⑤ 橋本治「ぼくたちの近代史」

 橋本治の「ぼくたちの近代史」(河出文庫 1992年 単行本 主婦の友社 1988年)は1987年におこなわれた講演を本にしたもの。3部にわかれ、全6時間というとんでもない講演で、その第一部はほとんど全共闘問題だけが論じられている。いままでいくつか読んだ全共闘運動について書かれた文章の中で、わたくしには一番しっくりくる説得的なものである。それは、橋本氏が、例の「とめてくれるなおっかさん・・・」で有名になった人であっても、その時期、全共闘運動のそとの「一般学生」として過ごした人間であり、わたくしもまた「一般学生」として過ごしたからなのかもしれない。
 さて、橋本氏によれば、全共闘のことは、みんな知っているけれども、同時に、実はみんな知らない。当事者さえも知らない。「結局あれは、なんだったんでしょうね」とかいっているのだそうである。それで、橋本氏によれば、

 あれは「大人は判ってくれない」ですよね。それだけなんですよね。「大人は判ってくれない」で、なんか二年くらいドタバタやってた。で、「大人は判ってくれない」と言ってた彼らは、何を判ってもらいたかったんだろうか、ってこともあんですよね。で、何を判ってもらいたかったんだろうかっていうと「“大人は判ってくれない”と言って僕達がドタドタ叫んでいる、そのことを判ってほしい!」って風に言ってたから、ある意味でその“目的”は、自分自身の中に返ってっちゃうのね。

 その当時運動にかかわっていた人が読んだら目を剥くような物言いである。
 それで、橋本氏にいわせれば、全共闘運動というのは百姓一揆なのであり、「セクト」という形で規定されない「それ以外のもの」、つまり「非セクト」、ノン・セクト・ラディカルであり、「セクト的であることはやめよう。我々は、仮に『全共闘』というような、枠組をもたない、熱気によって出来上がっている一つの集団でありたい」というものであったのだという。ここら辺りは小阪氏の見解に近い。主張ではなく熱気である。
 けれども、戦いがはじまるとセクトになるしかない。しかし、「大人は判ってくれない」だから理論がない。一見理論のようにみえるものも難解な言葉で作られた情念のコラージュとなってしまう。小阪氏が感性ということを強調するのも、そこにかかわるのであろうし、三島由紀夫全共闘のタテ看は何を言いたいのかはちっともわからないけれども、性欲過剰であることだけはよくわかる、といっているのにも通じるのでろう。
 問題は、反乱をおこしたあとで、その反乱の目的が問われることがなく、「あの時代、二年間情動発散しちゃったなァ、俺達なァ」という人たちがたくさんいて、それが一番普通の学生だったことにあるのことなのだ、と橋本氏はいう。
 その時代に、全共闘世代が運動の中で見出したのは、小さい頃、原っぱでしたチャンバラごっこ、あるいは戦争ごっこの楽しみなのだという。そして、その戦争ごっこの中ではじめて「友達」ができてきたのだという。わたくしのような昭和22年生まれが小学生の時には、たしかに原っぱというものがあった。考えてみれば、それは他人の土地であり、たまたまそこが未使用であるということであったはずなのであるが、勝手に入りこんで野球などをしていた。橋本氏(昭和23年生まれ)はわれわれの世代のもっとも濃密な原体験は“原っぱでの遊び”だったのだという。全共闘運動での大学封鎖で生じた空間に、われわれの世代は“原っぱ”を想起したのであり、その運動の中で“友達と遊ぶ”ことの楽しさを思い出したのだという。
 ところで、橋本氏によれば、ニューアカというのは、難解な言葉を使っていても、煎じつめると、「僕達が言いたいことは、“みんな嫌いだ”っていうことだけ」なのだそうである。おそらく、小阪氏もいうように全共闘世代の根底にあるものは世界への違和感であるのかもしれない。「みんな嫌いだ!」である。そして同時に「みんな嫌いだ! ということをわかって欲しい!」でもあった。「連帯をもとめて孤立をおそれず」である。橋本流にいえば「“大人は判ってくれない”と言って僕達がドタドタ叫んでいる、そのことを判ってほしい!」である。
 「討論 三島由紀夫vs.東大全共闘」(新潮社 1969年)で、三島はこんなことをいっている。

 私はモーリヤックの書いた「テレーズ・デケイルゥ」という小説をよく思い出すのです。あの中に亭主に毒を飲まして殺そうとするテレーズという女の話がでてまいります。(中略)テレーズは、「亭主の目の中に不安を見たかったからだ」というのであります。私はこれだなと思うのですが、諸君もとにかく日本の権力構造、体制の目の中に不安を見たいに違いない。

 相手が不安になるということは、相手に何かが届くということである。自分を一人前と認めてもらえるということである。
 国家と対等に闘っているという気分をもてる状態になること、それが全共闘運動の求めたものではなかったのだろうか? それで思い出すのが、前にも引用した司馬遼太郎の言葉である。

 東京大学の構内で数多くの小集団が入りみだれてなぐりあっている。国家がそれをながめている。日本史上、これほど軽い国家をもったのはいまがはじめてだし、傍観している国家の物うげな、とまどったような表情は、歴史にのこりうるほどのすばらしさである。
 国家があまりに軽いので学生たちはやるせないのかもしれない。やるせなさのあまりあばれているのか、それともべつな重い国家がほしくてそれを暗闇からひきだしてくるために駄々をこねているのか、このあたりはきわめて心理的な要素がつよく、学生指導者のいうことを読んでみても明快にはわからない。(司馬遼太郎「軽い国家」1969年1月)

 “駄々をこねている”といい、“大人はわかってくれない”といい、まるで子供扱いである。子供を相手に、国家は傍観している。当然、相手にもしていない。それを当時の学生たちは感じていたのだろうか?
 こういう国家の状態、もはや露骨な弾圧ではなく、目には見えないソフトな管理をおこなう国家という像を提示したのがフーコーだったような気がする。
 またこれも以前に引用した司馬氏の文章。

 三派全学連が大学の窓ガラスを一枚割ってみた。誰も叱りにこない。こんどは百枚割ってみた。やはり誰もこない。教授たちもだまって見ているだけです。そしていかにも教授たちの生命を脅かしそうな様子をみせたときだけ、大学は機動隊を呼ぶ。国家というものがそこまでゆるやかなのです。機動隊がくると、三派諸君ははじめてうれしそうに国家権力が介入してきた、などと叫ぶわけです。国家権力というものは、十九世紀までは、いや第二次世界大戦のころまではそんなチャチなものではなかった。もっと重苦しく威圧に満ち、じつにまあイヤなものだった。
 つまり三派全学連が敵としているのは、戦前の国家の幻想です。ありもしない国家権力というやつです。そこが彼らの運動の不毛なことろですね。(司馬遼太郎「日本史からみた国家」1989年8月)

 そして思うのだけれど、この司馬氏の言葉は三島由紀夫の言動にもあてはまってしまうのかもしれない。三島由紀夫日本共産党があるいは全共闘がもっと本気で自分を敵と思ってほしかったのだと思う。真剣に自分を殺しにきてほしかったのだと思う。敵がもっと強大であって欲しかったのだと思う。1969年あたりをきっかけに日本の左翼運動が急激にしぼんでいくのを切歯扼腕して見ていたのだと思う。1970年に日本が騒然とした政治状況になると思っていたら、何もおきそうもない状況となって無念やるかたなかったのだと思う。自分が何をしなくても相手が勝手に転んでしまった。「豊饒の海」の最終巻はあんなものになるはずではなかったのだと思う。「月蝕」という題名で当初予定された最終巻は、輪廻転生による主人公は現れず、それを騒然とした革命前夜の日本の混乱の中を本多繁邦が捜し求める構想だったはずである。敵が大きければ三島も死ななくて済んだはずである(混乱の中で斬り死するのが願いだったとしても)。三島もまた戦前の国家の幻想を求めたのである。敵のはっきり見えるもっとすっきりした国家を。「なぜ外部の社会はスポーツのように透明ではなく、スポーツのように美しくないのだろう!」(「剣」三島由紀夫短編全集6 1971年 講談社

「ぼくたちの近代史」は絶版のようである。