吉本隆明 糸井重里 「悪人正機」

  [新潮文庫2004年12月1日初版 単行本2001年6月初版]


 共著になっているけれど、糸井重里が、こういう点については吉本さんはどう考えますかと質問し、それに吉本が答えたものに、糸井が簡単なコメントをよせるという形式であるから、もっぱら吉本の独演会である。

 以下、吉本語録。
「死は自分に属さない。死は、介護していた人間がもう十分と判断した時なのである。」「頭と本と抽象的思考で学者にはなれる。しかし手を使わないと文芸はできない。」
「他人を助けるなんて、できることじゃない。」
「生きることは切ないが、切なさは大切。なくさないほうがいい。」
「大抵のひとには友達なんていない。それでいい。」
「考えることは自由。どんなことを考えてもいい。それをある方面のことは考えることさえ規制する日本は異常。」
「普通の人がぜいたくしたり、いい洋服きたり、うまいものを食ったりすることが大事。」
「働くってことは別にいいことではない。清貧の思想は間違い。」
「職場で大事なのは建物。いい環境の職場にいれば、かなりのことは耐えられる。みな大企業にいきたがるのは、建物のせいもある。」
「自分がひとの分までやってしまうようなひとはリーダーにはなれない。」
「いまのイラクに対するアメリカはおせっかいであるが、太平洋戦争の時のアメリカの日本への態度も同じおせっかいであった。」
「自分がストイックな方向にいくのはいいが、他人も一緒にストイックにならないと許せないというのは危険な態度。」
「田舎より都会がいいに決まっている。」
「今のフランスは凄い。白人と外国からの季節労働者と旧植民地からの人間が三分の一づつ。民族国家理念は崩壊する。」
「自分には小さな時からオカルトへの関心があった。」
「科学には深さがない。宗教には深さがある。」
人間についての本当に大事な部分、心とか魂とかは4世紀ごろまでにでてしまっている。」
「円満な家庭なんてない。円満そうに見えるのは、みんなしょうがないからウソをついているだけ。」
「これからの世界で、老人になってからの人間のありかたなんて誰にもわからない。」
「猿と違って人間は、子どもは間違ってできてしまったという部分が相当にある。子どもを育てることは本能ではない。」
「何でも毎日10年やっていればものになる。素質とか才能が問題になるのはそれから先。」
「武士の時代から、日本は母権社会から男社会に転換していく。」
「人間には根拠がない。」

 吉本の語録で一番同調できないのはオカルトあるいは宗教の部分、それとそれにかかわる魂とかの部分であろうかと思う。わたくしはオカルトなどへの嗜好がまったくない。それが故にであるかどうかはわからないが、宗教なしで生きたいという志向が強い。吉本のいう深さにも同調できない。間違いなくドストエフスキーには深さがある。しかし、ドストエフスキー信者の多くは単なる深刻趣味であると思う。少なくとも深刻趣味には陥ることなく生きたいと思う。
 わたくしが吉田健一から学んだ一番大きなものは宗教なしで生きるということであろうかと思う。人間以外の動物で、宗教を信じるものなどいないのだから。
 円満な家族はない!? 自分のまわりをみても少しはあるとは思うけれど。大抵の人間は、家族が円満でないことによって鍛えられるところがあるような気がする。
 親にとって子どもが可愛いとは限らないとすると、これからの育児というのは本当に大変な事業になっていくのだろうと思う。
 すでに親が大事とは限らない、あるいは親に子どもが自分のすべてを提供することはできないということはかなりの合意が得られるようになってきていて、公的な介護への抵抗は減っている。その次は公的な育児であろうか? 吉本はどういう根拠によるのか、1歳までは母親が育てたほうがいい、あとはほったらかしでもいいけれどといっている。ここらは多分に精神分析的な見方が入っているように思うが。
 田舎より都会のほうがいいよというのは(実は田舎をまったく知らないのだけれど)同感である。ここらへんは養老孟司の都市化、脳化論と対立する。吉本は人間が都市化していって、その結果滅びてもいいと思っているようにみえる。養老は滅びないほうがいいんじゃないか、という立場なのであろう。
 吉本も、養老などと同様に三木成夫に傾倒していて、身体の重要性という観点については一致しているように見える。文芸には手が必要などというのはまさに三木の影響であろう。養老は都市化=脳化であり、そこでは身体が失われるから、それを抑制することが必要であるとしているが、吉本は都市の中でも身体を使うことは可能であると思っているようである。
 養老の参勤交代論などはどうもいかがわしい。わたしとしては、都会でも身体を復権することは可能であるように思う。養老も実験室で飼われて、ねそべって餌を食べているだけのラットが逃げ出して野生化すると、たちまち生来のすばしっこさを回復することを述べている。
 都市化論と関係しているのだろうけれど、仕事なんか面白くない、遊びこそが人間だよという。要するに都市には遊びがたくさんある、と。
 でも、遊びで他人とかかわるというのは容易ではないと思う。仕事で他人とかかわるほうがずっと容易である。仕事というのは他人の必要に応えること(橋本治)で、自分の意味を他人が発見してくれるのだから、生きることが容易になる。
 遊びで生きることができるのは、よほど強い人であろう。そういうことができるひとを貴族というのであろう。どうもわたくしは(プチ?)ブルジョアである。
 それにしても、吉本は元左翼であったはずなのだけれど、徹底的な高度資本主義肯定者になっているみたいである。

(2006年4月19日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

悪人正機 (新潮文庫)

悪人正機 (新潮文庫)