
 氏か育ちかという議論でいえば、氏の問題は主として進化心理学があつかうことになるのであろう。とすれば、残る育ちの問題が主として旧来からの心理学がカヴァーする分野となるのかもしれない。ピンカーなどは教育の問題においても環境のはたす役割は小さく、主たる決定要因は遺伝であるとしているのであるから、そうだとすると心理学すなわち進化心理学ということにもなりかねないのかもしれない。鈴木氏が氏か育ちかという議論に対して、妙に歯切れが悪いようにみえるのは、そのためかもしれない。心理学はひとの行動をみてもだめ、こころを内観してもだめ、数万年前の人類の生活様式を考慮することが最善の回答をあたえるということになると、決して短くはないと鈴木氏がいう心理学の歴史の遺産の多くが否定されてしまう可能性がある。
 ワトソンの「行動主義の心理学」は、心理学に科学を持ち込もうという果敢なこころみであったのだろう。現在、それは勢いを失っているようであるが、いま、人文学への生物学の侵襲ということの好個の例として、進化心理学があるのかもしれない。
 心理学はおそらく文科系の学として、人文の学としてスタートしてのであろう。現在、生物学を視野にいれない人文学は存在しえないようにわたくしは思うのだが、そのことが一番はっきりと露呈してくる場が心理学なのかもしれない。さすがに文学や哲学で生物学がおもな研究手段になることは、E・O・ウイルソンがどう主張しようともありえないように思う。しかし、心理学においてなら、それがおきないとはいえないように思う。
 

オオカミ少女はいなかった 心理学の神話をめぐる冒険

オオカミ少女はいなかった 心理学の神話をめぐる冒険