小熊英二「日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学」(1)
600ページ近い新書としては異例の厚さの本で、正直、非常に読みにくい。「雇用・教育・福祉の歴史社会学」という副題がつけられているが、主に論じられるのは雇用の問題で、新卒一括採用、年功序列、終身雇用といったいわゆる世界から見てかなり特異とされる日本の雇用のありかたが、日本の近代の歴史のなかでどのように形成されてきたかを論じたものである。したがって学術書という側面も持つ著作であるが、学術書としての通常の書き方である、まず先行研究を紹介し、それを批判的に検討した後、自説を展開していくといった書き方はされていない。
そうかといって新書という形式の要請で、読者の関心をつないでいくために適宜興味深いエピソードも交えていくといったサービス精神はほぼゼロである。
しかもあることが論じられると、そのあとに、「ただし」とか「とはいえ」とか「しかし」とか「だが」とか「実は」とか「もっともこれは」とか、前段の議論を限定したり、ひっくり返したりする論が続くことが多く、なかなか議論が直線的に進んではいかない。
それは学問的良心なのかもしれないが、読み物としての側面も持つ新書としてはかなりつらい本となっている。
それでは、なんでわざわざそんな本を読んでいるのかというと、それはもっぱらわたくしが現在産業医という仕事をしていることによる。産業医というのはある規模以上の事業所では任用が義務づけられている、そこで働くひとが業務を遂行することによって健康を害さないように管理することなどを主たる業務とする仕事である。
しかし医者という仕事はもともときわめて一匹狼的な色彩が強い業務なので、凡そ組織といったものにはなじまないので、会社という組織体そのものが一向にぴんとこない。まして、わたくしのように産業医の仕事を60歳すぎてからはじめたものにとっては、会社という組織ではたらくひとも気持ちというのが根っこのところではよく理解できないところが多いし、新卒一括採用、年功序列、終身雇用といったシステムのそとで生きてきているので、そういうシステムが会社で働くひとにとって持つ意味というのが実感としてはわかっていない。
さらに個人的事情がある。前の東京オリンピックが開催されたのはわたくしが高校3年の時で、どういうわけかそのころ根性といった言葉が猖獗をきわめていた。日紡貝塚という女子バレーボールのチームがあって、その監督の確か大松博文というひとがいて、その言葉の旗振りというか震源地だったような記憶がある。
その頃、ニュースなどを見ていると少なくとも一部の日本人は根性とかいった言葉が大好きなようであって、会社という組織でも新入社員に自衛隊に体験入隊を強制するとか、寒い時に滝に打たれさせたりている報道がやたらと目についた。小さい時から運動神経ゼロの根性なしであった人間として、高校一年のとき、それまでの文学部志向をやめにした時、さて将来どうしようかと考えたときに、すでにはじまっていた、体育会系志向のような風潮をみて、ヤバイ、とにかくサラリーマンにだけはなるまいと思った。しかし当時は「13歳のハローワーク」といった本はなく、会社員でない仕事というのも具体的なイメージがつかめず、たまたま父もまた勤務医であったという身近なモデルの存在から医者という道を選んだ。したがって、医者になるといっても、開業するといった選択を考えたことは一度もなく、研究者になるということを考えたこともない。
医者になって数年は大学で学位の取得のための研究と称することをしていて、その学位がとれる目途が34歳ごろについたので、どこか外の病院にでて臨床の仕事をすることを考えていたところ、たまたま卒後の臨床研修でお世話になった病院の先生から、学位もとれたのなら大学にいてもしょうがないから、うちにこないかという誘いを受けて、じゃあということで出た病院にでて、結局30年以上も務めることになってしまった。
そしてさらに特殊な事情があって、その勤めた病院というのが某大企業が設立した病院でいわゆる企業律の病院で(ある時期の大きな企業は中根千枝さんがいう「ワンセット構成」で本業以外に物流から金融までなんでも自前で一式もとうとしていた)、つまりわたくしはその企業の構成員、つまり会社員にその時点でなったはずなのだが、勤めて半年くらい自分はその病院に就職したのであって、その会社に就職したという意識がなかった。事実、就職時に労働契約書のようなものを交わした記憶もない。
病院に勤めはじめて半年くらいしたときに、ある先輩から、「君は会社員なのだから転勤もあるよね?」といわれてはじめて会社員になったことに気が付いた(その企業はその下にいくつかの病院を持っていたので、後から考えれば、その病院間での移動はありえたわけである。しかし就職時、その企業が他にいくつも病院も持っていることさえ知らなかった)。
いまから考えると、最近、雇用の問題でよくいわれる「メンバーシップ型」と「ジョブ型」という区分でいえば、わたくしは典型的な「ジョブ型」の採用であったのだと思う。命令により転勤があるなどということは微塵も考えなかったし、「君は内科で採用したけれど、明日から外科をやってくれたまえ」といわれることもないだろうし、ましてや「来月から医者ではなく病院事務をやってくれ」といわれることもないだろうと信じていたわけである。
日本的な雇用形態とはまったく異なるかたちで某大企業の社員であったという特殊な履歴をもつ人間が、産業医という仕事にも携わるようになったため、日本の会社組織というものにいやでも関心をもたざるをえないことになった。それで、このかなり読みにくい本も職業上の必要から、何とか読み通した。
そして以前から日本人論のようなものに関心をもってきたということも、もう一つの本書を読む背景となったかもしれない。山本七平、小室直樹、内田樹といった人たちの論を面白がって読んできたこと、特に山本氏の本から日本の軍隊組織が日本の組織の原型になっているのではないか、という示唆を与えられたこと、あるいはもっといえばやくざ組織のようなもの、一宿一飯の恩義、義理と人情、俺の目を見ろ、何にもいうな、黙って俺について来い、の世界が、会社という組織の一番根っこにあるのではないかというようなことを以前から漠然と考えてきたことなどもあって、あるいは村上奏亮氏らの「文明としてのイエ社会」のような本、あるいは河合隼雄氏の「中空構造日本の深層」のような本にも親しんできたこともあって、それについて考える補助線として本書の主張が使えるかもしれないと考えたことも、なんとかこの本を読み通すことができた背景の一つにあったかもしれない。(小熊氏は日本文化論的なものに批判的である。)
せめてこの後、第一章だけでも見ていこうかと思ったが、その章だけでも100ページもあるので、稿をあらためることにする。
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