ウルフ ペデルセン ローゼンベルク「人間と医学」(4)

     博品社 1996年
 
 第8章「精神医学への自然主義的アプローチ」
 この本はだいぶ以前に書かれた本であるので、最初が〈反精神医学〉の話からはじまる。一時、一世を風靡したレインらの〈反精神医学〉は精神疾患などというものはないと主張する。それは社会が張ったレッテルに過ぎないという。著者らによれば、それは明らかに行き過ぎの主張であったのだが、それにもかかわらず、精神医学の根拠をみんなに考えさせるきっかけになったという点で有益であった。いかに精神疾患を認識するかという認識論の問題と、精神疾患の本性は何かという存在論の双方からそれは有用であった、と。
 精神疾患については、一方に経験論的見方がある。その典型がDSMである。たとえば10の質問があり、そのうちの7つ以上が○であれば、躁鬱病と定義するというようなやり方である。精神疾患はそれぞれの地域地域で診断が大きく異なることが知られている。それであれば、ある薬剤がその病気に効果があるかという問題に地域ごとにまったく異なった結果が生じるというようなことが当たり前におきてしまう。このDSMの導入によってそのようなことがなくなり治療効果の国際比較が可能になったといわれている。しかしそれでも、いかいも奇異な疾患の定義であるように思える。内科でも膠原病などではそのような診断法が使われていることがあるが、一般には、心筋梗塞とは冠状動脈が閉塞した状態であるとか、肺結核とは結核菌によって生じた肺の病変であるとかいった、病理学的あるいは病態生理学的な背景、つまり存在論的見方がそこに想定されている。しかしDSMではそのような背景は想定されない。それが奇妙である。しかし、精神疾患についてはつい最近まで病理学的あるいは病態生理学的な背景がまったくみつからなかったという点が、そのような診断が導入されざるをえなった原因となったのではあろうと思われる。精神科にエポックをもたらしたのは、有効な薬物の発見である。ある薬が効くということから、その基に病態薬理学的変化が想定されるようになり、またある薬が効く病気と効かない病気があるということが二つの疾患をわける有力な根拠にもなってきた。有効な薬剤の発見によって精神医学の分野にも存在論的見方が導入されてくることになった。
 精神疾患については3つの見方がある。1)精神疾患も他の身体疾患と変わらない生物学的根拠をもち、機械モデルで説明可能であるとする見方。2)行動主義的見方。3)社会問題として精神疾患をみる見方である。2)や3)の立場にたつと心理学や社会学の分野に精神医学は近いことになる。現在の精神医学はそれらを折衷したものであるが、それでも大きくいえば自然主義的な見方によっていると著者らはいい、それにかわる見方を提言する。それが次章になる。
 
 第9章「解釈学、拡大した観点から見た人間の本性」
 ここで著者らがいいたいことは、「人間は生物学的な有機体をこえたもので、医学は自然科学の一部門をこえたものである」ということである。著者らによれば、ロック・ヒューム、ポパー、クーンといった哲学者は自然主義的伝統の中にあるが、非自然主義的な観念を論じるためにはキルケゴールハイデガーサルトルといった大陸の哲学者を参照しなくてはいけない、という。要するに実存主義現象学といった流れであるが、それを解釈学という名前で呼ぶ。自由に行動する個という視点が必要なのだということである。自然主義的伝統では、人間は動物となんら変わりがないことになってしまい、人が人格であり、たんなる生物機械ではないことをとりこめず、精神とか自己という問題はあつかえないのだという。自己省察する自由な存在としての人間という視点がそこにはない、と。
 たとえば、(キルケゴールによれば)不安は人間の属性なのであり、不安を持つのは人間ならば当然のことなのである。それを不安をよくないものとみて、それを克服の対象としようという発想は人間を単なる動物であるとする視点から生じてくるのであるという。
 著者らがいいたいのは人間は能動的な存在であるのに対して、自然主義的見方とは人間を受動的な環境や社会に影響されるだけの存在としてみるいたって不十分なものということのようである。不安には抗不安薬を用いればいいという見方からはリアルな生は得られず、自然主義的な見方からは患者の全体性が見えてこない。
 客観的真理と主観的真理があり、自然科学は客観的真理にのみかかわり、主観的真理については解釈学の出番だというのである。
 ここで例にだされるのがある元気な女性が偶然血圧を測ったところ、高かったことがわかり治療をはじめ正常な血圧になったが、何も症状がないにもかかわらず、高血圧患者となってしまい意気阻喪して元気のない女性になってしまったという例である。医者は高血圧を正常血圧にしたからよいことをしている、というのは自然主義的見方である。トータルとして見た場合、医療はよいことをしているのか?
 日本高血圧学会の高血圧治療ガイドラインというのがある。

至適血圧 < 120 かつ < 80
正常血圧 < 130 かつ < 85
正常高値血圧 130〜139 または 85〜89
1 度高血圧 140〜159 または 90〜99
2 度高血圧 160〜179 または 100〜109
3 度高血圧 ≧180 または ≧ 110
(孤立性)収縮期高血圧 ≧140 かつ < 90

 というものである。それらと患者さんの状態によりこと細かい治療の選択が示されている。いうまでもなく、数字と患者さんの状態(他の合併症があるか否か)がすべてであって、患者さんの気持ちといったことは考慮の外である。目的は将来の脳血管障害などの合併症の予防であって、患者さんの心理などがはいってくる余地はない。しかしそういうものを考慮に入れた場合、治療についてはケースバイケースとなって、具体的な指標は提示できなくなる。
 実際の臨床の現場では、もちろん患者さんの心理を考慮に入れざるをえないのだが、そこに解釈学などという大層なものを持ち出してくる必要があるのだろうか、と思う。そこに必要なものはごく普通の常識だけなのではないだろうか? ハイデガーなどというほとんどのひとは読んでもまったく意味をとれない難解というか不必要に深刻ぶっているというか、そういう哲学を医療に持ち込んでくることなど百害あって一利もないのではないかと思う。ヒュームによれば、人間は「物事を浅薄にしか考えられないために真理に到達できない人」と「深刻に考えすぎて真理を通り越してしまう人」の二種類にわかれるのであり、医者をふくめたほとんどの自然科学者は「物事を浅薄にしか考えられないために真理に到達できない人」であるのは確かであるのだろうが、ハイデガーなどはわたくしからみると「深刻に考えすぎて真理を通り越してしまう人」なのであって、人間の能力の買いかぶりである。やはりヒュームやポパーの線でとどまるのが安全である。ヒュームによれば「およそ人間は無節操で利に走りやすい悪人であり、人間の行動には私益追求以外の目的はない」のであるが、本書の著者たちは人間がそんなものであると見るのはあまりに寂しいと感じるのであろう。
 一番気になるのは、「人間は生物学的な有機体をこえたもの」という部分で、これはキリスト教的な伝統を離れては成立しない議論なのではないだろうかということである。神によって魂をあたえられた存在であるからこそ、「人間は生物学的な有機体をこえたもの」となるのであり、そのような前提なしに、つまり進化論的な観点、人間は人間以外の動物と連続したものであるとする観点からは導かれないはずである。一方、ヒュームの「およそ人間は無節操で利に走りやすい悪人であり、人間の行動には私益追求以外の目的はない」というのは完全に進化論からの連続の上で成立する。そういっているにもかかわらず、ヒュームが類まれな善人であったことは良く知られているところであるが、自分がそうであるからといってまわりもみんなそうであると思うほどヒュームの目は曇っていなかったということである。
 
 高血圧治療ガイドラインなどを金科玉条にして、あらゆる患者に通り一遍の治療をしている医者を軽蔑して、自分たちはそうではない医者になりたいということなのであろう。ガイドライン医療なら医者はいらない、コンピュータだけあればいいということになる。しかしコンピュータは責任をとらない。医者が存在する理由は責任の所在を明らかにするためでもある。しかし、これは人間関係が生じるところでればでこにおいても生じてくることであり、何も医療にかぎったことでないだろうと思う。
 責任をとるのは人間だけであり、責任という言葉があることが、すでにして単なる「生物学的な有機体をこえたもの」としての人間存在を示しているというような議論もあるかもしれない。確かに言葉を持つのは人間だけである。しかし、それだけのことではないだろうか? 言葉がなければ実態はないということではないはずである。
 それにそもそもハイデガーは責任をとったひとなのだろうか?
 

人間と医学

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マルティン・ハイデガー (岩波現代文庫)

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経済思想の巨人たち (新潮選書)

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