R・ドーア 「働くということ グローバル化と労働の新しい意味」

  [中公新書 2005年4月25日初版]


 著者ドーアはイギリス生まれの社会学者。しばしば来日し、日本の状況についてもくわしい人らしい。本書は「ますますグローバル化する世界における労働の新しい形、新しい意味」と題して2003年にIOCに提出された論文を翻訳したものに日本向けの加筆を加えたものということである。まずその論を見ていく。
 1930年、ケインズは「われわれの孫たちにとっての経済的可能性」において、技術の進歩により20世紀の終りには、われれれは週5時間程度働けばいいようになっていると予言した。しかし現在世界でもっとも豊かであるアメリカは同時に年間労働時間のもっとも長い国の一つでもある。アメリカよりは余暇を大切にするヨーロッパにおいても、ドイツ・フランスでは年間労働時間延長の動きがでている。それをしないと「経済競争」に負けてしまうからである。
 21世紀の初頭において、なぜそんなに人は働くのか? 最近、階層の二極化の傾向がどこの国でも進んでいる。これはとどめることのできない傾向なのだろうか? それとも反転可能な一時的な現象なのか? ある一国がそれを阻止しようとした場合に、それは出来るのか? それともグローバル化の流れの中では無意味な抵抗なのか? なぜケインズ以降の経済成長にもかかわらず、余暇はそれほど増えていないのか?
 それへの第一の説明は人間のとどまることのない欲望の拡大である。欲望にもとづく消費の拡大に対してはいつの時代にも批判はある。しかし、経済成長なしには失業は防げないということは経済学的な合意となっている。
 現在、アメリカは自分たちが生産するよりも、5.5%多く消費し、反対に(特にアジアなどの)生産より少なく消費する国がアメリカに余剰を輸出する。輸出各国はそれで得たドルをアメリカに投資する。世界はアメリカ人の身のほど知らずの消費(浪費)によってなりたっている。なぜアメリカ人が長時間働くかといえば、そうしなければ欲しいものが買えないからである。
 アメリカでは階層が上の人のほうが長時間働く。しかし、世界どこでもそうなのではない。スエーデンではどの階層もほぼ同じであり、イタリアやスイスでは、低い階層ほど長時間働く。日本はアメリカ型である。
 現在の世界の先進工業国ではどこでも、労働時間の延長の動きが見られる。これはレーガンサッチャー以来の1980年以降の個人主義市場経済の世界ではどこでもそうである。日本はアングロサクソンの世界でおきたことを20年遅れで追っているに過ぎない。このアングロサクソン型の個人主義市場経済が普遍的なものであるのかが最大の問題であるが、日本の経済官僚、特に若手官僚はほとんどがそう信じている。
 アングロサクソン型の個人主義市場経済は効率を第一とするものであり、効率達成のためには市場経済しかないと考えている。日本の企業は従業員主権から株主主権へとこの10年ほどの間に大きく考えを変えた。
 また多くの国は完全雇用を追求するとインフレをまねくと考えるようになり、1980年代以降の欧米では、優先順位を完全雇用から国家競争力強化へと移行させていった。
 福祉保障と平等主義への関心は60年から70年にピークを迎えたのであり、その後は衰退している。
 ケインズはなぜ間違ったのか? 彼は人間の競争本能を十分に予期できなかった。
 日本はかつて現在の中国のように先進工業国の破壊者であった。あるイギリスの名門企業の経営者がいっていた。「当社も以前は終身雇用、年功制であり、余剰人数もかかえている日本のような企業だったのです。そうする余裕がありました。日本との競争に直面するまでは」
 企業は余裕がなくなると、新人を教育するよりも現在いる熟練者をもっと働かせるほうが効率がいいと思うようになる。
 成果主義の最も単純なやりかたは出来高払いである。当然この形態では20歳後半の賃金が最高になる。しかし出来高払いには矛盾がある。ある労働者の出来高が悪かったとしても、それは材料が届かなかったためであるとしたら、彼には責任はない。この矛盾は解決不能であり、段々と時間給へと移行していった。
 通常、年功制とは、官僚、警察、軍隊などでの制度である。つまり原則、公共部門の制度であるものが、日本では民間にまで及んでいるというのが特徴である。サッチャーは公共部門にも民間の制度を導入しようとした。
 多くの仕事の中には、継続的にしても退屈にならないような種類のものもある。知的労働、芸術活動、リーダーシップの発揮、指揮権の行使などである。あるいはそれにギャンブラーの興奮を付け加えてもいいのかもしれない。金融市場の投機的行動などはその典型かもしれない。外国為替市場では国際貿易決済に必要な額の200倍以上のお金が投機のために動いている。それはギャンブラーの興奮をもたらすであろう。しかしその活動は「社会的に有用なものなの」だろうか? 1947年には、金融サービスは全企業収入の8%、1970年には20%であったが、2000年にはそれが40%にもなっている。
 しかし、多くのそれ自体は面白くない仕事でも、仕事に携わることにより、社会に組み込まれている、社会から疎外されていないという意識をその人にあたえるという面、威信の側面においては、大きな意味をもっている。
 個人的満足感と社会的有用性はどちらが大事なのか? 江戸時代の士農工商イデオロギーのもとでは商は虚業であった。渋沢栄一はその意識を払拭するために実業をという言葉をつくった。彼は投機を否定し、起業家のリスクを強調した。
 仕事が不快であるならば、それには高く支払われるべきであるという考えがある。しかし実際には、もっとも面白い仕事をしているひとがもっとも多くもらっているのである。それは現在ではものの値段を決めるのは市場であることになっているからである。
 労働市場の柔軟性という言葉がある。これは本来硬直性の反対語である。労働市場の硬直性とは、たとえば配線をする人は壁に穴を開ける人とは別というようなことである。配線と壁の工事はそれぞれ別の組合に属する人の仕事であり、相手の仕事をしてはならない。実際にそのようなことはそう遠くない昔のイギリスにはあり、サッチャーはそれを打破しようとした。しかし、このことはいつの間にか、時代遅れになった部門を廃止し、その部門の労働者を新たな仕事にふりむけることを意味するようになった。どのような仕事にも対応できる柔軟性をもった労働者が優れた労働者なのであり、一つのことしかできない労働者は現在においては取り残されて失業者になってしまっても、それは本人の責任であるというようなことを意味するようになった。企業は内部で教育することを放棄し、必要な技能をもった人間を必要なときだけ雇用し、不要になれば解雇するようになった。このことが労働市場の柔軟性とよばれ肯定的に見られるようになってきている。
 簡単に人員整理できるということは、外部的な労働の柔軟性はであるが、従来は企業は内部的柔軟性、すなわち企業内部での人の移動によるやりくりなどで問題に対応していた。内部的柔軟性を重視するやりかたは日本的なものなのか? 欧米では内部的柔軟性を追求すると労働者はさぼると考えている。つまり、失業という恐怖がないと人は真面目に働かないと考えている。日本でも、動きは明らかに欧米流にむかっている。欧米流は短期的利益と結びつき、日本流は長期的利益と結びつくということがあるだろうか?
 現在の潮流はその二本立てである。中核的従業員は長期的雇用を維持し、周辺的な労働は短期的にその時々の雇用で対応しようという動きである。
 1980年代から、差異の拡大の傾向が欧米諸国でめだってきた。これは当初、一時的なものとも見られていたが、現在では先進工業国での持続的な傾向と考えられるようになってきている。その説明としては、労働組合の力の低下、技術の変化、低賃金途上国の世界貿易への統合などがあげられている。
 集産主義的傾向は20世紀第Ⅲ四半期に頂点をむかえた。この思想にもとづく福祉への志向は明らかに後退している。それにかわって自立、自助、機会の平等、自主性などが強調されるようになってきている。すなわち市場個人主義が隆盛となっている。
 集産主義の隆盛は1930年代の恐慌と第二次世界大戦への国家的結束という要素が大きくかかわっていた。戦争の記憶が薄れ、われわれがとにかくも豊かになり、性の革命により欲望の追求が肯定されるようになり、一家の稼ぎ手モデルが揺らいできたことなどにより、集産主義は後退せざるをえなくなった。しかし一番大きい因子は階級構造の変化、平等化の達成であったであろう。しかしふたたび階級分化、階層分化の方向へ向かう兆しがどの国においても見られている。
 世界各国の中枢を牛耳る文化的エリートたちはみなグローバリズムアメリカニズム、市場的個人主義を志向しているという潮流がある。しかし、それでも各国文化はそれぞれの文化的エリートの行動に何がしかの制約を加えるだけの力をまだもっているのだろうか?
 
 わたくしは、日本の企業に現在みられるリストラへの動き、成果主義などへの動きは、主としてバブルの崩壊以降の不況への対応であると思っていたので、これらの動きは基本的には全世界的な動きなのであり、日本はむしろ世界の動きを20年遅れで追っているに過ぎないという本書の主張には教えられるところが多かった。
 本書はILOへの報告という性格から著者の主張が前面にでているわけではないが、明らかに著者はグローバリズムに批判的であり、日本的な終身雇用、年功制に好意的である。それらは長期的にみれば決して非効率な制度ではないのである。しかし、世界は短期的な収支の見込みを優先せざるをえなくなっているので、それを放棄せざるをえなくなっている。
 著者が問題にしているのは、それがやむなく放棄されているのではなく、進んで放棄されようとしているのではないかという点である。つまりやむなく放棄されるのであれば、将来それが回復される方向もありうることになる。しかし、進んで放棄するのであれば、将来それが回復されることはないであろう。
 これだけの技術の発達にもかかわらず、労働時間が減っていない、あるいは最近ではむしろ増える方向にあるというのは、著者も指摘するように明らかな矛盾である。なぜそうなのか? 他国に負けないために。
 間違いなく、ある時期の日本は労働を厭うことなく長時間働き、それにより世界を制覇した。労働を toil & strife と見て労働時間の減ることを善とみていた国も否応なしに働かざるをえなくなった。みんなが競争して全員がくたくたになっているというのであれば、それは何のためという疑問が当然でてくる。
 そして、やりがいのある生産的な仕事をしている少数者が豊かになり、toil & strife の仕事をする多数が貧しくなっていくという方向が避けられないのだとしたら。特にその疑問は大きくなる。そういう仕事であっても社会に組み込まれているということを示すものであり、本人のプライドに寄与するとしても。
 なにかがどこかでおかしくなっている。しかし、ひょっとするとその流れは逆転できないのかもしれない、という著者の苦い思いが本書の底流にある。日産はゴーン氏のもとで劇的な業績の回復をした。その過程で系列などを大幅に切捨てた。しかし、最近ふたたび系列の構築に動き出しているのだそうである。短期的には有効な手段であっても長期的にはそうとはいえないという判断なのだそうである。
 とすれば、世界的にみれば、どこでもとにかく今を生き延びねばならない、明日のことなど考えられないという状態になっているのであろうか? 本当は豊かな国が今日のことではなく明日のことを考えねばならないのである。しかし、一番豊かであることになっているアメリカは最大の借金国でもある。世界のどこにも明日のことが考えられる国がないということなのであろうか? なんだか変である。
 どうすればいいのかわからないとしても、大事なことは変なことは変という感覚を持ち続けていくことなのであろう。これしか方向がないのだから、それは変ではないのだという理屈は変なのである。
 

(2006年4月16日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)