M・ウェーバー「職業としての学問」

  岩波文庫 1936年
  
 長尾龍一氏の「争う神々」(信山社 1998年)を読んでいたら、やはり「職業としての学問」を読み返さねばわからないのかなと思った。以前読んだのは大学生のころで、何だか随分と顰めつらしい話だな思ったことしか覚えていない。
 それでこの尾高邦雄訳の岩波文庫を読んでみたが、さっぱり理解できない。それでインターネットを見ていたら、岡部拓也という方が、自分の翻訳を公開しているのを見つけた。その岡部氏の訳のタイトルが「職業としての科学」である。ウェーバーの原題は、Wissenschaft als Beruf である。Wissenschaft は手許の辞書では、学、学術、学問、科学(特に自然科学)とある。うれしいことに岡部氏のページでは公開されている英訳版(Gerth & Mills 訳)ともリンクしていて、その英語版のタイトルは、Science as a Vocation なのである。そしてこのネット上の英訳のほうが、尾高氏の日本語訳よりもよほどよくわかる。
 それで、この英訳を適宜参照しながら、尾高氏の訳を見ていくと、少しはいっていることがわかるような気がしてきた。
 文庫版尾高訳の最初のどうやって職を得るかという世知辛い導入部(p9〜21前半)は無視して、本論の前半(p21後半〜p47前半)は、自然科学の発達が呪術的な見方を駆逐してきた、といういたって常識的なことをいっているだけなのではないかと思う。そして本論の後半は、それでは人文学ではどうなのかと言う問いを出し、自然科学と異なり、一定の方向に議論が収斂していくということはなく、いろいろな主張がいつまでたっても並んで存在し続けていくという、これまた当たり前といえば当たり前のことをいっているのではないかと思う。この講演がなされた1919年当時を考えると、マルクスの主張したことは科学的真理ではありえないと主張することは意味があったのかもしれないが。
 したがって人文学におけるある主張を受けいれるということは、それは自分が選んだということであっても、決して真理に至ったということではないということを銘記せよ、というのがいいたいことなのではないだろうか? 真理を知ったと思って浮かれて町に出るのではなく、自分の持ち場でやるべきことをせよ、と。
 この講演がなされたのは第一次世界大戦後の混乱の時期であり、学生達が浮き足立っているのをみて、それぞれの持ち場に帰れと主張したのであろう。それから50年後の1968年に置き換えれば、ヘルメットをかぶり覆面をして角材を持ち「研究室封鎖!」を叫ぶ学生たちにむかって、「君たちには、わからないだろうが、古文書の解読のようなものこそ学問なのだ」といっているようなものである。おそらく、1968年の学生達は一言「ナンセンス!」と否定したであろうが、1919年のドイツでは、1960年安保のころの日本と同じく、まだ知識人というものが少しは尊重されていたのかもしれない。
 さて、ドイツの学生たちは「職業としての学問」あるいは「職業としての科学」(「科学を仕事とすること」というような訳のほうが日本語としてこなれているだろうか?)ということを聞きたかったのであろうか? 原語の職業は Beruf なのである。英語では vocation である。どちらも招命の意味も持つ(これが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」のトリックの源泉であった)。学生たちが聞きたかったのは、「科学は命をかけるに値する仕事か?」ということなのではないだろうか? 端的に「科学は男子一生の仕事たりうるか?」ということではなかったか?
 それにはウェーバーは明確にノーなのである。トルストイの言葉を持って答えている。学問は(という尾高訳であるが本当は、科学はであろう)「無意味な存在である、なぜならそれはわれわれにとってもっとも大切な問題、すなわちわれわれはなにをなすべきか、いかにわれわれは生きるべきか、にたいしてなにごとをも答えないからである。」 ウェーバーはいう。「生命が保持に値するかどうかということ」は医学の問うところではない、と。
 困ったことに、ウェーバーニーチェに深く共鳴する人間で、「深さ」のない「最後の人間」が大嫌いな貴族主義者なのである。われわれにとってもっとも大切な問題、すなわちわれわれはなにをなすべきか、いかにわれわれは生きるべきかに関心がない「浅い」人間を軽蔑する。だから本音では科学を嫌う。しかしその科学を「自然科学」に限定してしまい、人文学はなんとか守りたいのである。だが、自然科学による脱呪術化という歴史は受けいれているから、人文学も科学の方法論のなかに置きたい。事実の尊重は貫きたい。だから古文書の解読こそが学問であるとしたい。しかし、古文書の解読などという辛気くさいことをしていると血が騒ぐ。だから古文書の解読が「われらなにをなすべきか」への答えに繋がると信じたいのである。「われらなにをなすべきか」に答えられないのは自然科学なのであって、人文学はそうではないと思いたい。しかし人文学は神々が争う場であって、正解がある場ではない。だがしかし、せめて自分はその神の一人にはなりたい。そもそも神の一人になりたいというくらいの気概のない凡人たちは、家に帰ってそれぞれの持ち分を黙って果たせばいい、というのが本書なのではないだろうか?
 本書がわかりにくく、混乱しているようにしているのは、選ばれた一部のもののための規範と、その他大勢のための規範がまったく異なるものとされていて、ウェーバー自身は自分を選ばれた選良と思っていて、聴衆の学生たちをその他大勢と思っているからではないだろうか?
 以上、ほとんど根拠のない無責任な感想である。
 

職業としての学問 (岩波文庫)

職業としての学問 (岩波文庫)