(1) 平和

 
 勢古浩爾さんの「ぼくが真実を口にすると 吉本隆明 88語」というのを最近ちょっと読み返していて、そうかこういうやりかたもあるのかと思った。それで、年があたらまるにさいしてこんなことを始めてみようかと思った次第。50というのにもなんの根拠もなく、週に一度書けば1年で50くらいにはなるかなというだけだし、もちろん毎週書くとも限らず、中途でやめてしまうことも十分ありうるわけで、すべてはなりゆきまかせである。
 それではじめは、

 平和とは何か。それは自分の村から隣の村に行く道の脇に大木が生えてゐて、それを通りすがりに眺めるのを邪魔するものがないことである。或は、去年に比べて今年の柿の方が出来がいいのが話題になることである。

 「文句のいひどほし」という雑文集の中の「平和を愛しませう」より。
 わたくしの吉田健一体験の最初はもっぱら原書房版の「吉田健一全集」によってであった。この「文句のいひどほし」はその第10巻に収載されている。その解説によれば、単行本は昭和36年(1961年)5月に朝日新聞社から刊行されている。全集第10巻は昭和43年(1968年)12月の刊行であるからその七年後である。
 昭和43年(1968年)は例の1968年であるが、わたくしにとっては駒場から本郷に進学した年である。医学部のインターン制度廃止運動としてすでに恒例となっていたストライキ(という名の授業ボイコット)が《東大闘争》へと続いたため、結局翌69年の5月まで医学部の講義はないままであった。ということで、おそらく「安田城落城」前後のあたりのどこからではじめてこの文章に接したのだろうと思う。インターン制度廃止運動は直接「平和」とは関係しないにしても、そのころ「反戦平和」という言葉が普通に使われていた。まだヴェトナム戦争が継続している時で「ベ平連」(ベトナムに平和を市民連合)というのもあって、「平和」というのがほとんど「戦争」の対語として使われるのが普通の時代であった。それで、この吉田健一の言葉に最初に接したときには本当に面食らったものである。
 今でも平和というのがそのときと大して違った使い方をされているとも思えないのは、つい最近まで騒がれていて今ではもうほとんどのひとが忘れてしまっているように思える「戦争法案」という言葉とそれの対としての「平和憲法」という用法にも明かなように思う。吉田健一がこの文章を書いたのは1961年なので、「あの(安保改定の)騒ぎも、何か平和の為だつたと言へないこともない」と書いている。それで「平和を知らなくてそれを無視してゐるさういふ平和主義者達の行動が、現在では最も的確に日本の平和を蝕んでゐるのである」とあって、それが最初に掲げた「平和とは何か。・・」という文に続いている。
 「平和が脅かされて、その為に我々が武器を取る時、或はその脅威から平和を守る運動に加る時、我々にはその目的が達せられなければ、或はそれを達するのが目的で、死ぬ覚悟がある」と吉田氏は書く。さらに氏はいう。「今日の平和主義者の言動を見ると、逆に平和をさういふ言動そのものに求めてゐるやうであつて、それが彼らにとつては平和が何かさういふ観念的なものに過ぎず、彼らの生活にも、頭にも平和はないといふ印象を一掃強めてゐる」のだと。
 最初上に掲げた文を読んで驚いて、わからないままにも、何かそこに大事なものがあると感じて、それで吉田健一の本をいろいろと読み続けることになった。今では、吉田健一が敵とした最大のものが「観念」であったのだなと思うようになている。この「平和を愛しませう」という文の最後は、だから以下のようなものになる。
 「今日の日本で平和を守つてゐるのは、その種の平和主義者ではない。どこの国でもさうだらうが、母親は今日でも、娘の嫁入り先を心配し、商人は期日に手形を落すのに苦労し、技師は何年先に出来上がるのか解らない研究を続けてゐて、さういふ人達が平和が何であるかを知ってゐる。」