橘木俊詔 「企業福祉の終焉 格差の時代にどう対応すべきか」

 [中公新書 2005年4月25日 初版]


 こういう本を読んでいるのは、わたくしが企業福祉の当事者である、すなわち、ある企業の病院に勤務している、という理由による。他人事のようないいかたであるが、わたくし自身そういう立場にいながら企業が福祉の一端をになうということについてはその必然性につき納得できていない部分があったので、こういうタイトルの本を偶然みつけて、どういうことが書いてあるのか興味をもった。企業福祉全般をあつかっているので、医療にかんして多くのページが割かれているわけではない。そうではあるが、本書で多くのことを学ぶことができた。とくに企業福祉というのは日本という国にかなり特有な制度ではないかと思っていた部分があったのだが、そうではないという事実を知った。わたくしが日本に特殊ではないかと思い込んでいた制度の多くが必ずしもそうではないということを教えられることが最近多い。日本が特殊であるという思い込みがわたくしは強いのかもしれない。そういう点でわたくしは大変面白い本であったが、わたくしのような立場にない人にとってはあまり興味のわかない本であるかもしれない。
 
 以下、まず本書の論点をたどってみる。
 企業の福祉には、自分の企業に働く従事者のみを対象とする非法定福利と、企業が労働者と折半で負担している医療保険介護保険労災保険、失業保険などの法定福利厚生費がある。企業にとっては、前者は企業にとって投資効果がはかれる費用であるが、後者は強制的に徴収されるような性格のものであり、投資効果は計れない。
 多くの国でまず非法定福利がまず発達した。これが発達すると国が制度としてそれをとりあげるという方向で進んできた。
 多くの国で従業員福利は鉱業分野で発達した。石炭や鉱石の採掘には危険がともなうからである。
 ドイツ:鉄鋼、鉄道、軍需産業などにかかわるクルップ社で1836年に疾病金庫が設けられた。それまでは会社がかかわらない労働者の互助組織であった。ビスマルク時代に社会保障制度が大きく前進したが、その前提として企業内部で福祉制度があったことが大きい。ビスマルクはイギリスに追いつくために工業化を進めたので、そういう制度を必要とした。また当時隆盛しようとしていた社会主義に対抗する意味もあった。
 フランス:アルザス・ロレーヌ地方の大企業では住宅、病院、救済金庫などが19世紀末から20世紀初頭にかけて設けられた。これを見ると日本の企業内福祉と同じことがかつてヨーロッパでもおこなわれていたことがわかる。ただこれはある特定企業でだけおこなわれたことである。
 イギリス:イギリスでは福祉国家の発想は第二次大戦前後にでてきた。それは組合が自分たちの伝統である互助組織にこだわり、この分野への国家の介入を拒否してきた歴史があるからである。労働組合は福祉に企業が介入すると、雇用主の発言権が強くなることも警戒していた。
 アメリカ:現在のアメリカをみると意外であるが、かってはアメリカの福祉の歴史において、企業が決定的な役割を演じた。第二次世界大戦前のアメリカでは、長期雇用など労使協調が基本になっていた。現在の日本の大企業が提供する以上の企業福祉が提供されていた。社宅、病院、食堂、スポーツ、文化施設などである。企業年金も導入されていた。それはもともとアメリカが国家の介入をきらう国民性をもっていることも関係しているかもしれないし、労働組合への警戒心もあったかもしれない。
 日本:日本でも鉱業からはじまる。日本の企業福祉の特徴は社宅制度に大きなウエイトがおかれたことである。高度成長期以後は、住宅確保が一段落し、病院、退職金の充実、といった方向に重点が移っていく。
 企業の労働者への支払いには賃金と非賃金があり。後者は福利厚生費と呼ばれる。これには現物支給、退職金、法定福利費、法定外福利費、教育訓練費、募集費などがある。福利厚生費は支払いの20%弱をしめている。この比率は産業によって異なっており、電気ガス業では29%弱、サービス業の15%弱と、約倍の開きがある。また大企業と小企業でも同様の開きがある。
 福利厚生費のうちの約半分は法律によって強制的に徴収される法定福利費である。その次に退職金である。法定福利費としては、健康保険・介護保険料、厚生年金保険料、労働保険料などがある。なかでも年金保険料は50%をこえている。
 非法定福利費としては、大企業では住居への支払いが50%をこえている。食事への支払い(10%程度)がこれに継ぎ、人間ドックや健康診断への補助など(7%程度)もある
 日本では社会保障費を企業、労働者、税金がほぼ三分の一づつ負担するかたちになっている。
 企業が福利厚生制度に期待しているものは、従業員の長期定着性の維持向上である。あとは勤労モラルの向上、労使関係の円滑化などである。注目すべきは、企業側の回答として、企業の社会的責任という項目が第三位に入っていることである。これは企業からみて日本の社会保障制度は貧弱であるという認識があり、それを補完するのは企業の責任であるとしているからであろう。
 それでは企業福祉は役に立っているのか? 社員の一体感を高めるのに役にたっている、あるいは新入社員の勧誘において一定の効果があるという見方はある。しかし、こういう見方は長期雇用を前提をしている。現在では多くの企業が以前にくらべて長期雇用を求めなくなっているし、特に大企業ほどそうである。大企業は今後、企業福祉によって従業員の定着を図るという方向を放棄する可能性がある。少なくとも大企業では福利への投資が従業員定着に有用であるとは判断しなくなっていく可能性はある。
 一方、労働者側から見ると企業福祉をそれほどありがたがっているということはない。従業員から会社への期待が高い項目には、身体健康の維持増進、心の健康管理の維持増進、病気事故への金銭的準備などが上位にあり、それ以外では老後の生活のための資産形成などである。一方、企業が重視している仕事に役に立つ技能や資格の取得は労働者側からはそれほど重要視されていない。
 住宅への補助の必要性が低下していることは労使ともに認めている。これらをふくめ企業は福祉への関与から手を引き、それらは賃金として支払う方向に向かうべきであるというのが著者の主張である。
 そして本書の主眼はそれについての著者の提言にある。企業は福利厚生から手を引き、それは国家に委ねるべきである。日本は国としては福祉国家を目指すべきであるが、それは消費税主体の税金の投入によるべきであるといったものであるが、この点にかんしてはわたくしはその議論が正しいか否かを判定できるだけの知識をもっていない。一点だけここでの著者の論を紹介すれば、著者はいわゆるハコモノ(社宅、保養所、文化施設)への投資をへらすことを主張するが、労働者からも要求のある健康への関与については肯定的であり、そのなかでも災害や疾病への補助からそれらの予防へと投資をシフトすべきであると主張している。住宅への投資は膨大なものとなるが、それに較べると健康への投資はずっと負担が少ないのだそうである。
 
 本書を読んで感じたのは、またしてもわたくしは何も知らないのだなあということであった。現在のアメリカの企業をみるかぎり企業が福利厚生に多大な投資をしているとは思えない。株主がそんなものを認めるとは思えない。それで企業が福利厚生にかかわるというは相当程度に日本の企業の特殊性によるのではないかと思っていたのである。多くの国において当初福利厚生は企業の私的なものとしてはじまったのであり、それを国が引き継ぐ形で発展していったこと、アメリカにおいても当初企業が福祉を担当したなどということはほとんど知らなかった。
 わたくしが日本特殊論的なことを考えるようになったきっかけは中根千枝氏の「タテ社会の人間関係」を読んで、「ワンセット構成」という言葉を知ったことであったと思う。ご存知のように中根氏のこの本は日本特殊論の代表作の一つであり、日本の独特な共同体主義、ウチとソトを峻別するやりかたを論じた本である。「ワンセット構成」とは分業の対語であり、企業が大きくなるとなんでもかんでも自分の内部に抱え込む行動を指す。自分の得意分野はこれ、相手企業の得意分野はあれということではなく、相手がやるならうちもやるということでなんでもかんでも手をだす。だから日本の大手企業は上から下まであらゆる品を揃えて用意し、さらには物流から不動産管理までを内部にかかえこむ。要するによそ者は信用できない。すべて内部でという志向がきわめて強い。病院などというものを企業がもっているのもまた「ワンセット構成」の一つであると理解すると、はじめて企業が病院を持つという行動も腑に落ちた。それで、てっきりこれまた日本に特殊な形態だろうと早合点していた。なにしろ、自分で考えて見ても、病院にしている投資を企業が回収できているとは思えないのである。
 病院という組織は何らかの公的な補助がないと運営が非常にきびしい。赤字を補填してくれる足長おじさんがいないことにはほとんどなりたたない。一応黒字で運営している病院であっても、その日その日の運営がやっとであって経年劣化する病棟の建替えに備えて引き当てをしておく余裕はなく、そういう部分は公的な援助に頼っているはずである。
 しかし著者のいうように、その足長おじさんの役割を企業が分担しなければならない必然性はない。あるいはかつてはあったのかもしれないが、現在ではそれが大幅に薄れてきている。「ワンセット構成」から時代はかわって「本業特化」の時代である。いよいよ企業が病院をもつ必然性はなくなっているきている。困ったなあと思っていた。
 本書によれば少なくとも従業員は健康管理の方向への投資には寛容なようである(株主は寛容ではないかもしれないが)。とすれば、この方面はまだ企業がある程度継続していく意味があるということだろうか?
 医者の立場からすれば身体面での健康管理には限界がある。この部分に過大な期待をされると困るというのが正直なところである。それに比べれば心の面での健康管理のほうにはまだまだできることがあるのかもしれない。もちろんそれにも限界があり、なにしろ手仕事的な作業であるから効率的な運営など望むべくも無いが、メンタルな部分こそ仕事に直接起因しているものも多いから、企業の責任である部分が大きいと思う。治療者側も仕事の現場を知らないと適切な対応ができないことが多い。企業福祉で最後に残るのは社員のメンタルケアの部分であるかもしれない。
 ところで医療の世界でも「ワンセット構成」から「分業」へと時代は移行しようとしている。しかし企業の「ワンセット構成」の一部を構成している病院においては、企業からは病院も「ワンセット構成」を持つことがまた期待されるのである。どこまで最低限の「ワンセット」を維持し、どこからは「分業」としての自己の役割を果たしていくのか、その舵取りがきわめて難しい時代となってきている。


(2006年4月16日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)