ウルフ ペデルセン ローゼンベルク「人間と医学」(3)

     博品社 1996年
 
 第7章「確率と確信」。
 われわれがある治療を選ぶ場合、その治療がうまくいく確率が70%であるというような場合、それが意味するものはどういうことなのだろうかという問題が議論される。
通常、確率とはたくさんの試行をした場合(反復試行)にそこで観察される事象の現れ方をいう。一回限りのことについての確率というのは意味をなさない。いま目の前にいる患者さんにその治療をおこなう場合、それはうまくいくかいかないかである。それならば50%の確率かといえば、もちろんそんなことはない。通常そういう言い方が意味するものは、過去にその治療をおこなった経験ではたとえば100人に治療をして70人ではうまくいったというようなことであろう。つまり過去の傾向が今後もそのまま続くであろうという信念がそれを支えていることになる。つまり帰納的思考が背景がある。
 それなら、いままで一回もなされたことのない手術を行う場合に、それがうまくいく確率は20%くらいであろうというような言明の意味するものはどういうことなのだろうか? それは確率をいっているのではなく、信念の度合いを表しているのだというのが本書の指摘である。主観的確信の度合いであり、そこから主観確率という言葉が導入されてくる。
 通常教科書では、この病気の場合にこういう症状がでるのは何%くらいという書き方がされる。しかし、日常臨床で知りたいのは、こういう症状がある場合○○という病気である可能性はどのくらいか、あるいは○○という病気でなくてもこういう症状がでる可能性はどのくらいかといったことの方である。教科書的な確率から臨床的な確率に変換するのは容易ではないがといって著者たちが導入してくるのが、ベイズの定理である。このベイズの定理として示される数式では、そもそも目の前にいる患者がその病気である確率がどのくらいであるであるとその臨床家が見積もっているかという数字が必要になる。ここではそれは事前確率の評価という言い方をされている。つまりその臨床家がいる環境のなかで、今想定している疾患の頻度がどのくらいであるかという知識、つまり疫学的知識が必要とされるということで、これは素直に首肯できる話である。医学部で病気について学ぶとき、疾患は並列的にならんでいる。貧血であれば、鉄欠乏性貧血、溶血性貧血、再生不良性貧血・・が並んでいる。しかし日常臨床で圧倒的に多いのは鉄欠乏によるものであるから、貧血の患者さんをみたときに再生不良性貧血や溶血性貧血といったものを最初から鑑別にくわえることは通常しない。大学をでたばかりの医者がしばしば役にたたないのは、医学的には興味があるけれども実際にはきわめて珍しい病気といったものばかりが頭に浮かんできて、ごくありふれた病気への考察が後回しにされてしまうからでもある。
 さてそれならば、この疾患の治療としてAという治療法はBという治療よりも優れているという言明についてはどうだろうか? 著者らによればこれは正しいか間違っているかであって、頻度の言葉(つまり反復試行からでてくる数値)であらわすことはできない。だから、そこでもしも確率的な言葉が用いられるとしても、それは反復試行を前提にした頻度確率とは関係ないものであるとして、それを主観確率と呼ぶ。
 このあたりからよくわからなくなるのだが、事前確率といわれたものと主観確率というのがどのような関係にあるのだろう? Aという治療とBという治療のどちらが優れているかそれを決めるのは主観なのだろうか? 通常それを決めるのもまた文献的な知識である。教科書に書かれていたり、医学雑誌に書かれていたりする知見がまず優先する。それと自分の経験の積み重ねである。
 しかし、《この疾患の治療としてAという治療法はBという治療よりも優れているという言明》が正しいか間違っているかのどちらかであるといえるだろうか? ある疾患の治療法としてAとBがある。Aは根治は期し難いが、当面の小康状態は期待することができて、その小康状態は1から3年程度を期待できるが、いずれ疾患は悪化し、一旦そうなるとその後は有効な治療法はない。Bは根治を期すことのできる治療法であるが、奏効率は20%程度であって、残りは副作用死や重篤な後遺症を残す可能性が高く、この治療をした患者の平均予後は1年3ケ月である、というような場合どちらの治療法が優れているか決めることはできるだろうか?
 あるいは二つの高血圧の薬があり、一方は速やかな降圧が得られる。もう一つは降圧効果がやや弱く降圧が得られるまで一定の時間が必要であるが、10年後の高血圧による腎臓合併症の頻度が前者よりも少し低い、というような場合、どちらが優れているかという議論が可能なのだろうか?
 著者らは医学には科学としての部分があることを擁護するという方向と、しかし医療は科学だけでは律することはできないということを主張するということの間で揺れ動いている印象があり、本章も医療は客観的だけではないのだということから主観確率という言葉を導入すること、あるいは読者に頻度確率と主観確率の違いを理解してもらうというころを主目的としているように思えるのだが、ベイズの定理とか主観確率といったものが統計学という学問の中でどの程度認知され公認されているものであるのかが、統計学の門外漢であるわたくしには見当もつかないので、ここでの議論がかなり恣意的なのではないかと印象がぬぐえない。
 ベイズの定理とか主観確率といったことについてわたくしはほとんど何も理解できなのだが(本章にかかれているように医者はほとんど統計学についてなにもわかっておらず、統計学者は医療について何もわかっていないから、医学論文における統計数字というのはほとんど無意味な計算の羅列であるというのはその通りなのであろう)、この問題が帰納と演繹の問題、実在論と経験論といった哲学の問題と通じているのであろうことだけはうっすらと理解できる。
 わたくしの感じからいうと、わたくしが医学を学びだした頃の医療は主観論の横溢する世界で、「俺はこの薬が効くと思う」「いや自分はこっち」といった学問以前の世界であったように思う。そこに統計学が導入されてきたのは、それをともかくも客観の世界に引き戻そうという試みであって、偉い先生がいったから正しいといった世界から、価値中立な数字がものをいう世界に、要するにいささかは学問的な世界へと医療もむかってきたということなのであったと思う。帰納と演繹の問題とか、実在論と経験論といった高級な方面の問題ではなかった。
 だから信念の度合いとか、主観確率などというものを導入する準備が臨床の場にあるのかどうか疑問もあるように思う。学問としての医学は客観にこだわっていないと危ういのではないかという気もする。
 しかし、医療のなかで客観的などということをいっていられない部門として精神医学がある。次章では精神医学の問題が論じられる。
 

人間と医学

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