村上春樹「1Q84」(1)あらすじ

   新潮社 2009年5月

 いま非常な評判になっているから、いまさら紹介するまでもないだろうが、村上春樹の「海辺のカフカ」以来の長編小説である。非常にいろいろなことを考えさせられる作品となっている。読者によりこの小説からうけとるものは様々であろう。多くの読者にさまざまなことを考えさせることに成功したら、村上春樹がこの小書いたことの目的のなかばは達せられたのではないかと思う。
 とても複雑ななりたちの小説なので、まずあらすじを書いてみようと思う。今まで、小説のあらすじをまとめることをしたことはないから、うまくいくかどうかはわからない。当然、作者がはった伏線なども書いてしまうことになる。ミステリ仕立てのところもある本書の筋をばらしてしまうことは、これから読んでみようというかたにとっては読書の楽しみの何割かを減じてしまうかもしれない。未読の方は、スキップしていただいたほうがいいかもしれない。
 
 舞台は1984年の東京。スポーツジムの女性インストラクターである青豆(姓である。名前は最後まで明かされない)はタクシーにのって高速道路を走っていている。なぜかそこで流れている音楽がヤナ−チェックのものであることがわかる。車は渋滞に巻き込まれる。運転手に急ぐなら緊急停車場所から避難階段を降りる手があるといわれ、それを伝って降りる。出会った警察官の制服が今までと変わっている。
 予備校の数学教師をしている天吾は、小説も書いていて新人賞に応募している。そこでしりあった編集者である小松から才能をみこまれ、新人賞応募作の下読みをしている。ふかえり(深田絵里子)という17歳の少女が書いた「空気さなぎ」という小説を面白いと思う。ただ物語は面白いが文章はとても稚拙である。小松はその書き直しをしないかと天吾にもちかける。天吾はふかえりと会った。なんだか奇妙は話し方をする少女である。
 青豆は実はDV被害者の夫を殺すことをひきうける殺しのプロでもある。避難階段をおりた青豆はその仕事をする。仕事をしたあとでは男がほしくなる。そのためにいったバーで、警察官の制服が変ったのは二年前であること、米ソが協同して月面基地を作っていることなどを知る。
 天吾は改作をはじめる。「空気さなぎ」の主人公は10歳の少女で、山の奥にある特殊なコミューンで盲目の山羊の世話をしている。山羊が死ぬ。その山羊はリトル・ピープルという異世界の小人が現れるための通路となっていた。でてきたリトル・ピープルたちは空気から繊維のようなものをとりだして「空気さなぎ」を作った。「空気さなぎ」ができると月は二つになった。
 青豆は殺しの依頼人である「柳屋敷」に住む老婦人をたずねる。そこで1981年に本栖湖でおきた過激派と警官隊との銃撃事件を知る。何でそんな大きな事件を知らなかったのだろうといぶかしく思う。不思議に思った青豆は図書館で過去の新聞などを調べ、自分が一種のパラレルワールドにいるのではないかと思うようになり、自分のいる世界を「1Q84」となづける。
 天吾の父は満州から無一文で引きあげてきて、NHKの集金人をして男手ひとつで天吾を育ててきた。今はアルツハイマー病のため施設にいる。天吾の母は天吾が小さい時に死んだことになっているが、天吾は母が別の男と逃げたのではないかと思っていて、自分はその男の子供なのではないかと疑っている。一歳半のころ母が別の男に抱かれているのを見たようなおぼろげな記憶があるからである。
 天吾はふかえりを一種の読字障害(ディクレクシア)ではないかと思う。ふかえりはセンセイとよぶ男に育てられたという。「空気さなぎ」は、ふかえりが語った物語りをセンセイの娘であるアザミが書き取ってできた小説らしい。天吾は青梅の奥に住んでいるセンセイに会いにいく。センセイは戎野という名のもと文化人類学者で、ふかえりの父である深田保とは親友だった。毛沢東思想の信奉者であった深田は、大学ストライキで退職したあと「タカシマ塾」という農業コミューンに参加するが、2年後にそこを離れ「さきがけ」という組織をつくる。その組織はやがて武闘派と穏健派にわかれる。武闘派は「あけぼの」という組織をつくる。ふかえりは深田の娘だが、その「さきがけ」から一人で逃げ出してきて、センセイに育てられてきた。そのころから深田とは連絡がとれなくなる。「さきがけ」は急速に変貌し、宗教団体となっていった。青梅からの帰りの電車の中でみた少女から、天吾は小学校のときに少しの間一緒だった少女青豆を想い出す。その少女の両親は「証人会」という宗教団体の信者だった。
 青豆には大塚環という友人がいた。それが夫のDVに耐えかねて自殺した。青豆はその夫を処刑する。それが縁で自分の娘をDVで失った「柳屋敷」の老婦人としりあう。老婦人はDVの被害者をかくまう「セーフハウス」を運営している。老婦人に自分は小学校のときに天吾という少年を好きだったことを告白する。シンングルズ・バーで男をさがしていた青豆はあゆみという婦人警官としりあう。その夜、青豆は月が二つあることにきづく。
 「空気さなぎ」の改稿をしたことで、天吾は自分が変ったと感じる。意欲がでてきた。「空気さなぎ」は新人賞をとる。それはあくまで、ふかえりの作であるとされる。ふかえりの記者会見の予行演習を天吾はする。
 老婦人は「さきがけ」から逃げてきたつばさという少女をかくまう。そしてつばさをレイプした「さきがけ」の教祖を処刑することを青豆に依頼する。青豆はあゆみに「さきがけ」の調査を依頼する。あゆみもまた小さいころ父や兄から性的な虐待をうけた過去をもっていた。
 ふかえりは記者会見で自分の好きな文学として平家物語の「壇ノ浦合戦」を滔々と暗唱する。「空気さなぎ」はベストセラーになる。戎野センセイは深田の動静をさぐるためにふかえりが行方不明になったことにする。
 「さきがけ」の教祖の処刑を依頼された青豆は老婦人の用心棒であるタマルに拳銃の入手を依頼する。青豆は新聞であゆみがホテルで殺されたことを知る。老婦人から処刑のためホテル・オークラに午後7時にくるようにという連絡が入る。
 天吾には人妻である年上のガール・フレンドがいるが、ある日連絡がなくなり、しばらくしてその夫から「家内はもう失われてしまった」という電話がはいる。
 天吾は父のはいっている千倉の療養所を訪ねることを思い立ちでかけてゆく。
 指示によりオークラにいった青豆は「さきがけ」の教祖であるリーダーのマッサージをする。リーダーは幼児を犯す嗜好をもつ異常者ではなくもっと深い存在であるように思えてくる。リーダーは「さきがけ」の指導者である深田保そのひとであり、いまはリトル・ピーピルの代理人となっているようである。そのために超能力をもち、あゆみの死もその力によるらしい。リーダーは世界の善と悪のバランスが保たれねばならないという謎めいたことをいい、そのためには自分が殺されねばならないという。青豆が自分を殺しにくることを知っていたのである。青豆はリーダーを処刑する。青豆は高円寺に隠れる。それは「偶然」天吾の住むところである。青豆は隠れ家ではじめて「空気さなぎ」を読む。
 天吾はふかえりをかくまっているが、ふかえりには予知能力があるらしく、青豆は直ぐ近くにいるという。天吾がそとにでると月が二つある。公園で月をみている天吾に隠れ家にいる青豆がきづく。あわててそこにゆくが天吾はもういない。
 天吾に千倉の保養所から電話が入り、父が危篤だという。
 青豆はタクシーで高速に入り、前と同じところで非常階段を降りようとする。しかし階段はなかった。青豆はピストルを自分にむけて引き金を引く。
 療養所の父は昏々と寝ていた。父は検査にゆく。空になったベッドにはいつのまにか空気さなぎがいる。それは割れて中には10歳の青豆が眠っているのが見える。だがそれはやがて消えてしまう。天吾は青豆を見つけようと誓う。
 
 この小説は「青豆」の章と「天吾」の章が交互にでてくる形で構成されている。青豆が「さきがけ」の教祖を殺す話と、天吾がふかえりの小説を改作する話が交互に進行していく。Book 1 と book 2 がともに24章という構成はバッハの「平均率クラヴィーア曲集」第1巻と第2巻にならったのであろう。ちゃんと本文にある。「『平均率クラヴィーア曲集』は数学者にとって、まさに天上の音楽である。十二音階すべてを均等に使って、長調短調でそれぞれに前奏曲とフーガが作られている。全部で二十四曲。第一巻と第二巻をあわせて四十八曲。完全なサイクルがそこに形成される。」 青豆と天吾で前奏曲とフーガを構成する。
 20世紀にはいってからの小説のテーマはただ一つしかなくて、それは「なぜ小説を書くのか」というものであるという説がある。本書もまたその驥尾にふすものかもしれない。ただし、「なぜ小説を書くか」ではなく、「なぜ物語を書くか」であるかもしれないが。この小説のなかにでてくる「空気さなぎ」をめぐる議論はそのまま「1Q84」という小説についての考察を読者にうながさずにはおかない。
 また20世紀以降の小説の特徴として過去の小説から小説をつくるという技法がある。本書がオーウェルの「一九八四年」を下敷きにしたものであることはいうまでもない。わたくしは「一九八四年」を読んでいないから間違っているかもしれないが(いろいろなひとの紹介を読んで、だいたいどのような話であるかは知っているけれど)、その構成を下敷きにするというよりも、そこでの問題意識を主として用いているように思われる。たとえば「ビッグ・ブラザー」対「リトル・ピープル」。もっとも「さきがけ」のリーダーである教祖深田保には「ビッグ・ブラザー」がどこかに投影しているかもしれない。弱い「ビッグ・ブラザー」。深田保はかつて毛沢東主義者であった。毛沢東は「ビッグ・ブラザー」であったのか?
 さらに過去の小説から小説をつくるのとはやや異なるいきかただが、本書では「平家物語」からの引用があり、すばらしい効果をあげている。主上と二位殿入水の場面は、物語のもつ力を示すとともに、「1Q84」で死んでいく多くの女たちへの鎮魂ともなっている。「我が身は女なりとも、かたきの手にはかかるまじ」 さらに「平家物語」という仏教がまだ力をもっていた時代をえがくことによって、この小説の舞台である現代日本での新興宗教である「さきがけ」との対比をも暗示する。「極楽浄土とてめでたきところへ具しまゐらせさぶらふぞ」
 またチェーホフの「サハリン島」からの引用がある。「サハリン島」は小説ではなく旅行記あるいはむしろ調査報告書である。チェーホフがなぜこれを書いたのかという疑問は村上氏自身が「アンダーグラウンド」と「約束された場所で」という二冊のオウム真理教地下鉄サリン事件についてのノン・フィクションを書いたことと重なる。そして本書はカルト宗教をテーマにしているのだから、オウム真理教の問題がその背景にあることはいうまでもない。
 「サハリン島」から引用されるのはギリアーク人という未開の人たちについての記述である。いまのわれわれとはまったく違う価値観のなかで生きるひとたちの話。彼らは不潔であるが争いをこのまず、家父長制度はないが女にはなんの権利もなく品物か家畜のようにあつかわれる女性蔑視の世界であり、法廷もなく、道路の意味を解さないひとたちである。これらは男たちによるDVが描かれる本書の一つの対照世界となっている。そしてここにチェーホフがでてくることは、あとのほうにでてくる「物語の中に拳銃が出てきたら、それは発射されなければならない」というチェーホフの言葉のうまい導入にもなっている。ところでチェーホフは本当にこんなことをいったのだろうか? 似たようなことをいっていたようにも思うが拳銃ではなかったように思うが。
 
 とにかく、たくさんのことを考えさせる小説である。これから考えたことをいくつか書いていくことにしたい。
 

1Q84 BOOK 1

1Q84 BOOK 1

1Q84 BOOK 2

1Q84 BOOK 2