山の手育ち(1)

 わたくしは杉並区荻窪で生まれ、結婚して数年音羽に住んだ後、また荻窪の家に戻り、数年前に杉並区成田に転居したので、ほとんどを山の手で暮らしてきたことになる。
 では自分が住んできたところに愛着があるかというと、そもそも無味無臭の場所で生きてきたという感じで、例えば荻窪はおそらくわたくしが住むようになる少し前までは田圃であっただろう場所だから歴史というものを持っていない。(当時、井の頭線沿線は一面の田圃で、小学生にとっては、ざりがに採りの場であった)
 同じ東京でも下町は江戸からの歴史をそれなりに引きづっているわけだから、そこに住むひとは、住んでいる土地への愛着があるだろうが、山の手に住む人間にはどうもそのようなものは希薄であるか、あるいはほとんどない。
 なぜこんなことを書いているのかというと、今、もう何度目になるか、鹿島茂さんの「吉本隆明1968」を読み返しているからである。
 ここで鹿島さんが言っているのは、1968年のあの騒動をおこしたのは、親が店屋などの商売をしている人間(鹿島氏の親は酒屋さん)のその子供が、その一族として初めて大学に入ったというような人間がおこしたものであるということである。
 わたくしの父は医者であるが、その親は群馬県四万温泉にある味噌問屋の跡継ぎだったのだが、東京に出てきて仕事もせずに財産を蕩尽してしまったというなかなか立派なひとで、父もそれなりに苦労はしたようである。
 しかし父は医者だから当然大学は出ているわけで、わたくしは鹿島氏のいう「一族のなかでのはじめての大学出」というわけではない。父は戦地に「奥の細道」を持っていたという大正文化の尻尾を引きづっていたひとで、まあ「蒼白きインテリ」である。(母の父は厚生官僚であったので、これまたインテリ)
 わたくしは麻布中高に通ったが、その生徒たちの親もほとんどすべてが大学出であったのではないだろうか?と思う。
 そういう家庭の子弟からは、1968年の闘争に参加する人間は出ないということに鹿島理論からはなるが、もちろんそういうことはない。しかし、徒党を組むというようなことは山の手の二代目は、とても苦手としているのではないだろうかと思う。
自分の人生を振り返ると山の手生まれの二代目ということがかなり大きな影響を与えたと思うのでしばらくその周辺のことを書いていきたい。