新聞で紹介されていたので購入したのだが、パラパラと見た印象ではわたくしにはどうも苦手な方向の本のようである。明確にカトリック教徒としての須賀氏を論じた本のようで、「霊性」とか「霊と肉の相克」とか「キリスト者」とかとかいった言葉にあふれている。
わたくしの考えでは、信仰というのは神(あるいは何らかの超越者)のほうが人間をつかまえることによって始まるのであって、人間のほうが頭で(理性で)考えて信仰にはいるなどというのは全部邪道であると思っている。
神秘体験というのは神が人をつかまえにくる一つの典型的な形であろう。
だからキリスト教でいえば、カトリックのほうが本物であってプロテスタントは贋者であるというのがわたくしの抱いている偏見である。キリスト教文学といわれてものの中でもまともなのはカトリック信仰を持つものが書いたもので、プロテスタント信仰を持つ作家が書いたものには碌なものがないというのもまたわたくしが持つ偏見である。
須賀氏の著作をそれほど読んでいるわけではないが、氏がコルシア書店の運動に参画したのは須賀氏の持つカトリック信仰によるのであろうが、そしてコルシア書店の運動というのがカトリック信仰を持つものが行う運動の中でもかなり片寄ったものであったように思われるが、氏はただ信じていたのであって、氏の著作には氏がした活動については書かれていても、神学論争的な記載は見られなかったように思う。
われわれが氏の著作に接して感じるのは、ある種の静謐さとでもいったもので(しかし、直接氏に接したひとが須賀氏の車の運転をまるでイタリア人のような乱暴な運転だったと書いていたから、日常生活は静謐とは正反対の人だったようだが)、その静謐をもたらしたものが氏のカトリック信仰であったとしても、それは何もカトリック信仰を持つものでなければ得られないということはないはずである。
わたくしは二十台の半ばから、吉田健一を自分の神輿として担いできたが、その吉田氏は反カトリック(あるいはそれに類するもの)の闘士であったのだと思っている。
「重要なのはギボンにキリスト教といふものが一種の狂気にしか見えなかつたことである。・・・古代に属する人間にとつてキリスト教は明らかに狂気の沙汰である他なかつたのであり、その狂気が十数世紀も続いたならばヨオロツパがヨオロツパであるには古代の理性が均衡の回復を図らねばならかつた。」 「ヨオロツパの世紀末」第3章
「冬の朝が晴れてゐれば起きて木の枝の枯れ葉が朝日といふ水のように流れるものに洗はれてゐるのを見てゐるうちに時間がたつて行く。どの位の時間がたつかといふのではなくてただ確実にたつて行くので長いのでも短いのでもなくてそれが時間といふものなのなのである。」 「時間」書き出し
「本当を言ふと、酒飲みといふのはいつまでも酒が飲んでゐたいものなので、終電の時間だから止めるとか、原稿を書かなければならないから止めるなどといふのは決して本心ではない。理想は、朝から飲み始めて翌朝まで飲み続けることなのだ、といふのが常識で、自分の生活の営みを含めた世界の動きはその間どうなるのかと心配するものがあるならば、世界の動きだの生活の営みはその間止まつてゐればいいのである。」 「酒宴」
「兎に角、正月に他のものよりも早く起きて既に出来上がったこのおせちを肴に同じく大晦日の晩から屠蘇散の袋が浸してある酒を飲んでいる時の気分と言ったらない。それはほのぼのでも染みじみでもなくてただいいものなので、もし一年の計が元旦にあるならばこの気分で一年を通すことを願うのは人間である所以に敵っている。」 「私の食物誌」の「東京のおせち」
最初の「ヨオロツパの世紀末」からの引用を除けば、どこがアンチ・カトリックかということになるかもしれないが、大事なのは精神がこちこちにならないことで、信仰をもつものはしばしば、そのこちこちになりがちであるようにわたくしは感じているからで、その非「こちこち」を表している文章をいくつか例示したつもりである。
この本の著者の若松氏もまたこちこちへの傾向を少なからず持つ人のように感じる。
本書も須賀氏を論じるというより、須賀氏の書作を論じることを通じて自分のカトリック観の正しさを主張しているように思える箇所が多くみられる。
わたくしから見ると、人が神について論じること自体が人と神が対等の立場に立つ神を神とも思わぬ冒瀆的な行為であるように思うのだが・・・。
そういうことでパラパラとめくってはみたが、これからきちっと通読することはないかもしれない。