鹿島茂「吉本隆明1968」 (5)大衆の原像

     平凡社新書 2009年5月
 
 1960年代における吉本隆明の最大の魅力であり、吉本氏が多くの信者を獲得した理由となったのは、論戦において論敵をばったばったとなぎ倒していくその舌鋒の鋭さ、その啖呵の小気味よさにあったのだと思う。そのときに使われた一番の武器が「大衆の原像」という言葉であった。たとえばこんな風にである。
 「丸山真男がとっている思考法のなかに刻印されているのは、どんな前進的な姿勢でもなく、じつは、知識人の思想課題であり、また戦争があたえた最大の課題である「大衆の原像をたえず自己思想のなかに繰り込む」という課題を放棄して、知的にあるいは知的政治集団として閉じられてしまうという戦前期の様式に復古しつつある姿勢なのだ。」(状況とはなに何か 2 「自立の思想的拠点」) お前たちは、知識人同士でぐだぐだと議論をしているだけで、人民とは(あるいはわれわれの生活とは)何のかかわりもないものだ!、という論法である。こういわれて、みなたじろいだわけである。
 その「大衆の原像」を本書によってみていくことにする。吉本氏の批判は、知識人が「大衆」というときに、そうであってほしいと思う像をいっているのであって「あるがままに現に存在する大衆」をいっているのではないという点にある。あるがままの大衆は「自分と家族が今日を生きることができ、明日もまた同じように暮らせることだけを望む存在であり、それ以外のこと(政治や経済の状況など)には徹底的に無関心」であるのだ、と。一方、知識人は「政治・社会的状況にかかわることが、自分たちの存在にとって不可欠であるという前提にたち、生活圏からその外にでて、自分とは、人生とは、国家とは、革命とは、世界とは、という普遍的な次元に入り込んでいく存在」である、とされる。ここで注目すべきであるのは、知識人と大衆というものがはっきりと別のものであるということが前提にされているということである。そのころはまだ知識人というものが偉くて、まだかすかに後光がさしていたのである。現在、そんな前提をうけいれるひとはほとんどいないであろう。知識人対大衆の二元論のような、そのころには当然であるとされていた思考法を徹底的に破壊することにおいて、吉本氏は非常に大きな役割りを果たしたと思う。
 ここで鹿島氏が強調するのは、吉本氏が知識人になるということはいいことでも悪いことでもない、ただの必然であり自然なこととしているという点である。鹿島氏がそれを重要視するのは、それがそのころ鹿島青年が抱いていた「知識人になるということへの罪悪感」を払拭してくれるものであったということにある。「いかなる大衆であれ、条件が整えば、知的過程に入り込み、世界性や普遍性へと上昇していく」ことは自然な過程であり、善悪ではないという吉本氏の見方が鹿島氏を解放したというのである。
 現在ではほとんど誰も理解できなかもしれない「プチブル・インテリの罪悪感」を寒村の貧乏酒屋の息子である氏は感じていて、両親という大衆が働いて稼いだ金で大衆からの離脱を図っているという罪の意識を感じていたというのである。
 そしてそのころの学生運動は、そういう罪の意識を利用していたともいう。プチブル・インテリはプロレタリアートを啓蒙・啓発し、プロレタリアートによる社会建設のために奉仕することでのみその罪を免れられるとした。そういう罪の意識を払拭してくれたものとして、吉本氏がいたのだと。
 わたくしのことを考えると、周囲には確かに「東大生であることがすでにそれだけで人民に対して抑圧的なのである。それを自己否定し人民に側に立たねばならない!」などというアジ演説をしているひとはいた。しかしそれをきいても罪の意識を感じるというようなことはまったくなかった。むしろそういうことを考えていたのは中学から高校にかけてであり、今から思うと信じられない恥ずかしいことだが、もう誰も読まないであろうトルストイの「人生論」などいうのを読んで、漠然とそんなことを考えていたのである。学問をしたいわけでもないのに大学にいこうとしているのは、ただ「偉く」なりたいだけではないかというような考えである。進学先に医学部を選んだあまり大きくない理由の一つにそういうことがあった。医者になろうとするならばとにかく大学にいかなくてはいけないから。そういう考えも高校生になって小林秀雄などを読むうちにどこかに消えてしまった。そして大学にはいって「自己否定」のアジ演説に何も感じなかったのも、小林秀雄的な何かが免疫を作ってしまっていたのだろうと思う。
 吉本氏によれば、大衆の存在様式はいいのでもなく悪いのでもなく自然である。だから、それを賛美することもまた間違いである。知的上昇が偉いのでもなく、大衆であることが偉いのでもない。
 大衆を理解するために必要なことは? 言葉を表現された言葉そのものとして額面通りに受け取らないことである。逆立や屈折や捩れをもそこに見ることによってである。言葉は現実ではない、ということを理解することによってである、と吉本氏はした、と。
 これはほとんど文学的に理解するということ、言葉を符丁としてではなく、意味も感情もふくめたまるごとのものとしてうけとるということである。あるひとがどう言っているかではなく、なぜそういっているかまでもあわせて受け止めるということである。
 そうであるなら吉本氏が当時もった破壊力というのは、社会科学の言葉だけが流通していた世界に、文学の言葉で武装して殴り込んだということにあるのではないだろうか? あるいは他人の言語だけがいきかっていた世界に、自分の言葉によって参入した。単なる記号として言葉を用いるのではなく、さまざまな生活感情をもふくんだ言葉として、つまり言葉をまるごとそのまま用いること、それは文学に行き方そのものである。ただ一見そうはみえなかったのは、氏の書くものにマルクスだとかレーニンだとかプロレタリアートだとか革命だとかといった双方に共通する記号もふんだんにふくまれいたからである。その記号の一つであった「大衆」という語に吉本氏はいままでになかった陰翳をふんだんに導入した。それによりそれは抜群の切れ味をしめす言葉となった。
 吉本氏をそのような思考に導いたのは天皇制に象徴される土俗的な言語のもつ力をどう把握するかという視点であった、と鹿島氏はいう。「べったりとした機能的な言語思想」の否定である。天皇制には本当の伝統はないにしても大和言葉には歴史のうらうちがある。その言葉の裏には生活がある。明治以降に作られた人造語のみによってかたられるマルクス主義の思想は、「夕焼小焼の/あかとんぼ/負われて見たのは/いつの日か」とか「兎追いしかの山/小鮒釣りしかの川/夢は今もめぐりて/忘れがたき故郷」というような言葉に負けたのである。この「あかとんぼ」も「山」も「川」も、現実にあるものではなく、歴史の記憶のなかにある。戦前の転向にみられるように、天皇制の側は記号ではないもっと多くの陰翳をもつ言葉を自分の側に取り込むことによって、記号としての言葉しかもてなかった左翼運動を圧倒することができたのである。
 だから知識人になることの問題は、自分の語彙が、歴史の中に対応物をもつ言葉からただ抽象的な指示機能しかもたない言葉へといやおうなしに変わっていくということにあるのであり、鹿島氏が問題にするような、それが善であるとか悪であるとか、あるいは自然なことであって善でも悪でもない、といういうようなところにはないのだと思う。知識人がしなければいけないことは、「べったりとした機能的な言語思想」を他人のためのものではない自分にとっての固有の色彩をもつものに一つ一つ時間をかけて変換していくことなのだと思う。それが自立ということなのではないかと思う。
 吉本氏は「この普遍ロマンチシズムの虚偽に気づく過程を、かりに「自立」といよぶ」といっている。普遍ロマンチシズムという言葉がわたくしには何をさすのかがよくわからない。普遍をロマンチックに憧憬するというようなことなのだろうか? ナショナル=ロマンチシズムと対になって用いられている。土俗的な言語のもつロマンティシズムはわかっても、普遍言語や抽象的な言語のもつロマンティシズムというのはぴんとこない。「民主主義」や「プロレタリアート」といった言葉にロマンティックな情熱を感じるということなのだろうか? どうもよくわからない。
 本書は鹿島氏が語るに落ちたと自分でいっているような「出身階級的吉本論」なのだが、それにこだわるあまり、団塊の世代にとって吉本隆明という思想家がどのように意味をもってあらわれたかは充分には展開されないままいつの間にか本は400ページに達してしまい、「少し長めのあとがき」のほうにそれはゆだねられることになる。ということでそれは稿をあらためて別に論じる。
 

新書459吉本隆明1968 (平凡社新書)

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