池田信夫「「空気」の構造」(2)

 
 池田氏の子供のころは「日本は資源のない貧しい国」と教わったという。わたくしの小学校時代の思い出として、放課後映画をみさせられることがあり、なかに、当時の南極観測の記録映画があった。日本の観測船(宗谷丸?)が氷に閉じこめられてしまい、それをソ連砕氷船(オビ号?)が救助にくるのである。日本というのは貧しい国なのだなと思った。今にして思えば、当時の日教組が母国?ソ連の威を知らしめたくてこういう映画をみせたのかもしれないが。
 それが80年代には「日本の奇蹟」などといわれ「経済大国」といわれるようになった。しかし、そこで成功したのは自動車と家電とカメラなどの精密機械であって、なにもかもがうまくいったわけではない、と池田氏はいう。日本の資本主義は「持ち合い」などによって資本の論理を阻止するサラリーマン共同体であり、それは人々の長期的関係に依存するシステムである。それがうまく機能する分野においてたまたま成功したにすぎない。
 50年代には大きな労働争議があった。それは解雇をめぐるものであった。ということは、この当時までは解雇がかなり自由であったということでもある。しかし労使紛争に懲りた経営者は終身雇用のほうにシフトし、労使の争点は雇用から賃金へと移っていった。
 日本のような長期的関係に依存するシステムは、本来は小集団においてしか成功しないはずなのだが、日本においては大集団でも成功した。それはメンバーの同質性によるところが大きいと池田氏はしている。しかし、グローバル化が進行し、異質性が当然の前提になってくるとうまくいかなくなる。
 日本の企業の特徴は、人事情報が濃密に共有されているところにある。外資系ではトップが方向をきめ、部下はそれを実行するだけである。日本では仕事の目的が理解されたら、あとは部下はそれを達成するために(他人の行動を予想しながら)独自に行動する。だから日本では意志決定が遅れがちになる。
 共同体の維持のためには、1)法的に規則で維持する。2)異質なメンバーを排除して同質性や長期的関係を保つの二通りの行き方がある。日本は後者をとっており、だから雇用の維持が最優先になる。そのため、日本では現在欧米では10%くらいの失業率が5%前後ですんでいる。しかし業績が落ちているなかで雇用をまもるには賃下げが必要になる。この15年でアメリカでは80%以上賃金があがったのに、日本では10%以上も下がった。これが日本でだけデフレがおきる原因である。日本では労働力の再配備がおくれ、経済を停滞させている。日本の労働生産性アメリカの75%しかない。
 日本では、非正規社員の比率が倍増し、世代間格差が拡大した。アメリカでは上位1%にGDPの23%が集中する垂直格差が拡大した。
 日本では「賃下げ&雇用維持→デフレ→世代間格差の拡大」、アメリカでは「賃上げ&失業→インフレ→垂直格差の拡大」となった。
 ゆるやかに世界が変化するときには日本型が合理的だが、急激に変化するときにはアメリカ型が合理的となる。
 現在行き詰まっている日本経済を立て直すためには、長期雇用という約束を破棄し、老朽化した会社を解体再編し、資本市場を活性化することが必要であると池田氏はいう。日本企業は「人本主義」を卒業して普通の資本主義になる必要があるのだ、と。企業(特に大企業)が解雇できないことが企業収益を悪化させ、雇用を縮小しているのだと。
 需要の変動に対して、50年代には解雇、60年代には配置転換、70年代には出向、90年代には非正社員というやりかたで対応してきたのだが、出向まではそれまでの日本的な慣行の枠内であった。しかし90年代以降はその枠をはずれたものであるためうまくいかず、それが長期停滞をうんでいる。衰退産業から成長産業への労働移動がうまくいかないのが停滞の原因であり、もはや役割を終えた企業は退場すべきである、と。
 
 この最後のほうの議論には強い既視感がある。ふた昔くらい前に木村剛氏らがいっていたこととそっくりであるような気がする。すでにダメになった企業を無理に公的に援助して延命させているから、必要な潜在成長能力をもった企業に労働力が提供されず、それらが開花しないという議論である。その時はヴェンチャーIT企業などが潜在的な成長産業とされていたと思う。しかし、今、日本が停滞しているとしても、それは労働力が本当に必要な場所に提供されていないためなのだろうか? もうどこにも労働力を待望している場などはないということはないのだろうか? ある年代には日本はうまくいっていた。それがどこからかうまくいかなくなってきた。それはある時代には日本的な行き方が経済にフィットしていたが、ある時代からは適合的でなくなったという論は、後出しじゃんけんで、後からの説明に過ぎないのはないだろうか?
 知識人の宿痾というのは、何か対策と称するものを提示しないといけないという強迫観念にとらわれていることにあると思う。どうしようもないこと、どうにも対策がない事態というのもあるのではないだろうか? そう理解するほうが、何か方策があるはずと思って行動するよりもかえって被害を最小にできるということはないだろうか? もうどうしようもないとやけになって、せめて今のうちに有り金はたいて遊ぼうなどと思うひとが増えるとかえって景気がよくなるなどということはないだろうか?
 本書の最後のほうの氏の議論はいたってとってつけたような議論で迫力もないし説得力もない(昔の木村氏のほうがまだ自説を信じていたように思う)。われわれは終わってしまったことについてはいくらでも緻密な議論ができるが、これからおきることについては誰もがおしなべて無能である。ケインズは孫の時代には経済問題は存在しなくなるだろうといっていたのではないだろうか? 終戦直後にバブル期の日本を予想できたひとなど一人もいないはずである。成長とバブルは確かにおきた。おきたから、それを説明するために多くのひとが多くのことを論じる。
 しかしそれは必然的におきたことではなく、ほんの偶然、何かの間違いであった可能性もあるので、それへの恣意的な議論を根拠に未来を予想するというのは、ほとんど言ってみているだけにすぎないような気もする。
 みんなが10年後には滅びてしまうと信じてやけになって浪費をはじめると景気がよくなって滅びなくなるとか、ええじゃないかと踊りはじめると何かが変わるとか・・。議論はどうとでもできる。
 どうも高齢化社会がよくないような気がする。いつまで生きるかわからないと思うからみな必死でため込む。ある時から平均余命が縮みはじめ、85歳が80歳、さらには75歳などということになれば、年金の負担も減り、高齢者も金を使いだし、いいことづくめなのかもしれない。
 とすると医療が一番の責任者なのかもしれないが、医療が寿命を延ばしたのではなく、栄養状態の改善(つまりは経済状態の好転)が本当は一番の功労者である。だが、栄養も過多になると逆効果ということがあるわけで、それをメタボなどといって抑制することをしないで、さらに飽食をあおれば、消費は増え寿命は縮み、一石二鳥なのではないかと思う。さらにいえば格差社会というのは確実に寿命を縮めるのだそうであり日本では格差社会がどんどん進行しているとすれば、その点も日本の平均余命がこれからどんどんと縮める方向にいくことに寄与するのではないかと思う。また、社会の混乱期には寿命が縮むらしい。ソヴィエト崩壊時には男性の寿命は50歳をきったはずである。日本でもそれがおきるかもしれない。そうなるとあの世にお金をもっていっても仕方がないから、みんな浪費するようになり、景気はよくなり、格差は解消し・・以下繰り返しということになるのだろうか?
 小室直樹さんが、どこかの本に経済学の理解というのは鶏と卵のどちらが先がということを、どちらが先でもなく同時であるということをつかむことからはじまるというようなことを書いていたように思う。
 格差拡大⇒寿命短縮⇒消費拡大⇒景気回復 などという図式は書いているわたくしさえまったく信じていない単なる思いつきの論であるが、会社がどんどんと社員を解雇できるようになると景気が回復するという図式は、それとあまり変わらない信憑性しかないような気もする。
 日本が大陸から切り離されて島国となり、海にまもられて海外からの大きな侵略なしに今日まで来たことが日本人を規定しているとすれば、その過去は変えようがない。たかだかこの数十年の経験で、それが簡単にかわるはずはない。
 なんだか、氏か育ちかという議論になってしまうようにも思える。進化心理学では、農業以前の狩猟採集時代の心性がわれわれを規定しているとするわけであるが、そうであれば能天気な日本人の心性はわれわれの脳にしっかりと根をはっていて、理論で覆すことなどできないことかもしれない。後は混血して、その心性を薄めていくしかないのかもしれない。とすれば、やはり必要なものはグローバル化なのだろうか?
 

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