V・S・ラマチャンドラン「脳のなかの天使」(1)

    角川書店 2013年3月
 
 これからラマチャンドランの「脳のなかの天使」をみていきたいと思うのだが、まず、回り道をすることからはじめる。
 吉田健一の「覚書」(青土社 1974年)にこういうところがある。

 戦後の日本では人間が動物でなくなつてゐるらしいことを何度も感じたことがあるから前にも書いたことがあるのだらうと思う。何故さういふ事態が生じたのかは解らない。・・キリスト教風に人間だけに不滅の魂といふものがあるとする説がクリスマスとともに取り入れられたのかもしれないがかういふ見方は宗教の教義を離れては迷信に過ぎない。・・人間が動物でないといふのはどう考えても無理な話である。・・進化論そのものは動かせない事実である。・・人間がしたことがあまりにも偉大なのでいつの間にか動物のやうでゐて動物でないものになつたのか。その偉大なことといふのは月旅行か、核兵器か、超音速飛行か。それならば科学上の業績に即して科学を否定してゐることになる。・・
 併しもう一つ我が国で人間と人間以外の動物を区別する働きをしてゐるものに精神の有無といふことがある。・・人間以外の動物には精神がないから、それで・・脳細胞の働きもなくて・・その方面のことを封じられてゐるといふのである。・・これは曾てヨオロツパでは、或はヨオロツパ人の一部では全面的に信じられてゐたことがあつてこれは魂の有無を根拠とし、この場合は精神が魂の一部をなすものと見做されて・・人間以外の動物が自然の作用で全く機械的に動くものと見做された。これはデカルトもその説でそれをヴォルテエルがその哲学辞典で読んで羨ましくなる筆致で反駁してゐる。我々にとつて不滅の精神の有無はどうだらうと構わないことである。併し精神といふことになると話が違つて・・精神は解剖学的には脳髄の働きに属する一切をもつと一般的な見地から精神と我々が呼んでゐるので・・従つて脳髄がある動物である限り精神があるのは定義通りのことであつてその定義を拒否すべき根拠は全くない。ヴァレリイは精神を説明するのに本能といふことから始めてゐて動物が森の木陰で休んでゐる際に耳慣れない音を聞いて警戒心を起すといふ所から精神の働きに就て話を進めてゐる。この本能が敵意にも愛情にも悲哀にも変り、その時にその動物のうちに働くものは既に精神である。・・もし何かと何かを或る時別な意味を持たせて区別することが必要である場合といふものが考へられるならばそれは生きてゐるものとさうではなくて物質と呼べるものの違いであつて我々にあるさういふものは小鳥にもある。

 わたくしはこれを金科玉条として生きてきたように思う。人間は動物であるというのは、医療にたずさわっていれば、あまりに当然のことであって、あえて指摘する必要さえ感じないくらいである。問題は、人間が動物であるというのはいいとして、しかしただの動物ではないという方向に議論が走る場合である。
 ここから本書に入る。その「序」でラマチャンドランはいう。

 人間は真にユニークで特別な存在であり、「単なる」霊長類の種の一つではない。

 そしてつけくわえる。

 私はいまだにこれが、かなりの防御を要する立場であることに少々驚いている。

 誰に防御を要するのか?