I・カワチ B・P・ケネディ「不平等が健康を損なう」R・ウィルキンソン「寿命を決める社会のオキテ」

  [日本評論社 2004年10月20日初版] [新潮社 2004年12月15日初版]


 どちらも似たような主張をしている本である。いわく、不平等な社会は健康に悪い。ウイルキンソンの本は「進化論の現在」というシリーズの一冊なのであるが、どこが進化論と関係するのかいまひとつ判然としない。カワチらの本の謝辞にR・ウィルキンソン氏の斬新なアイディアに負うところが多いと書いているから、ウイルキンソンはこの分野のパイオニアの一人なのかもしれない。
 カワチらの本は、不平等が健康に悪いということを疫学的に示しただけの本で、それがなぜなのかということについてはほとんど論じていない。というか、そのそも本の半分以上が、いかにアメリカが不平等な社会であるかという論述で占められている。それにたいしてウイルキンソンの本は、その理由につき進化論を借りた仮説を提示しているわけであるけれども、本人は別に進化の研究者でもないわけで(公衆衛生学者)、そんな安易なことでいいのだろうかという気もする。

 それでまず、カワチらの本による事実の提示から。
 世界の最貧国と最富裕国との格差はこの100年というもの開く一方である。
 アメリカ国内でも、1973年以降、格差は開く一方である。(階級社会を残しているといわれるヨーロッパのほうが現在ではむしろ平等である)
 すべてのひとの収入が平等に上昇するならば、誰ひとり幸福にはならない。新しい環境にはすぐ慣れてしまうのである。幸福に関係するのは、絶対的な所得ではなく、所得の分布なのである。
 最貧国においては所得の上昇は健康の増進に比例する。一人当たりGDP5000ドルまでは比例する。しかし、それ以上所得が伸びても寿命は延びない。所得の分配が不平等であればあるほど、寿命は短くなる。OECD加盟国の寿命の分散の四分の三は所得の不平等による。
 ひとはまわりすべてが年収三千万で、自分は二千万よりも、まわりが五百万で自分が千万の方を貨幣価値が同じであっても選ぶ傾向がある(鶏頭となるも牛後となるなかれ!)。なぜなら、ある程度裕福になった国においては、何がほしいかを決めるのは他人が何をもっているかであるからである(隣に負けるな!)。絶対値より相対値が重要である。人間には生きるためにどうしても必要なニーズと、他人に優越するために必要とされるものの両者がある。
 近年、貧困層は無理に富裕層の持ち物を手に入れようとして、労働時間を長くし、パートナーも働きにでるようになった。しかし、これは家族の親密性を失わさせる。
 家族の親密性の消失は健康や寿命に非常に大きな影響があることがわかっている。心臓発作で入院したもので、家族の親密な支持を得られるものとそうでないものとでは、死亡率が3倍以上違う。乳がんでも似たようか結果が得られている。風邪の罹患率は社会的活動性が高い人ほど低い。これはそういう人が多数の人と接触することを考えると意外な結果である。
 結論として、アメリカのような不平等社会は社会の連帯を破壊し、そのことによって健康を害している。アメリカよ! もっと平等な社会たれ!
 
 さて今度はウイルキンソンの本。
 人びとの健康水準は、その人が暮す地域の医療水準よりも、はるかに社会経済環境に依存する。社会階層の低い人の死亡率は高い人の2〜3倍高い。これは死因に関しない。また健康が地位を決めるのでもない。地位が健康を決める。たとえば下級官吏は高級官吏よりも心臓発作の率が4倍高い。これは他人にくらべて自分が貧しいという心理社会的要因による。心理的満足度が決定的に重要である。仕事が自分の裁量でできる人と他人に命令されて仕事をするひとでは、寿命が違うことがわかってきた。また社会的地位も重要である。
 どうやらストレスや慢性的な不安は健康に決定的な影響をあたえるらしい。まとまりのある社会ではひとびとの寿命は長く、ばらならな社会の健康状態は悪い。日本を見よ! アメリカを見よ!
 社会的地位が低く、かつ社会的な結びつきが弱いものは、健康に対するリスクがもっとも高い。しかし、現在ではまだそういうものよりも物質的なものが健康にはもっとつよく影響すると考えているひとがまだまだ多い。
 われわれ人類を進化的にみると狩猟採集生活の時代が圧倒的に長い。そしてその時代は階層のない協調の社会であったのである。
 われわれは単に生きるだけではなく、プライドをもって生きることが必要である。そのため、《馬鹿にされる》ことは決定的に忌み嫌われる。その故に社会的地位にひとは敏感になる。
 人間はふたつの進化的要因をもつ。サルから引き継いだ階層への過敏と、狩猟採集時代の平等である。
 ストレスへの生体の反応は短時間であれば適応的である。しかしそれが長期に続くならば有害になってくる。
 
 以上どちらの本でも、社会における相対的地位が健康に決定的に影響するということが事実として示されていると主張している。これはわたくしのような人間にとってはかなり衝撃的なデータである。血圧をコントロールするとか、糖尿病を治療するという医者の医療行為以上に、本人が社会のなかでどのような地位を占めているかが健康に決定的な影響をあたえていることが主張されているからである。
 もしも、血圧をコントロールすることで死亡率が30%下がり、一方、社会的地位が低いものは高いものより3倍死亡率が高いとするならば、医者のするべきことは、血圧のコントロールではなくて平等社会の実現へむけての運動であるはずである。
 今までは、途上国においては社会改革のほうが個別の医療行為よりも健康に有益ではあっても、あるレベルの経済状態になったら、有効なのは医療的手段であると考えられていたのではないかと思う。本書によれば、医療のできることをはるかにこえて、平等化社会ができることは大きいのである。
 そして、ストレスが健康にかんする決定的な要因であるとするならば、医者はひたすら患者さんに、大丈夫です、心配ありませんといい続けるのが一番いいのかもしれない。インフォームド・コンセントで本当のことをいうのが一番いいとはいえないかもしれない。 栄養状態が不良の時代は感染症の時代である。少しよくなると脳卒中、栄養がよくなると心臓病が問題となる。現在日本が肥満の時代になっているにもかかわらず心臓病が少ないのは魚をたくさん食べるせいかと思っていたら、案外日本が均質な社会、総中流意識の国であったためであるのかもしれない。これからの日本は不平等化し、不均一な社会となっていくことは必定のようであるから、日本人の寿命も短縮して、年金問題などは相当部分解決してしまうのかもしれない。
 これらの本を読んでいて、F・ハヤカワの「歴史の終り」の対等願望と優越願望という議論を思い出した。人間は対等願望が充たされるだけではだめで、優越願望も充たされなければ幸福になれないとかいう議論であった。ウイルキンソンの本のあとがきで訳者の竹内久美子は、ウイルキンソンが理想とする平等社会なんか、退屈で居心地が悪くて住めない。短命でもいいから夢のもてるところで生きたいといっている。人はパンのみにて生きるにはあらず。人は健康のためのみに生きるにはあらず。
 ハヤカワの本はコジェーヴの「ヘーゲル精神現象学」読解」に依拠した本である。自分の「精神現象学」が人間の寿命にもかかわることを議論をしているのだなどといわれたらヘーゲルもびっくりであろう。
 世のすべてのことはお互いに関連しているということなのであろうか?


(2006年4月19日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

不平等が健康を損なう

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寿命を決める社会のオキテ (進化論の現在)

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