斎藤環「人間にとって健康とは何か」
PHP新書 2016年5月
斎藤氏はひきこもりに関する著作はいろいろと教えられるものがあるのだが、「戦闘美少女・・」という方面はいたって苦手で、ちょっと東浩紀氏に似た印象のかたである。こちらは精神分析が苦手でましてやラカンなどというのは敬して遠ざけているということもある。
それで本書はこういうタイトルの本ではあるが、特に健康について述べた本ではない(と思う)。そもそも「人間にとって健康とは何か」という問いに意味があるとは思えない。斎藤氏は精神科医であるので、本書での健康も主として精神科領域におけるそれを論じているのだが、精神科で健康などということを論じだしたら泥沼だと思う。
それでここでは、本書で頻用される「SOC」と「レジリエンス」という語をとりあげてみたい。このような略語とか横文字をカタカナ化しただけのものというのはピンとこなくて困るのだが、SOCは「センス・オブ・コヒーレンス」(Sense of coherence)の略で、Coherence 自体があまりなじみがない言葉であるが「首尾一貫性」といったことをいう語らしい。それで日本語では「首尾一貫感覚」と訳される。本書ではSOCという略号のまま使用される。首尾一貫感覚という日本語にしたほうがいいように感じた。これは次の三つの要素からなるとされる。「把握可能性」「処理可能性」「有意味感」である。それを斎藤氏は、「わかる」「できる」「意味がある」と言い換える。「把握可能性」とは「自分の置かれている状況を一貫性のあるものとして理解し、説明や予測が可能であると見なす感覚」をいう。「処理可能性」とは「困難な状況にあっても、それを解決する能力が自分にはあり、先に進められるという感覚」である。「有意味性」とは「自分のしていることは自分の人生にとって意味があるという感覚」をいう。 これらの説明をみてもわかるように、これはある人がなにかしている(あるいはさせられている)という状況である。斎藤氏はこのSOCが高いことが健康であることだとしている。普通、健康というと血圧とかコレステロールという話になるが、こういうものも脳卒中とか心臓血管障害をおこすことで結果的に寿命を縮めることが問題になる。それで健康の指標としてとりあえず寿命を用いることにすると、SOCの悪いひとは寿命が短いことが知られている。とすれば、斎藤氏のいうようにSOCは健康の指標でありうる。しかし、それはたかだか健康の指標の一つに過ぎない。
とにかく、SOCが健康にかかわるとすると、仕事そのものが健康に関係することになる。実際に地位の高いひとは地位の低いひとより長生きであることがはっきりとしめされている。いわゆる格差医学であって、地位の高いひとが長生きなのはSOCと関係しているといわれている。地位の高いひとは命令するひとであり、低いひとはされるひとである。仕事をやらされたと感じているひとがいつも自分の仕事の把握していると感じているとは限らない。それは自分の能力を超えていると感じるかもしれないし、それが意味があるとも思えないかもしれない。そう感じることは当然健康に悪いわけである。日本の職場ではきわめて長時間の残業が多いことが問題になっているが、同じ長時間の残業でも「自分は仕事の内容をよく理解していて、それは自分の能力からいって対処できるし、これは自分の人生にとっても貴重な体験である」と感じているひとへの影響は、上司からいわれた仕事だが、やっている意味がわからず、時間の無駄としか思えないと思っているひとへの影響よりずっと少ないはずである。
前に高橋伸夫氏の「虚妄の成果主義」を読んだとき、自己決定権と満足度の関係、見通し指数と満足度の関係などが指摘されていた。自己裁量権が高く、将来が見通せる仕事をしているならば仕事の満足度が高いということである。高橋氏は健康といったことについてはまったく議論していないが、議論の方向は斎藤氏と同じである。
わたくしが何となくでもSOCという言葉を知っていたのは産業医をしているからで、先の見えないやらされ感のある仕事の多い職場からはうつなどのメンタル疾患発生のリスクは高いといわれている。したがって斎藤氏のいってことはメンタル疾患についてはすでに広くいわれていることであり、身体疾患についても従来からの格差医学での主張をふまえれば特に事新しいことではないということになるのだと思う。
次にレジリエンス。これは resilience で、もともとは物理学での用語で、外圧による歪みを跳ね返す力を指すものらしい。それが心理学の用語として、嫌なことや辛いこと、悲しいことから生じる嫌な気分をもとの正常な状態に戻す力を指すことになった。斎藤氏が本書で使っている用語によれば「心が折れない」ようにする力ということいなる。SOCもそうらしいが、もともとホロコーストで生き残ったひとの研究から発しているらしい。深刻な危機、逆境を乗り越える力を持つ人の特性の研究である。
SOCの根底は首尾一貫性であるとすると、レジリエンスは柔軟性や多様性である。
本書ではヤンキー文化論であるとか、丸山真男の古層、山本七平の日本教といった方向に話題がふれていって一種の日本文化論になっていく。ヤンキー文化論は鹿島茂氏の「ドーダの人、小林秀雄」でも論じられているので、そこであらためて考えてみたいと思うが、「古層」とか「日本教」は個々人の問題ではなく、その個々人を支配する「日本に固有に存在する何ものか」を論じているものだと思う。
一方、SOCもレジリエンスもともに一人の人間がある危機的な状況に対応していく力のようなものをいっていて、視点は個人の側にある。わたくしには斎藤氏は基本的に個人を信じる西欧型の知識人であるように思われ、日本を覆う「空気」の重さのようなものにはあまり敏感ではないように思う。
最近、産業医療の仕事の関係で少し勉強している日本における仕事での「メンバーシップ型」と「ジョブ型」の区別(濱口桂一郎氏の造語)ということも、山本七平氏のいう「会社が機能すれば、そこに会社共同体を生ずるし、また会社を機能させるには、それを共同体にしなければならない」という問題の一つの変奏であるように感じる。一般化して、機能集団と共同体という問題であり、日本の大企業の就業はほとんどがメンバーシップ型であるが、例外が医師、看護師、薬剤師といった職で、これはジョブ型である。斎藤氏も医師としてジョブ型で生きてきた方であるし、わたくしもまた同様である。
そうすると産業医という会社の医者は、会社という組織の一番根っこにあるものについては実感としては本当のところを少しも理解できていないという根源的な問題を抱えていることになる。山本七平氏によれば、日本を支配しているのは鎌倉時代以来の武士(武装農民)の心情(倫理)であり、貞永式目に体現されている一所懸命の精神はいまだにわれわれを支配しているのであるが、今のサラリーマンもまた武士の残影であるかもしれないわけで、会社という一所に懸命しているのかもしれない。丸山真男にしても何とか西洋風の個人(市民?)を日本に根付かせようとして挫折し、古層といった方向を考えるようになったのかもしれない。
明らかに斎藤氏は「個人」の側で思考している。SOCもレジリエンスも個人の側が集団のもたらす圧力に抵抗するための方法である。組織がもたらす圧に負けて個人が潰れてしまうのはつまらないことであり、そういうことはなくしていかなければならない。だから個々人はSOCを持ち、レジリエンスを備えなければならないということになる。しかし、その個人が自分よりも会社が大事と思うのであれば、話が違ってくる。そして話はひとは個人として生きるのが幸せか、集団の一員としていきるのが幸せかという、リバタリアニズム対コミュニタリアニズムといった方向へとどんどんと拡散してしまって収拾がつかなくなる。あるいはこれはプロテスタンティズム対カトリックということ根本のところではなるのかもしれない。
健康という問題も根がとても深いことになる。
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