池澤夏樹他「堀田善衛を読む」

     集英社新書 2018年
 
 このような本が刊行されたのは今年が堀田氏生誕100年(没後20年)にあたるということのためらしい。わたくしは堀田氏の本は「ゴヤ」しか読んでいない。手許の本の奥付は1977年刊の10刷となっている。30歳の年であるが、何でこれを読もうと思ったのかはおぼえていない。読後、何となくスペインという国について少しわかったような気がしたことだけ覚えている。
 本書に鹿島茂氏の「「中心なき収斂」の作家、堀田善衛」という論があり、そこで鹿島氏が solidarité 連帯 ということを書いている。その辺りを少し引用してみる。
 「フランス語に‟solidarité”(ソリダリテ)、連帯という言葉があります。これはフランスを理解するためのキーワードです。この‟solidarité”を求めるということは日本にはない。これが日本という国の一つの特徴です。フランス文学はどんなに身勝手な文学のように見えても ‟solidarité”つまり社会というものを通して他の見ず知らずの人と、ある種の連帯を求めていくという要素があります。
 ところが、日本の私小説は、個人主義的というところは似ていますが、社会の部分が決定的に欠けている。だから、日本の私小説はかなり特異な文学になるわけです。
 この社会とは何かと言ったら、自分ではない他者です。他者の中に自分を見出し、自分の中に他者を見出す。そいう視点が日本の私小説には決定的に欠けている。」
 ここの部分を読んで、この solidarité は自分にも決定的に欠けているものであることを感じた。以下、それについて少し書いてみる。
 このsolidaritéは、コミュニタリアニズム共同体主義)とはまったく異なるものなのだろうと思う。リバタリアンがある局面においてはリバタリアン同士が結びつくというような方向なのではないかと思う。
 「池澤夏樹、文学全集を編む」という本の、石牟礼道子との対談で池澤氏が自分について、「皆で一緒に何かやるというのが本当にだめなんですよ」といっている。「チームを作るのがだめなんですね」、と。池澤氏というのは今一つよくわからないところがある人で、眼高手低というか、いささか理論倒れの傾向があるし、自分(あるいは自分の理論)へのこだわりがちょっと強すぎる感のあるひとで、それにわたくしの偏見であるがいかにもインテリ風で、髭なども生やしているし、あまりそばにいてほしくないタイプのひとであると感じるのだけれど、ここでいっていることは実によくわかる。君子の交わりは「淡きこと水の如し」をよしとするはずで、自分を君子であるというつもりはさらさらないが、べたべたとひっついている奴に碌なのはいないとは感じる。
 池田清彦氏に「他人と深く関わらずに生きるには」という本がある。タイトルを知っているだけで、どんなことが書いてあるのかは知らないが、でもそうだなあと思う。この反対が余計なお世話である。池田氏リバタリアンを自称しているひとであったと記憶している。吉田健一は、友人の苦境に対してできることは見て見ぬふりをすることだけといっていた。
 大岡昇平の「鉢の木会」という文章に、「「鉢の木会」の連中(神西清中村光夫福田恆存吉田健一三島由紀夫、吉川逸治、大岡昇平)はみんな孤独である。徒党を組むなんて、殊勝な志を持ったものは一人もいない」とあった。わたくしには、人が一緒になにかをするということが、すぐに徒党を組むという方向に思えてしまう。
 しかし、そういう方向に話が向かうということは、わたくしが日本人であって、日本での中間団体というと、鹿島氏にいわせれば家の延長であり、ムラ社会を引きづっていて、機能集団とは決してならないということがある。
 日本の中間団体は共同体化する、あるいは共同体化しない限りうまく機能しないということを何とか克服しようとして堀田氏が志向しようとしたのが、フランスで solidarité といわれるような何かであったというのが鹿島氏のいわんとすることなのだろうと思う。
 堀田氏もとりあげたいわゆるフランス・モラリストの系譜のモンテーニュなどがその例として取り上げられている。しかし、たとえば渡辺一夫さんのようなひとが日本で何らか一定の影響力を持ったかといえば、そういうことはなかったように思う。モンテーニュは決して潔癖主義的なひとではなかったということも鹿島氏は指摘し、禁欲主義的方向の危険性ということもいうのだが(これはおそらく吉本隆明経由)、どうも日本では(あるいは世界のどこででも?)清貧の思想にはフランス・モラリスト路線はまず勝ち目がないのではないかと思う。
 禁欲主義といえば本家本元はもちろんピュウリタニズムであって、わたくしなどには、最近の#me too運動にも微かにピュウリタニズムの匂いを感じる。(現在のピューリタニズムの象徴が禁煙運動であって、この運動が一定の成果を上げた後は矛先は今度は飲酒に向かうはずである。) それでカトリーヌ・ドヌーブさんのいうことにも一理あると思ってしまう。もっともドヌーブさんのいっているのは恋愛方面の話であるのに対し、#me too運動はもっと即物的な方面の話なのであろう。
 ごく最近では、何とかという写真家がセクハラ云々で問題になっている。わたくしなどはまったく知らない名前だったが、一部の方面では著名な人であったらしい。一部の方面というのはいわゆる進歩陣営といわれる方面で、わたくしが若い頃、進歩的文化人と呼ばれる人たちがいて随分と偉そうな顔をしていたものだが、その人たちがシュンとしてしまったのが、いわゆる全共闘運動の成果の一つだったのでないかと思う。要するに進歩的文化人というのは偉そうな顔をしたいひと、人の上にたって下のものを指導する立場にあることに快感を感じるひとがその大勢を占めていて、その時々で偉そうな顔をできる問題を探し当ててそこに参加してくるわけであるが、もとより一兵卒として働くつもりはさらさらない。大学教授などというのにはそういう人がたくさんいて、その学説は民主的、教室では暴君などというひとが掃いて捨てるほどいた。
 鹿島氏がいう ‟solidarité” はこれとはまったく異なるものであるが、日本にはこれは根付かないような気がする。なにしろ日本では上下関係がわからないと対人関係がはじまらない。それゆえの名刺交換である。
 日本での人間関係はとにかく疲れるので、鍵のかかる部屋にこもってひとりで考えるということが、個人の基本的なありかたになってしまう。それではまずいぜというのが、鹿島氏のいわんとするところであると思うが、そうはいわれてもである。
 最近のフランスでの黄色い服を着たひとたちの運動も ‟solidarité” のあらわれなのであろうか?