鹿島茂「吉本隆明1968」 (6)結論
平凡社新書 2009年5月
「少し長めのあとがき」で鹿島氏はトッドの「帝国以後」とハインゾーンの「ユース・バルジ」論という人口動態学の本を紹介し、それに依拠して、「われわれ団塊の世代とは、「飢えや文盲の克服」がうまくいったあとに大量に誕生したユース・バルジの世代であり、「栄養も教育も十分に与えられている」がゆえに、サバイバルのための闘いを強いられ、その結果、「上昇志向」で「好戦的」な若者となって、一九六〇年代の後半に社会に登場した」といっている。わたくしは鹿島氏とほぼ同世代であるけれども、どうもこの辺りの一般化には納得できないものがある。自分のことを最近流行?の「草食系」のはしりではないかと思っているところがあって、「好戦的」とか「上昇志向」というようなものが自分のなかにあるようには思えない。「わたしのようなものでもどうにかして生きたい」(藤村?)とか「生まれてすみません」(太宰治?)というような感じであって、実際の場面になったらどうなるかはわからないとしても、船が難破して救命ボートの数が限られているような局面に直面したら「お先にどうぞ」といいそうな気がする。そういうのは単なる見栄かもしれないが、なんだか生命力のようなものが不足しているとしか思えない。「唐様で書く三代目」というのが自己規定である。だから「出身階級的吉本論」には肯んじられないところがある。
むしろわたくしにとっての吉本氏の魅力というのは、その生命力というかヴァイタリティというか、生きることは後ろめたいことではないのだという氏の確信にあるように思う。それが鹿島氏の場合には、出身階層からの離脱の後ろめたさを取り除いてくれるものとして働いたわけである。
生きることが後ろめたいなどというのは本来とても奇妙なことであり、われわれが生き物であるという基底にさえ反するけれども、ひとが知識人化(つまりは西洋化)するとしばしば生じてくる現象である。それは後ろめたさというのがキリスト教と表裏一体のものだからである。知識人化というのは日本においてほとんど西欧化であるから、知識人は後ろめたいひとになる。しかし後ろめたいという感覚は生を翳らせる。知識人でありながら、後ろめたさなしに生きるにはどうしたらいいか? それが吉本氏の追求した課題であったのだと思う。「大衆の原像」というのは、後ろめたくない生き方の提示なのだと思う。ひとが知識人化するとともすれば忘れがちとなるそういう生き方をつねに念頭においておくこと、そうしないと思想は「生命力」を失って枯れたものとなってしまうこと、それが吉本氏が一貫して追及してきたものなのではないだろうか?
全共闘運動の時代、大学生の敵は二つあったと鹿島氏はいう。一つは親、もう一つは教師。親は自分を知識人以前の世界に閉じ込めようとするものであり、教師は専門分野に閉じこもっていて大きな開けた知への欲求をもたないように見えた。吉本隆明にピンと来ないひともいた。ヴァレリーやサルトルなどの抽象理論にまったく抵抗のない日本人意識のないひとと政治的人間である。
それではそういうひと以外は、吉本のどういう点に共感したのか? それは吉本氏が「お為めごかしや偽善的なことは絶対に言わない」ひとであり、「ヨシモト、ウソつかない」という絶大な信頼感なのであった、と鹿島氏はいう。それは西郷隆盛的な「金も名誉もいらぬ」という「清貧」的な方向ではなく、「他人を批判するほどあなたは立派なひとですか」というフランス・モラリスト的な正直さであったのだと。
しかし、吉本氏が近いのはフランス・モラリストといった方面ではなく小林秀雄のほうではないかと思う。それはたとえば、例の「おれは馬鹿だから反省などしない、悧巧なやつはたんと反省するがよかろう」という啖呵である。この「馬鹿」が大衆であり、「悧巧なやつ」が「知識人」である。小林秀雄がいうのは、俺は戦争中も自分の言葉で語ったし今でも自分の言葉でしゃべっている、それなのにお前たちは戦争中も今の他人の言葉、借り物の言葉でしか話せないではないか、ということである。
「ヨシモト、ウソつかない」というのは吉本氏が間違ったことをいわないということではない。吉本氏もまたたくさん間違ったことをいった。今でもいっているであろう。そもそもあるひとがいうことがすべて正しいなどというのは「神格化」であり、自分で考えることの抛棄である。吉本氏にかんしては鹿島氏は多分に「神格化」したい衝動をもっているようで、ところどころ「この時代には、吉本隆明でさえレーニン的な左翼概念にある程度縛られていましたので」といった弁明が挿入される。ある程度ではないだろうと思う。戦争中は戦闘的軍国青年、60年安保のときには戦闘的左翼である。それなら今の氏は何かのか、というのが正直よくわからない。戦闘的左翼からいつのまにか現代消費社会の肯定者へと軸足を移していったようにわたくしなどにはみえる。
そしてここでの軸足の移動を支えたのも「大衆の原像」なのではないかと思う。どう考えても大衆の生活をいささかでも以前よりは向上させたのはマルクス主義にもとづくと称する計画経済体制ではなく、各人の欲望に支えられた市場経済体制だったのだから。それに対して左翼はどのようにいったかといえば、なるほど生活はいささか向上したかもしれないが、物質は決してひとを幸せにはしない。現代に生きるひとのこころのなかを覗いてみれば、空虚しかみえないではないか、というようなことなのである。そして現在の左翼は「ワーキング・プア」などといってひとびとの生活がふたたび厳しくなってくる兆候が見えてくると、もううれしくて仕方がないようなのである。ひとびとの生活が苦しくなることを喜ぶ左翼などというのがあるだろうか? まさに鹿島氏のいうとおり、「ワーキング・プアこそは左翼の「最後の隠れ蓑」」なのだと思う。なぜそうなるのかといえば、左翼を自称するひとたちがもともとひとびとの生活などということには何の関心もなく、関心があるとすれば自分がどういう人間であるかということだけだからである。自分が正しい側にいると思えるということが大事であって、それを保証するものとしてただの抽象的な言葉である「プロレタリアート」や「人民」や「大衆」や「庶民」が利用される。そんなものはどこにも存在しない。ただ知識人の頭のなかにあるだけである。だからこそ「大衆の原像」が破壊力をもった。
「自分の得にならないことはしたくないだって? 当たり前だよ、その欲望を肯定するところに民主主義が生まれ、否定するところにスターリニズムやファシズムが生まれるのさ」というのがきわめて乱暴な吉本思想のまとめなのだ、と鹿島氏はいう。この前半はアダムスミス経由の市場経済体制万歳派がいいそうな台詞ではないだろうか? リーマン・ショック以来の世界経済の大混乱をみて、「ほら、だから欲望を全面肯定すると碌なことにはならないのだ」と嬉しそうにいうひとが増えてきている。共同体だとか、日本古来の生活の美質とかに将来の希望があるのだそうである。
トッドによれば、15歳以上の男子の識字率が上昇すると社会が不安定になり、混乱が生じるが、それに遅れて女子の識字率が上昇すると出産調整が進み人口は減少し、社会は安定へとむかう。なぜ15歳以上の男子の識字率が上昇すると社会が不安定になるのかといえば、教育の普及が「個人」をうみ、《俺が俺が!》がはじまるからである。一方、女子の識字率が上昇すると出産調整が進み人口は減少するのは、女性においても《自分のことは自分できめる》という方向がすすみ、産むか産まないかもまた男がきめるのではなく女が決めるようになるからである。教育の普及は否応なしに近代化を進める。それは個人主義化であり伝統的な家族の破壊であり、都市化である。そして近代化のなかに資本主義化もふくめるならば、資本主義を否定することは教育の普及という世界の動かしがたい潮流にさからう無謀で勝算のない試みということになる。
鹿島氏は吉本氏の「寛容思想」ということをいう。それは「下層中産階級の出自を持つ人間が知的上昇を遂げて階級を離脱するときに訪れる根源的な「悲しみ」を真面目に見据え」ることから見いだされたのだという。どうもこういう感傷的な議論にはついてけない。1968年当時においても、「下層中産階級の出自を持つ人間が知的上昇を遂げても階級を離脱しない」ような行き方をするひとも少数ではあるかもしれないがいたのである。たとえば橋本治氏である。ひょっとすると氏は知的上昇を遂げなかったのかもしれないが、ちゃんばら映画を論じ歌謡曲を論じて自前の思想をきづいてきた。氏は1968年当時、全共闘運動の言葉をまったく自分とはかかわりのないものとしか思えなかった数少ない知識人の一人である。小林秀雄なら「賢しら」という言葉でいうようななにか本物でないもの、身についていないもの、生活とかかわりのないものをそこに感じて拒否した。
糸井重里氏が主宰する「ほぼ日刊イトイ新聞」に、吉本氏との対談がある。http://www.1101.com/truth/2009-04-20.html こんなことを言っている。「糸井さんがもし、金儲けとか、商売とか、事業とか、そういうことをもっぱらにしていこうと積極的に思い出して、そういうふうな手段をとり出せばたぶん、そうとうな大実業家になるんじゃないでしょうか。だけど、そう思ってないところがあるんですよ。やっぱり、文化があり、芸術があり、知識教養があり、ということを、糸井さんは捨てきれないところがあると思います。(中略)こればかりは、ぼくらも同じようなもんだけど、ほんとは金が欲しくてしょうがないだけっていうくせに、ちっとも(笑)。 金が欲しいなら、やりようがあるっていうのに、おまえはちっともそのやりようをやってないじゃないか、とみんなに言われると思いますけど、これはね、やっぱり、長年のこれ、どうしようもない(笑)。つまり、ほんとうに欲しいと思ってないんですよ。底の底まで欲しいと思ってたらできることはあるんです。」 こういうのを「階級離脱の悲しみ」というのだろうか? 違うような気がする。俺は金儲けをしたいというひとがいれば、どうぞという。それを否定はしない。しかし、そうでない生き方もまたあるということである。もちろん、生きていくためには金が必要である。それについては全面的に肯定する。そういうことを否定してかかる知識人には断固反対する。しかし、金というのはあればあるほどいいもので、それに対する欲望には限界がなく、無限に追求するのが人間の本来のありかたでるというような見方にもまた反対する。アメリカの企業トップというようなひとたちは特殊なひとたちで、誰でもがそうというわけではない。あんなに金があっても使い道がない。
「大衆の原像」というのは「魂が最終的に戻ってゆくユートピアであると同時に、その特有な「封建的優性」によって、せっかく獲得したと思い込んだ西洋的な思想・倫理を一瞬にして骨抜きにしてしまう腐食性の悪夢でもあります」と鹿島氏はいう。しかし、それを「いたずらに抑圧したり、あるいはないものと決め込んだりしては、芸術も文学も社会運動も始まりはしない」ので、これを「否定的な媒介として止揚する以外にはないのです」というのが鹿島氏の結論である。
「否定的な媒介として止揚」なんておよそ生活の匂いのない言葉である。なんだかはるか昔の「立て看」(といっても若いひとにはわからないだろうが)にでもでてきそうな言葉である。わたくしは自分には「魂が最終的に戻ってゆくユートピア」なんてどこにもないなと思う。そんなものはどこのもないのだし、無いものを求めていると、それこそ「封建的優性」に絡め取られてしまうと思う。
もしも「封建的優性」によって、せっかく獲得したと思い込んだ西洋的な思想・倫理が骨抜きにされてしまうのだとしたら、その西洋的な思想や倫理は付け焼き刃であって本当に身についたものではなかったということである。西洋の芸術とか文学というのは(あるいは芸術も文学も一般に)西洋(そして東洋)の思想や倫理を産みだした基底とはどのようなものであったかをわれわれに教えてくれるものである。文学とか芸術とかは吉本氏のいう「大衆の原像」と直結するものであり、ほとんど大衆の原像そのものだと思う。だから「否定的な媒介として止揚」するなどと力む必要はないので、日々の生活のいとなみの上に腐食しないものを作り上げていけばいいだけのことではないかと思う。
前に何回か書いたことだけれども、わたくしは「自立の思想的拠点」を読まないでいたら別の人間になっていたのではないかと思う。それは「状況とはなにか(4)」にあった次のような文章を読んだためであった。「試みに、かしこい唯物論の立場から、福田恆存、江藤淳、武井昭夫の批評の仕事を学びうる有効性という観点に限定して掲げてみよう」として、福田恆存では「芸術とはなにか」「人間この劇的なるもの」「批評家の手帖」「私の国語教室」を、江藤淳では「日附のある文章」以外の全著作、武井昭夫では、吉本との共著「文学者の戦争責任」のみをあげていた。これもご愛敬といえばご愛敬なのだが、「日附のある文章」は60年安保闘争を批判したものであるし、「文学者の戦争責任」は吉本氏が共著者なのだから全否定はできない。それで、紀元節復活運動というその当時のわたくしには馬鹿としか言いようのないと思えた運動をしているひととしてのみ知っていた福田氏をなぜ吉本氏という左翼が評価しているのだろうということを不思議に思って「芸術とはなにか」や「人間この劇的なるもの」を読んでみることになった。徹底的に打ちのめされた。それからの2〜3年はひたすら福田氏の影響下にすごすことになった。今から思うと福田氏の進歩的文化人批判と吉本氏のスターリニスト批判はほとんど同じことを違った方面から別々にしていただけだと思う。ともに進歩的文化人やスターリニストの偽善性を切れ味するどく槍玉にあげていた。ふたりがともにいっていたのは「お前たちには自分というものがないじゃないか」ということである。
「人間はいつでも、とことんまで、自己の利害を基にして行動してきたし、今後もさうするであらう。これは永遠の真理である。そして誠実なリアリストだけが真理を発見する。かれは、いやでもおうでもこの真理を発見する。とたんに、誠実とはなにかといふ問ひにぶつかる。これはあらゆる人間が一生に一度は逢着する分岐点だ。シェストフはそこで立ちどまり自分の両脚が腐つてくるまでこの場所を動かうとしなかつた。が、だれでもが自分の脚が腐つてくるのを黙して待つわけにはいかない。(中略)現代では、ひとびとはたがひに相手の誠実を求めない。ひとびとの求めてゐるのは誠実の証拠だけだ。敵の行動が利害関係に基づいてゐることを指摘しあふために暴露戦術が用ゐられると同時に、自分の誠実と正義を証明するために宣伝が盛んにおこなはれる。(中略)誠実とはいつたいなんだ − けつきよく、相手を否定するモメントにすぎないぢやないか。なほしまつのわるいことに、それは自己を抑圧する凶器になつてしまつたではないか。(中略)ロレンスはいふ − もしもきみがだれかを愛するならば、手をひけ、と。孤独になり、山に入り、他人に向かつて福音を説くな、自己にも掟を課するな、さうすれば、きみはきみの涅槃を得るであらう、と。(中略)われわれにとつて必要なのは不幸に対する羞恥心である。原因を探すやうでは、それが見つかつたら、大手をふつて不幸を自慢にするつもりなんだらう。」(「ロレンス」) 「ロマンティックなもの、メタフィジカルなもの、センティメンタルなものを、なぜチェーホフは憎んだか。理由はかんたんだ。これら三つのものに共通する根本的な性格 − それは他人の存在を忘れることであり、他人の注意を自分にひきつけることであり、他人の生活を自己の基準によつて秩序づけることである。チェーホフはそのことにほとんど生理的な嫌悪感をいだいてゐた。」(「チェーホフ」)
これらの福田氏の言葉は吉本氏によって書かれてもよかったもののようにも思える。このころの進歩的文化人というのは、自分が他人のために行動していることを疑わなかった。それが自分が偉いひとであると思う自己満足のためではないかというような疑いは微塵ももたなかった。ようするに自分というものをあまり考えたことがなかった。だから吉本氏や福田氏の言葉が破壊力を持った。
わたくしが吉本氏の本を読んだのも、そのころの学生運動あるいは全共闘運動の影響である。そういうものがなければ読まなかっただろうと思う。そういう点で自分もまた1968年の子であると思う。ただわたくしは階級離脱というような意識をもったことがないので、この鹿島氏の「私評論」の一部にはよく理解できないところが残った。自分を良家の子弟であるとは思わないけれども、世間知らずであることは絶対に確かである。だから「大衆の原像」などと脅迫されるとわたくしもまたびびるのだけれども、「文化があり、芸術があり、知識教養があり、ということを捨てきれない」人間であることはいまさら変えようのないことであるし、「やっぱり、長年のこれ、どうしようもない」のだから、「他人に号令を下し、歴史の進行をつかさどる主役や天才ではなく」、「社会では端役を演じてゐる」「自由人」」(「チェーホフ」)ということで生きていくのかなと思っている。
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