バーバラ・ステーィリンク「イエスのミステリー 死海文書で謎を解く」

 この「イエスのミステリー 死海文書で謎を解く」(NHK出版 1993)は橋本治氏の「宗教なんかこわくない!」(1995年 マドラ出版 のち ちくま文庫)を読んだときに知ったのだが、とてもわたくしには歯が立たない本と思ったので読まなかった。なにしろわたくしは旧約も新約もほとんど読んでいない。
しかし今回、思うところあって挑戦してみた。

 原題は「Jesus the Man」で「イエスという男」。つまり紀元前後に神ではないイエスという一人の人間がいたという話である。400ページをこえる大型本の半分は注釈というという本で、到底簡単に要約できるものではなく、わたくしの能力も越えるので、ここでは橋本氏の要約を紹介する。
 「イエスは人間の子で、父ヨセフと母マリアが正式の結婚をする前に生まれてしまったので、“私生児”扱いされるしかなかった、ダビデ王家の血を引く王子様」であり、「ローマとユダヤと彼自身の教団との三つ巴の争いの中で十字架にかけられて死んだけれども、すぐに息を吹き返して、そのまま七十を過ぎても生きていた“ユダヤ人の宗教家活動家にして思想家”」であると。
 「十字架にかけられて死んだけれども、すぐに息を吹き返して」というところが問題。スィーリングの本によれば、十字架にかけられただけではすぐに死ぬわけではなく、死にいたるまで通常8日くらいはかかるので、その苦しみを軽減するため毒盃をのませる慣行が当時あったのだが、イエスの場合毒盃ではなく強い眠り薬をのませてほとんど死んだように見える状態にして、その死を偽装し、十字架からおろし、一旦墓に収めたあと、そこから信者たちが取り戻したのだという。
 スィーリングの本では以下のようにいわれる。「超自然的なことは何もおこらなかったし、幻もなかったということである。そういうものは「赤子」のための虚構である。」「霊魂の不滅というヘレニズム的見解を持っていたひじょうに多くの異邦人たちを、メンバーとして保持し続けるための手段となるであろう。」

 つまり、福音書とは「赤子」と「大人」の双方を対象にしているために非常にわかりにくいものになっているのだ、と。現在残されている福音書は表面的には「赤子」のためのお伽噺のように書かれているようにみえるが、「大人」が読めばその奥にあるもっと深い含意が読み取れるように書き残されているので、非常に分かりにくいものとなっているのだと。

 ブッダは悟りを得た人である。ムハンマドも啓示を受けた人である。人であるから、ともに死んでいる。しかしキリスト教のみは、イエスは死んでいない。天に上り、神の右に坐したことになっている。
 これが大きな問題で、われわれがその教義をそのまま受け入れるいえことには、現在では非常に大きな困難をともなうようになっている。宇宙の構造がどんどんと明らかになってきて、地球がそのなかのまことにちっぽけな星であることがあきらかになってきた現在、「天」というのはどこにあるのだろう? こんな言は宗教というものの本質をまったく理解していない愚か者の妄言、あたかも恋愛を脳内伝達物質の変化で説明しようとするような馬鹿げた話として一蹴されてしまうのかもしれない。しかし、そういう議論を回避するような反応をしていると、宗教というのが、どんどんと世の中から取り残されていくことになるだろうと思う。しかもわれわれは明治期の西欧受容によって、西欧の宗教であるキリスト教こそが本物の宗教であるという見方を受け入れてしまったという歴史を持つ。

 こんなことを書いていたら、なぜか林達夫氏の「邪教問答」を思い出して読み返してみた(「共産主義的人間」(中央公論社文庫)、「歴史の暮方」(筑摩叢書)などに所収)。1947年に書かれたものである。ある女性クリスチャンが周囲に邪教が広がっていくことを嘆いた手紙への答えという形で書かれている。「人類の近代史とは何でありましょう。宗教の破砕と飛散との歴史ではないでしょうか。」「既成宗教は・・・もはや過去における、宗教が真に人心を支配していた時代の「痕跡器官」にすぎません。」「正直な馬鹿者と悪辣なペテン師から宗教が生まれると18世紀のヴォルテールはいった。」「山と集まる教団資金の問題ですが、・・、初期のキリスト教徒集団で教団を維持する資金のお問題は生じていた。」「宗教運動とは「人間のみじめさ」のはぐくむ切ない悲願や凄まじい希望を培養素として・・行われる救済または解放の運動である」・・
 林氏のような大碩学キリスト教信仰が西洋の歴史の中のもっとも美しい部分を生み出してきたことを十分に理解している。と同時にその信仰が西洋の歴史の暗い部分の太い根にもなってきていることをまた十二分に理解している。
 橋本治氏によれば、「宗教というのは、シュールなものである。神がいたり。仏がいたり、神の子がいたり、それが処女から生まれたり。」そうなるのは「信じるというのはシュールなものを信じることである」と思い込んでいる人達がいるからである・・・」

 「イエスのミステリー」を読むと、処女懐胎といった話がでてくるのも、エッセネ派の教義をみれば、ある程度は理解できるように思えてくる。彼らは極端な禁欲主義者で、独身主義を最善とした。結婚と性は汚れたものと考えられた。「最近性交渉を持ったものは誰しも、三日間神殿から排除された。」「性交渉は子供をえるという理由のためだけに許された。」 彼らの教義からすれば、汚れた性交渉の結果として未来の神が生まれるなどということは許されないのである。

 橋本氏はいう。「「キリスト教こそが宗教だ」という考え方をしてしまうと、とんでもなく精神衛生上よくない結果になってしまう・・」「宗教はいらない、信仰なんかバカげている」と言うと、後ろで血だらけの人が十字架を背負ってそっとたっているみたいな気になってしまう。」と。

 最近のマスコミの物言いをみても、「全財産をある教団につぎ込むなんて馬鹿じゃないの」とは、かりに思ってはいても口には出せないようである。どう考えても、この教団の教義?は仏教よりはキリスト教に近いとわたくしは思うけれど、「信じるというのはシュールなものを信じることである」という思い込みが解消されない限り、今回のようなことはまた繰り返されていくのだろうと思う。

 さて、橋本氏はグノーシスの思想は「キリストを信ずるという「受動的」なものではなく、「キリストのようになりたい」という能動的なものだったというのだが、その論拠がよくわからない。グノーシスの解説書をみても、そうは書いていないように思う。

 大貫隆訳・著の「グノーシスの神話」(岩波書店 1999)では、ナグ・ハマデイ文書でみる限りという断り書きつきではあるが、そのすさまじい禁欲主義が紹介されている。

 またバートン・L・マックの「誰が新約聖書を書いたのか」(青土社 1998)では、宗教を人知をこえたもの、ただ信じて受け入れるだけのものと考えると、碌なことがおきないことが縷々述べられている

 最近の新興宗教についての議論をみてもな腰が引けている。
というのは、さまざまある新興宗教には問題のあるものが多いことは事実だが、「この世には本物の宗教があるのも事実」で、それらを混同してはいけない、あるいはこの事件によって宗教一般を否定するようなことがあってはならない、みたいなことをかならず議論の前置きにするのである。「え? まだ宗教なんか信じているひとがいるのですか? などというひとはいない。あるいはそう思っていても何らかのさしさわりがあるのかいわない。

 おそらく「ココロ」と「モノ」ということがあって、「モノ」をどうみるかについては世の中は着々と進歩してきているが、「ココロ」については今でも千年・二千年前でもかわらない、あるいはむしろ真理は千年前・二千年前にすでに発見されている、みたいな感じなのである。

 しかし、宗教が語る様々な物語を、はるか昔のひとびとがどのようにして自分達が今のようになったかを考えてきた過程で生じた様々な解釈と考えれば、それはそれで大変に面白いものである。

 筒井賢治氏の「グノーシス 古代キリスト教の〈異端思想〉」(講談社 選書メチエ 2004年)では、プトレマイオスの説教として「見ることも名付けることもできない高みに先在したアイオーンがある。これは原初とも原父とも深遠とも呼ばれる。・・彼と共に思考(エンノイア)があり、これは恩寵とも沈黙とも呼ばれる。・・・」「アイオーンは男性的存在で「至高神」である。・・・」
 このあたり何回読んでもチンプンカンプンなのだが、ともかく、イエスなどはこの大きな物語のなかでは端役である。また、p95にある「バシレイデースの宇宙創成神話の図」では最上位に「存在しない神」がいてイエスなど端役である。

 わたくしは昔、合唱をしていたことがあり、それでミサ曲なども歌ったが、そこには「クレド」という楽章があり、Credo in unum Deumと開始される。「わたくしは唯一の神を信ずる」 歌っていて何も思わなかったが、unumが大事らしいということが段々わかってきた。神がたくさんいる宗教とキリスト教は熾烈な争いをしてきた歴史を持つのである。

 しかし日本はまだいいのだが、キリスト教をバックボーンとして成立する西欧世界ではキリスト教を古代に様々あった宗教が歴史の中でたまたま生き残った宗教などという見解は到底受け入れられないひとがまだまだたくさんいるらしい。それゆえにナグハマディ文書とか死海文書の発見などがとんでもない論争を巻き起こすことになるらしい。

 ベイジェント&リーの「死海文書の謎」(柏書房 1992)などもそれをあつかったものの一つだが、読んでいてほんとうにいやになってしまうくらい煩瑣なものである。

 幸い、われわれは宗教について西欧にくらべればはるかに自由に発言できる立場にいるのだから、それに対してもっとあっけらかんとした態度がとれるのではないだろうか?