倉橋由美子追悼


 倉橋由美子が死んだ。
 新聞によれば死因は拡張型心筋症とあった。
 大分前のエッセイに、ひどい耳鳴りがあってとても物書きができる状態ではないと書いていたし、そのまた前のエッセイに、腸の検査をしたら医者にあなたこれでよく生きてますねといわれたとかも書いていた。
 とにかく病弱であったようで、それもあってか最近はあまり書いておらず、すでに過去の人、昔の人になっていたのかもしれない。本人もそれをそんなには苦にしてはいなかったかもしれない。なにがなんでも書きたいことがあるというタイプの人ではなかった。
 倉橋由美子は「普通の人」になろうと努めた人であったと思う。その「普通の人」の反対が「文学青年」なのである。あるいは「大人」になろうとした人であった。大人の反対が「未熟」あるいは「ガキ」である。倉橋由美子が「普通の人」の手本としたのが三島由紀夫であり、吉田健一であった。三島由紀夫が「普通の人」かという疑問もあろう。「普通の人」三島由紀夫とは、太宰治が嫌いと公言し、文学青年の悩みなどボディ・ビルをやれば雲散霧消していまうと嘯く三島由紀夫なのである。三島由紀夫もまた文学青年を克服することに努めた人間であったのかもしれない。自分の中の文学少女を克服する範を三島氏にもとめたのであろう。「普通の人」吉田健一とは、「文学の楽み」を書き、文士を自称し、日本文学の主流であった刻苦勉励真面目誠実型の作家を哄笑し続けた吉田健一である。
 「普通の人」となることを願いつづけた倉橋由美子を救ったものは結婚ではなかったかと思う。文学少女の悩みなどは結婚すればどこかにいってしまうのである。というのは本当は話が逆で、倉橋氏は自分が普通の人ではないという劣等感をずっともっていて、結婚という形式の中であたりまえの生活をしていくことで自分も普通の人間でありうるという自信を回復することができたのではないかと思う。この《自分が普通の人ではないことに劣等感を持つ》という点が倉橋由美子の特異な点で、倉橋氏から見るとほとんどの文学青年たちは自分がいかに変人であり普通ではないかを競いあって、そのことに優越感を感じているように見えるのである。自分の中の病的な部分、普通ではない部分などというのは隠すべきもの克服すべきものであるにもかかわらず、それを自慢気に披露しあっている世界というのが倉橋氏には耐えられなかった。
 倉橋氏から見れば文壇内部の人間のほとんどは実世界では通用しない畸形の人間たちばかりなのであり、いわば永遠のモラトリアムの中にいる子供たちなのであった。彼らは自分たちの純粋、自分たちの誠実を競い合っているけれども、それは単に大人になるのが怖いというだけではないのか、だから彼らの書くものは文壇内部の人間たちのために書かれる内向きのものなのであり、外部にいる生活人にはまったく必要のない、かかわりのないものとなってしまう。そういう同人雑誌的世界の中だけに通用する文学を拒否するというのが倉橋氏の作品のモチーフとなった。よく倉橋由美子を表して「知的」ということが言われたが、「知的」の反対が「感傷的」なのであり、文学青年=感傷的人間なのであった。
 第一エッセイ集の「わたしのなかのかれへ」に「修身の町」というのがある。ある日A新聞社から性意識にかんするアンケートが送られてきて・・・、というものであって、倉橋氏は「家庭を破壊しない程度の夫の浮気は黙認する」「結婚するまでは、結婚の相手ときめた男とも性関係をもつべきでない」「結婚の第一の目的は、子どもをつくり家系を絶やさぬようにすることだ」という項目には無条件に賛成し、「結婚こそ人生に真の幸福をあたえるものだ」「赤線は復活したほうがよい」「結婚は男女の自由な結合だ」「婚前の性交渉は自由でよい」とかには反対する。要するに自分はフリーセックス的な考えには何の共感ももたぬばかりか、そういう考えかたを大まじめに鼓吹するひとをみると、このかたはいい年をした大人のくせに子どもみたないな人だと情けなくなるといい、自分がそのアンケートの分類の「フリーセックスの町」「純愛の町」「わけ知りの町」「修身の町」の区分において、著名人としてはごく少数の「修身の町」の住人であったことを光栄に思うと書いている。ちなみにこの分類は、現行の結婚制度や家へのこだわりと浮気や婚前交渉の許容度で4分類したもので、著名人の大部分は「フリーセックスの町」に住んでいるのだそうである。このエッセイ集が刊行されたのは昭和45年、わたくしが大学生のときで、その時のわたくしは倉橋氏と同じ「修身の町」の住人であったのだが、今は「フリーセックスの町」と「わけ知りの町」の中間の住人である。倉橋氏にしても、これを書いたのは30歳代であるから晩年にはどういう考えになっていたかはわからないが、これを書いた当時、無名の人々の大部分は「修身の町」に住んでいると信じていたわけである。それについて連想するのが三島由紀夫の「永すぎた春」であって、この小説は婚約者が婚約期間においていかに性交渉をもたずにいるかということをモチーフにしている。今の若いひとに読ませたら「こいつらバカじゃん!」というようなものであろう。このエッセイを書いた当時、倉橋氏は「フリーセックスの町」の住人は時代の先端にいるという子どもっぽい自負のために不自然なことをいっている人間であると思っていたわけである。
 倉橋氏は結婚によって救われたと書いたが、三島由紀夫は結婚によって自滅した人間ではないかと思う。三島氏もまた、普通の人間たらんとして結婚したのであろう。しかし三島氏は頭で結婚したのであって、結婚は頭でするものではない。
 三島由紀夫の死に際して、最大の無条件の賛美を捧げたのが倉橋氏であった。「英雄の死」(「迷路の旅人」所収)と題された文章によれば、三島事件の当日、倉橋氏は三島賛美者の一人ということで私服刑事の訪問を受けたらしい。日ごろ、自分が男に生まれていたら「盾の会」に入るなどと公言していたためらしい。「三島由紀夫氏の日ごろの言動を一種の冗談だとして受けとっていた人は多いはずで私もその一人だった」と書き、要するに自分は高をくくっていたのだ、という。一方、この死について吉田健一は事故死と断じた。蝶狂いの文士が蝶を追いかけて崖の下に落ちて死んだ、あるいは情事好きの文士が媚薬の量を間違えて死んだ、それと同じであって三島由紀夫の死は残した文学とは何の関係もないのだとした。
 そして後になって倉橋氏もまた三島氏の死を事故死というようになる。三島氏に満腔の敬意を表したあと、それは自分の目指す方向ではないとして吉田健一を師をする道を選んだのである。
 1971年に刊行された「夢の浮橋」の冒頭。
 三月初めの嵯峨野は地の底まで冷え込んで木には花もなかつた。桂子が嵐山の駅に着いたのは正午まへで、耕一と会ふ約束の時刻にはまだ間があつた。渡月橋まで歩いて嵐山を仰いだが、花のまへの嵐山は見慣れぬ他人の顔をして桂子のまへに立ちふさがつてゐた。(旧字は新字に変更した)
 1980年に刊行された「城の中の城」の第一章冒頭。
 子供たちは桂子さんの誕生日のケーキを受取りに近所の洋菓子店へ出掛けていつた。喜々として二人で手をつないだり放したりしながら風の中を駆けていく。上が智子、下が貴、六歳と五歳である。陽はすでに落ちかかつてゐる。桂子さんは街の屋根の間に顔をのぞかせてゐる大きな熟柿のやうな夕陽に向つて子供たちが駆けていくのを見送ると、裏庭から木戸を抜けて表の庭に廻つた。
 この「城の中の城」は「夢の浮橋」の続編で、以降1985年の「シュンポシオン」、1989年の「交歓」といわゆる桂子さんものが書き継がれていくわけであるが、最初の「夢の浮橋」は川端康成の「千羽鶴」の設定と文章をかりて、倉橋氏の考える《高貴な人間たち》を描いた小説であり、当初続編を書くことはまったく考慮されていなかったと思われる。「城の中の城」以降の桂子さんものとはまったく印象の異なる作風である。
 「夢の浮橋」では、桂子と呼ばれていた主人公は「城の中の城」では桂子さんと呼ばれるようになる。これは吉田健一の小説「瓦礫の中」や「絵空ごと」のやりかたを受け入れたものであろう。「伝右衛門さんは幾つ位になっているのか、頭に白髪が疎らに生えて腕白な犬が叱られてそれでもどうでもいいやと思っているような顔をしていた。」(「瓦礫の中」) 「勿論とき子さんや牧田さんも呼ぶと言っても先方が承知するかどうかは解らなかったが日取りが決った時に二人とも、とき子さんは元さんを通してくるという返事を寄越した。」(「絵空ごと」) 登場人物がさんづけで呼ばれる小説は珍しい。しかし吉田健一の小説でも主人公は寅三に勘八であってさんづけはされない。要するに主人公からみて伝右衛門さんであり、牧田さんや元さんなのであるが、それを倉橋氏の場合は主人公までさんづけしてしまう。それは現行の小説の書き方としてはきわめて異例であるから、「城の中の城」では第一章の前に序章が置かれている。その書き出し。
 年下の友人に山田桂子といふ人がゐる。桂子さんは、紋切型を使へば現在「平凡な家庭の主婦」で、二児の母である。昭和四十五頃書いた『夢の浮橋』といふ小説に出てきて、ある大学の助教授(当時)の山田氏と結婚してからもう八年になる。
 作者の手つきを露骨に出してこの小説が倉橋由美子による作り物であること明確に最初から提示してしまう。吉田健一の「瓦礫の中」もふざけた小説で、「ここで人間を出さねばならなくなる。どういう人間が出て来るかは話次第であるが、先に名前を考えて置くことにしてこれを寅三、まり子、伝右衛門、六郎に杉江ということで行く。」とか、「このまり子という女に就ても一言して置きたい。これが兎に角小説の部類に属する話である以上まり子をどういう女に仕立てようとこっちの勝手で、まり子は非常な美人だった。」とか、「或る日寅三は偶然にその奥さんの名前が杉江というのであることを知って何か先を越されたのに似た感じになった。それは寅三が小説でも書いたらそのどこかで使おうと思っていた名前だったのである。」(小説末尾)とか、これが作者の書いている作り物であるということがいつもでてくる。そういう手つきこそが倉橋由美子吉田健一から学んだことであって、何よりも観念的で感傷的であることを嫌悪する精神が小説を作るとこうなるのである。
 倉橋由美子を読んでいると、ときどき連想するのが経済学者の竹内靖雄の著作である(あるいは逆で竹内氏の著作を読んでいると連想するのが倉橋氏のエッセイであるのかもしれない)。おそらく分類すればリバタリアンをいうことになるのかもしれな竹内氏は倉橋氏とは資質からいっても随分と異なるひとであるのかもしれないが、文体もどこか似ているし、主張も似ている。竹内氏の「世界名作の経済倫理学」(PHP新書1997年)のオースティンの「高慢と偏見」の項など倉橋氏が書いたといってもおかしくないような気がする。人間を「高級」な人間とそうでない人間にわけるやりかた、愚行を嗤う精神、「それをそのまま書いたのでは不愉快なので小説にはならない。人はそんな話を読みたがらない。小説としてはハッピーエンドになることろで打ち切りにして、「終わり」、「完」、「了」の字を書きこむのが無難である」などという部分など倉橋氏の小説観そのものであるし、この部分だけ知らないひとに読ませたら倉橋氏の文と思うのではないかという気がする。また、カザノヴァ回想録や「ジェイン・エア」の感想における18世紀の評価、19世紀をそれより退行した時代と見る見方などは吉田健一的でもある(事実「ジェイン・エア」では吉田健一の解説を引用している)。
 変な言い方であるが竹内氏は「大人の経済学者」という気がする。そして、これまた変な言い方であるが飯田経夫氏は「感傷的な経済学者」であったという気がする。竹内氏は強い人であるが飯田氏は弱い人であった。
 倉橋氏は強くなろうとした。ヴァレリーではないが書くのは弱さからかもしれないので、強くなれば書く必要もなくなるかもしれない。晩年の寡筆にはあるいはそういうこともあったかもしれない。
 倉橋氏の作品が後世に残るものであるのかどうかはわからない。氏としては、桂子さんものにもっとも力を注いだのであろうが、書くことが考えることという姿勢はすでになくなり、自分の頭に確定していることを紙に写していくという書き方であり、ある種の自己模倣という印象をぬぐうことができない。氏の作品が一番魅力的であったのは、自分の資質と書くことの一致をもとめてさまざまな試みをしていた時代のもので、そういうものとして、わたくしに一番印象深いのは「ヴァージニア」である。これは1968年に書かれている。まだ三島氏が生きていたころである。小説ともエッセイともつかないものであるが、いわゆる私小説すなわち自分のことを書こうとしたものではなく、アイオワ留学時代に知り合ったヴァージニアという女性を書こうとしたものである。あるいは自分にとってヴァージニアという女性がどのように見えるかということを通じて、自分がどのような人間であるかを考えていくというものである。
 散文を書くというのは本来はものを考えるという機能そのものであると思うので、この「ヴァージニア」という小説でなされているのは考えるという行為そのものなのであるといえる。このころ倉橋氏は伝統への回帰ということを考えていたはずで(「夢の浮橋」はその一つの試みなのであったと思われる)、ヴァージニアという女性あるいはそれがたずさわっている写真とか映画というジャンルも、それを考えるための一つの考察枠となった。倉橋氏を伝統あるいは型へと向かわせたのは(「反悲劇」は型に準拠した小説のひとつの試みであったのだろう)、自己顕示というものへの嫌悪であって、吉田健一にむかったのも吉田氏が一人称単数を使わずに日本語を書くというある点では異様な試みをしていたこととかかわりがあるだろうことも間違いない。吉田氏は普通なら「わたくし」と書くところで「こちら」とか「こっち」と書くのである。「それはまだこちらが若かったということなのであるが」といったように。
 そういう自己顕示ではない文学を目指す文学一方で、自己顕示をする子供っぽい人間を嗤い、それと反対の大人を描くという方向がはじまり、それが桂子さんものとなっていく(因みに吉田氏の「瓦礫の中」「絵空ごと」「本当のような話」などはいずれも、吉田健一が理想とするヨーロッパ18世紀人の文明人が現代日本に生きる話である。もちろんそんなことは実際にはありえないことは吉田氏自身がよく知っていて、だから「絵空ごと」であり「本当のような話」なのである。そしてそこには愚者や子供たちはでてこない)。その世界は大人である賢者が愚かな子供たちを支配するユートピアなのである。そのようなユートピアを描くことで、ようやく氏は、自己顕示を競い合う愚者ばかりである日本で生きる鬱屈から逃れることができたのかもしれない。でもそのような自己顕示を嗤うのもまたどこかに自己顕示の要素をふくんでいないだろうかというのが難しいところである。しかし、それを考え出したら沈黙しかなくなる。
 単行本「ヴァージニア」には「霊魂」というとても洒落た短編も併収されている。倉橋氏は素人を軽蔑していた。自身、小説のプロとしての自負あるいはプロの散文の書き手としての自負をもっていた。氏の最良の資質はこういう方向にあったのかもしれない。以後の怪奇掌編とかは、この路線の延長の上にあったのであろう。
 
 わたくしにとって倉橋氏は三島由紀夫吉田健一を導きの師とした後、のちに吉田健一を一人だけの師と定めたという、自分と同じ経路をたどった人としてづっと関心があった。おそらく倉橋氏は福田恆存などにも帰依していたはずであって、わたくしと関心範囲が重なっている。そういうこともあって、今回、死の報に接して、氏の残したものについて少し考えてみた。
 倉橋氏の書くもの追いかけてきて今思うのは、吉田健一を訳知りの大人の文学者として見ることの危うさというようなことである。倉橋氏は明らかに吉田氏をそういう目でみている。しかし吉田氏は非常に子供っぽいところと狂的なところを同時にもったひとでもあって、そういう面を見落とすと何かが欠けてしまうように思う。吉田健一をT・S・エリオットのように扱うことは危険なのである。


(2006年4月16日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)