読んできた本(2)

 中学に入ると、算数少年から文転して小説ばかり読んでいる怠惰な中学生となった。
 最初に読んだのが、そのころ河出書房から出ていた世界文学全集の別巻の「風と共に去りぬ」だった。なぜこれを読んだのかはその時刊行されていたからとしかいえないが、この小説の主人公の一人であるレット・バトラーにぞっこんいかれた。「あー、これは僕だ!」というか、彼の言動の一つ一つが我事のように感じられた。今から思うと偽悪家というものの像に初めて出会ったということなのだろうと思う。これは大学教養学部時代にいかれた吉行淳之介の像ともどこか通じるものがあるだろうと思う。
 しかし、ここで世界文学全集の路線の方にいったことは、後から考えるとわたくしの文学理解を大きく一時的にではあれ歪めたと思う。文学=小説、あるいは物語と思い込んだこと、世界文学全集路線だから翻訳で読むわけで、日本語での表現にほとんど関心がいかなかったこと、詩とか評論といったといった本来なら文学の中心にあるはずのものに全く目が向かかなかったことなどである。
 だから、「戦争と平和」も「カラマーゾフの兄弟」も「罪と罰」も「赤と黒」も「ファウスト」も「ボヴァリー夫人」も一通り読んだけれども何も残っていない。(40歳を過ぎて「戦争と平和」や「カラマーゾフの兄弟」などを読み返してみたらとても面白かったけれど)
 さてわたくしは中学に入り図書室の管理のようなことをしていたが(図書室で覚えているのが書架のかなりを占めていた「スターリン全集」や「レーニン全集」である)、毎年ある文化祭で太宰治をとりあげることになった。どなたの発案だったか覚えていないが、あるいは二年先輩の川本三郎さんだっただろうか?

 それで太宰の小説を読んで、文学とは言葉の力によって初めて成立する世界であることを少しは知ることになった。「津軽」とか「ヴィヨンの妻」とか・・。


「子供より親が大事、と思いたい。子供のために、などと古風な道学者みたいな事を殊勝らしく考えてみても、何、子供よりも、その親のほうが弱いのだ。(桜桃

「ノックする。「だれ?」 中から、れいの鴉声からすごえ。 ドアをあけて、田島はおどろき、立ちすくむ。 乱雑。悪臭。 ああ、荒涼こうりょう。四畳半。その畳の表は真黒く光り、波の如く高低があり、縁へりなんてその痕跡こんせきをさえとどめていない。部屋一ぱいに、れいのかつぎの商売道具らしい石油かんやら、りんご箱やら、一升ビンやら、何だか風呂敷に包んだものやら、鳥かごのようなものやら、紙くずやら、ほとんど足の踏み場も無いくらいに、ぬらついて散らばっている。 「なんだ、あなたか。なぜ、来たの?」 そのまた、キヌ子の服装たるや、数年前に見た時の、あの乞食姿、ドロドロによごれたモンペをはき、まったく、男か女か、わからないような感じ。 部屋の壁には、無尽会社の宣伝ポスター、たった一枚、他にはどこを見ても装飾らしいものがない。カーテンさえ無い。これが、二十五、六の娘の部屋か。小さい電球が一つ暗くともって、ただ荒涼。(「グッド・バイ」)

津軽の生きてゐる雰囲気は、以上でだいたい語り尽したやうにも思はれる。私は虚飾を行はなかつた。読者をだましはしなかつた。さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行かう。絶望するな。では、失敬。」(津軽

「曰く、惚れたが悪いか。
 古来、世界中の文芸の哀話の主題は、一にここにかかつてゐると言つても過言ではあるまい。女性にはすべて、この無慈悲な兎が一匹住んでゐるし、男性には、あの善良な狸がいつも溺れかかつてあがいてゐる。作者の、それこそ三十何年来の、頗る不振の経歴に徴して見ても、それは明々白々であつた。おそらくは、また、君に於いても。後略。」(お伽草紙

 これらは文章というつっかえ棒をなくしたら面白くもおかしくもない単なる言説である。それを読めるものにしているのが文章の力であるのに、翻訳の文でひたすら筋を追っていた中学時代の読書というのは後から考えるとほとんど時間の無駄であったのかも知れない。
 とは言っても、通常、我々が小説を読むのは、そこで作者によって造形された登場人物とその行動に興味を惹かれるからで、例えば「戦争と平和」のアンドレイやピエール、そしてナターシャなどは中学生が読んでも何事かを感じさせる人物像であった。有能なニヒリスト?であるアンドレイ、善意であるが無能な理想主義者のピエール、男とは全く違う存在である女性というもの存在をのエッセンスを示すナターシャの像など、人間がこの地上に存在する限りは「戦争と平和」は読まれ続けるであろうが、一方、現在ではすでに誰も読まないであろうと思われるのがその人生論とか「新しき村」に通じるような著作である。わたくしが中学生の頃は、白樺派とか武者小路実篤とかが現役であだまだ読まれていた。つまり、文学とは思想書あるいは社会のありかたを示す書物でもあるとされていたのではないかと思う。

 ところで、その当時の大学受験の国語には小林秀雄からの出題がやたらと多く、受験対策として、あの何が書いてあるのか一向にわからない文章もやむをえず読んでいた。その当時も今もちんぷんかんぷんであることには少しも変わりはないが、それでも氏が敵としていたのが〈観念論〉の系譜であることは朧気ながらわかったような気がした。そして1960年代にはまだ大きな勢力であったマスクス主義も壮大な観念論の一種(千年王国説の変奏として、最終的にわれわれが到達するであろう地上で実現される天国。それを導く生産力)であるということは何とはなしに感じるようになっていた。
 これはその後、大学に入ってすぐに遭遇することになる大学紛争(闘争)へのいささかの免疫にはなったのではないかと思う。